右手のない天使
ゴールデンウィークもあっという間に終わり、初夏の兆しが見え始めた土曜の午後、上原和美は改札口で新聞部の先輩である立花聖夜をずっと待っていた。待ち合わせの時間まではまだ15分ある。今回入部してから初めて学外取材に連れて行ってくれるということで和美は少し緊張していた。そうしてそわそわしていると後ろから声をかけられた。
「よう、和美。待ったか?」
「いいえ、セイさん。全然待っ……」
振り返ると聖夜がいぶかしげに和美を見つめていた。
「セイさん。なんで制服じゃないんですか!?」
確かに聖夜はポロシャツにジーンズ。靴はスニーカーといつものいでたちである。髪もショートカットで男性的とまではいかなくても、よくて中性的といったところだろうか。
「だってセイさん、今日は遊びじゃないんだから制服で来るようにって言ってたじゃないですか!」
「あれ、そうだっけ?まあ、細かいことは気にするな」
「……」
そう言って笑いながら歩き出した聖夜に和美は無言でついていくしかなかった。
10分ぐらい歩いた後、聖夜は和美をある病院に連れて来た。そこのベッド数は200床以下だが、たいていの診療科はそろっている。学校からだと電車で30分ぐらいかかるので、そんなに近いわけでもない。
「セイさん、ここで何するんですか?ありふれた病院にしか見えないけど。まさか診察を受けに来たわけじゃないですよね」
「別に医者にかかるわけじゃない。言っただろう。今日は取材だ」
「ほんとですか?」
意外な答だったのか、和美は不思議そうに尋ねた。取材相手は誰かと。
「特に決まった取材相手がいるわけじゃない。この病院では土曜の午後には外来がないけど、今日は特別に病院全体で訓練がある。その様子を写真に撮ってくれればいい。病院から撮影許可はもらってある」
「へー、何の訓練なんですか?」
「トリアージだ」
「トリアージ?」
和美はその言葉を聞いたこともないのか、キョトンとした顔をしている。それでも聖夜はすぐにわかるとだけ告げた。説明する気はないようだ。
そのまま病院の4階へ行き会議室に入った。中には20人ぐらいの若い男女がいた。ほとんどは病院の職員にしては若く、むしろ学生に見える。そのなかに1人だけ40代ぐらいの女性がいて指示を出していた。
「はい、みなさん訓練開始の2時まであと30分しかありません。てきぱきと準備しますよ」
「これから何が始まるんですか?」
「怪我のメイクだ。彼女は特殊メイクの専門家で今日はトリアージ訓練に協力するために来ている。ほら、遠慮せずに撮影を始めろ。準備中の姿を撮るのも取材の一部だ」
「え、セイさんは撮らないんですか?」
「私は今日、参加者の1人だ」
そのまま聖夜はいろいろな道具らしきものが置いてあるテーブルに向かった。残された和美はどこを撮ろうかと辺りを見回した。そして最初は指導者からだと思い、先ほどからいろいろと指示をしている女性にカメラを向けた。
「トリアージ」という言葉の意味を知らなかった和美だが、なんとなくどういう訓練なのか少しずつわかってきた。怪我のメイクをするということは、怪我人役を用意することだろう。つまり、地震などで多数の負傷者が病院に一度に押し寄せた時に、きちんと対応できるようにするための訓練ではないかと推測した。
腕や脚の上に何かが貼られている。それを着色していくともう怪我にしか見えない。なかにはかなりグロテスクなものもあった。和美はそのメイクの様子を写真に撮っていた。
「あなたが聖夜さんの助手のかたですか?」
和美が振り向くとナース服を着た少し小柄な女性が立っていた。年齢は50前後だろうか。
「はい、セイさんの後輩です」
思わず普段どおり、「セイさん」と言ってしまった和美だが、相手の女性は気にした様子もなく話を続けた。
「今日は聖夜さん、写真を撮らないのかしら?」
「えっと、自分は今日、参加者だと言っていました」
「そう、あなたに全部任せたということなのね。それでは今日のことお願いしますね」
それだけ告げると、彼女はそのまま会議室から出て行ってしまった。和美はあとで聖夜にあの人が誰かを確認することにしてそのまま撮影を続けた。
特殊メイクが終わると怪我人役の参加者が集合地点である駐車場へ移動し始めた。外来診療は午前で終了しているので車両の数は少なく、十分なスペースがあった。彼女たちは看護学校の学生であることを和美は撮影しながら確認していた。ほとんどの学生がこういった訓練が初めての体験らしく、特殊メイクにやたらと感心している。
時間が来たのだろう。白衣を着た医師らしき男性が所定の位置についている。その周りには看護師だけでなく、事務の制服を着た女性もいた。やはり病院全体での訓練らしい。
開始の合図のあと、怪我人役の学生たちが押し寄せてきた。なりきっているなと思いながら和美はその様子を写真におさめた。トリアージのタグは赤、黄、緑、黒の4色の表示があり、怪我の程度によって色が違う。和美は色の違いの説明を受けたわけではないのだが、何人かの対応を見ているとその意味を理解し始めていた。最初に怪我人を診る医師は治療をしない。怪我の程度を判別するのが彼の役目だ。
「先生、落ちてきた看板で怪我した。お願い」
聞いたことのある声がしたのでそちらを見ると聖夜が医者に腕を見せていた。左手ではない。特殊メイクがされた右腕はまさに右手が切断されたばかりのように見える。若い事務員らしき女性は小さく悲鳴を上げた。
「はい、軽い創傷ね。緑をお願い」
若い男性医師は特に驚く様子もなく、指示を出した。
「だめだよ、そんないたずらしたら。これはまじめな訓練なんだから」
聖夜はニヤニヤしながら頭を下げた。どうみても反省していない。実は彼女は小学生になる前、事故で右手を失っている。もともと手がない右手首に特殊メイクをしたせいで、まるで今切断されたばかりのように見える。確かに心臓に悪い。
「ちょっとセイさん。職員さんたちひいていますよ。それ、やりすぎ」
「いや、あの医者に会うのは初めてだからうまくいくと思ったんだけどな。たぶん部長さんから聞いていたんだろう」
和美が部長とはだれのことかと尋ねるとメイクしているときに会議室に入ってきた女性と教えてくれた。
「それでこれからどうするんですか」
「訓練の重点要素はこれからだ。取り損ねるなよ」
その言葉に和美は聖夜が向いているほうを見た。すると即席の担架に運ばれた怪我人役の女子学生が見える。かなりの重傷という設定なのだろう。聖夜が言っているのはこのことかと思い、カメラを向けた。
「黒」
その一言を発するのに男性医師の表情がゆがんだ。ファインダーを通して見ていた和美は思わずシャッターを押してしまった。
「そんな、先生、助けてください」
彼女を運んできた男性が医師に詰め寄った。演技のはずだがとてもそうは見えない。思わず訓練だということを忘れてしまいそうになる。
「セイさん。黒って亡くなった人につける色じゃないんですか」
「確かにそうだがそれだけじゃない。ただちに処置を行っても明らかに命を救えない場合も黒だ。理由は言わなくてもわかるよな」
「命の選択ですか」
「そうとも言える」
「ねえ、あの人死んじゃうの?」
2人が振り向くと小学校高学年ぐらいに見える男の子が立っていた。その顔は不安というよりも何かにおびえているように見えた。
「あれは訓練だよ。ホントは死んだりしないよ」
和美はしゃがんで男の子に目線を合わせて話した。子供にとってあのメイクは刺激が強すぎる、怖がるのは無理もないと彼女は思った。
「そんなのわかってるよ!訓練としてあの人を死なせるのかと訊いているんだ!どうして助けようともしてくれないの?なんで最初からあきらめるの?」
男の子にどう答えようかと和美は聖夜のほうを見た。子供に物事をわかりやすく説明するのは苦手だ。しかし、何かを言う前に男の子はまた口を開いた。
「どうせ裕也のことも同じだ。最初からあきらめてるんだ」
それを聞いて聖夜は男の子へ近づいて来た。
「だれがあきらめているだって?」
その顔は笑っていたが、声はどこまでも冷たかった。
「ちょっと、セイさん。目が笑ってないですよ」
慌てて和美がたしなめるが、聖夜は表情を変えようとしない。
「裕也というのは友達か?」
「……」
「なるほど、この病院に入院しているんだな、その裕也という友達が」
その言葉に思わず男の子は大きく反応した。とても驚いた顔をしている。
「なんでわかったの」
「なんでだと思う?」
聖夜はいつのまにか笑顔で話し始めていた。先ほどまでの恐い顔が嘘のようだ。
「私もこの病院に入院していたことがあるんだ。ほら、見てごらん」
そう言って、パーカーのポケットから右腕を出して見せたが、まだ特殊メイクがされたままである。
おびえる男の子の前でメイクを落として怪我をしているわけではないことを理解させた。
そして、聖夜は自分が大怪我をして入院したときのことを話し始めた。それは和美にとって初めて耳にする話だった。
事故で意識を失い、気がついたら右手がなかったこと。右手以外の怪我は治っていくのに右手はなくなったままだったこと。そして退院の日にはっきりと理解した、右手はもう元に戻らないということ。
「その時に、先生に言ってしまったんだよな。どうして治してくれないの?ってな」
なぜ初めて会った見知らぬ子供にそんなことを教えるのだろうと和美は思っていた。しかし、聞いているうちに聖夜の気持ちが伝わってくるのを感じた。子供の何気ない一言は、容赦なく大人の心をえぐることがある。だから例え見ず知らずの小さな子供でもそんなことを言って欲しくないのだろう、和美はそう理解した。
「ねえ、君の名前を教えてくれる?私は和美って言うの」
いきなり会話に加わってきた和美に男の子は少し驚いた表情を見せた。しかたがないなといいながら聖夜もそれに続いた。
「私の名前は聖夜」
「……僕は直樹」
和美が名前しか言わなかったせいか、全員苗字を教えてない。だが和美は気にした様子もない。
「よし、じゃあ訓練が終わったら裕也君のところにお見舞いに行こう!」
「いきなり何言ってんの。今日初めて会ったのに」
「大丈夫、大丈夫、これから友達になればいいから。一緒に訓練に参加すればそれで十分」
聖夜があきれた様子で眺めているが、和美からしてみれば自分がこんなに強引な性格になったのは聖夜の影響を受けたからである。もっとも本人は否定するであろうが。
その押しの強さに負けたのか、直樹はトリアージ訓練に参加することになった。といっても怪我の特殊メイクする時間があるわけでもないので見学するだけであるが。
その後、和美たちは病院のあちらこちらで訓練の様子を見て回った。地震で停電になり、エレベーターが止まったという設定で患者を階段で運ぶ訓練。同じく停電で電子カルテが使えないので手書きで紙カルテを作る様子。
そして最後に黒のトリアージタグをつけられた人が運ばれたチャペルへ行った。さすがに霊安室は使われていない。怪我人役(死体役?)の人も寝ているだけなので、訓練に参加した人の中では一番楽である。
「セイさん、インタビューしてみましょうか?気分はいかがですかとか」
「それより、『あんたに救う価値なし』と宣告された気持ちはどうと尋ねたほうがいい」
何気に残酷な年上2人の会話をあきれた様子で直樹は見ている。やはり、根はまじめなのかもしれない。
そうこうしているうちに訓練が終了した。参加者は後片付けを始めている。
「さて、直樹君、訓練が終わったわけだけどどうだった?」
「こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、面白かった」
「どういったところが面白かったのかな」
「学校での避難訓練だったらみんな落ち着いているのに、今日は大人もあわてている人が多かった。病院の人がどこですかと言っているのを見たら少し笑えた」
「確かにあれわね、ちょっと不安になるよね、もし怪我人だったら」
どうやら訓練を見て回っているうちにすっかり仲良くなったらしい。和美と直樹は2人と友達を作るのを苦にしないタイプなのだろう。
そのうちに直樹の友達のお見舞いに行く話になった。
「ところで、セイさん、お見舞いに手ぶらじゃまずいですよね」
「心配ない、ケーキがある」
「えっ、どこにですか?」
「このトリアージ訓練に病院の職員以外で参加した人にはケーキがでるんだ。それを持っていけばいい」
聖夜曰く院長夫人の手作りケーキは絶品らしい。それを聞いた和美の目が輝く。
「そうだったんですか。でもケーキを余分に出してくれるんですか?」
「和美の分をお見舞い用にすれば問題ない」
「なんで私のケーキを!」
「お見舞いに行こうと言い出したのは和美だ」
「そんなー!」
ムンクの叫びのような顔をした和美の様子に直樹は声を出して笑った。それを見て聖夜も微笑んだ。
幸い、余ったケーキをもらうことができたので和美も無事自分の分を食べることができた。
その後、直樹の友達である裕也の病室へお見舞いに行った。エレベーターで小児科の病棟がある6階へ来た。面会の手続きをしてから裕也が入院している615号室へ向かう。どうやら個室らしい。直樹がノックした。
「どうぞ」
中から男の子の声がした。そんなに元気というわけでもないが、弱弱しいというわけでもない。直樹はドアを開けて病室に入っていった。いっぽう、勢いでついてきた和美と聖夜だが、礼儀知らずというわけではない。まず、直樹に事情を説明してもらうため2人は廊下で待っていた。
「2人とも入ってきて」
了解が取れたのだろう。直樹が2人を呼んだ。和美は笑顔で手を振りながらベッドに近づいた。その後に聖夜が続く。驚かせまいと思っているのか両手はジーンズのポケットに入れたままである。直樹が場所を移動してくれたので2人は裕也のすぐそばまで近寄ることができた。
ベッドの上からこちらを見ているのが裕也君だろう、笑顔がかわいいな、和美はそう思った。不審な目で見られたらどうしようと思っていたので、少しホッとしている。
「裕也君、こんにちは。私の名前は和美ね。これ、ケーキよ。よかったら食べてね」
「ありがとうございます、和美さん。わ、手作りですか」
裕也は見舞いのケーキを見て感心したように言った。和美に尊敬のまなざしを向けている。
「別にこいつが作ったわけじゃないからな。それと私は聖夜だ」
「ちょっとセイさん、そんなにすぐにばらさなくたって」
「それに君もいい性格をしているな。年上を試すなんて。最初から誰がこのケーキを作ったか知っていたんだろう」
「あれ、ばれてました?ということはお姉さんも知っているんですね。鈴木さんのことを」
「まあな」
あっさり認めてしまった裕也に対して、和美は怒っていいのか、それともここは恥ずかしいと思うべきなのか混乱してきた。だが聖夜はそんな和美を無視して話を進める。
「ここ座らせてもらうぞ」
「ええ、どうぞ」
「長くいるみたいだな」
「わかりますか?」
「まあ、経験あるからな。もっとも私の場合は病気じゃなくて怪我だった。それでも長い入院生活であったことにかわりはないが」
聖夜のおだやかな笑顔を見てめずらしいなと和美は感じた。子供だからといって優しくするような先輩ではなかったはずだ。それとも入院している子供にはやさしいのだろうか。直樹と比べると裕也はやせ気味だし、顔色もそんなに良いとは言えない。まあ、それは直樹が元気すぎるという理由もあるだろうが。そのまま裕也を見ていると頭にかぶっている毛糸の帽子が気になった。全然似合っていない。
「裕也君、そのぼ 」
最後まで言えなかった。いきなり聖夜が和美の足を踏みつけたからである。和美は声にならない叫び声をあげた。その様子を後ろから見ていた直樹は固まっている。
一方、裕也はくすくすと笑っている。どうやらごまかせなかったようだ。
「そんなに気を使ってもらわなくても大丈夫ですよ。聖夜さん、優しいんですね」
「……」
「和美さん、帽子が気になりますか」
和美はどう答えたらよいのかわからなかった。聖夜も何も言わないでじっと裕也を見つめている。すると裕也は帽子を取った。彼の頭を見て、和美は息をのんだ。小学生とは思えないくらい頭髪が少なかったからである。
「聖夜さんは驚いていませんね。もしかして最初からわかっていましたか」
「そりゃあ、わかるさ。病室なんてもともと室温が高い。というのも患者は薄着だから。それでそんな似合わない毛糸の帽子をかぶる理由は一つしかない」
「そうです、副作用です。病名は言わなくてもわかりますね」
「ある程度はな、だから言う必要はない。それともう帽子をかぶっていいぞ」
「いえ、このままでいいです。その代わりと言ってはなんですが、聖夜さん右手を見せてもらってもいいですか」
裕也のお願いに対して聖夜は無言で裕也をみつめいていた。その顔に不快感は現れてなく、表情は優しいままである。そして右手をそっとポケットからだし差し出した。
「ありがとうございます。うわっ、思ったよりもやわらかいんですね」
遠慮というものを知らないのか、両手で右手というより右手首を握っている。大人がやればセクハラと言われるほどの行為だ。それでも聖夜は何も言わない。
「ちょっと、裕也君。セイさんの右手のこと知っていたの」
「はい、みなさんが来る1時間ぐらい前でしょうか。鈴木さんに教えてもらいました。右手のない天使が来ていると」
「その鈴木さんというのは誰よ」
「僕を担当している看護師さんです。もっとも看護部長になったので、担当していたが正しいですけど」「和美さんのことも話していましたよ。天使が優秀な助手を連れてきたと」
「え、それって私のこと。もしかして、会議室で私に話しかけてきた人が鈴木さん?」
聖夜に尋ねてみると答はYesだった。なんでも鈴木という看護師は聖夜の担当でもあったらしい。
「鈴木さんがよく言ってましたよ。大怪我で入院した小さな女の子がいたと。なんでも全然不平、不満を言わなかったらしいですね」
裕也の言葉に対して聖夜は苦笑してみせただけだった。想像に任せるということらしい。
「もういいだろう、いつまで触っているつもりだ」
聖夜は右腕を引き、裕也のから逃れた。もしかして今までずっと触られていたのだろうか。子供でもちょっとやりすぎだろう。
「聖夜さん、ありがとうございました。おかげで勇気が湧いてきました。」
「へー、何か勇気が必要な理由でもあるのか」
「はい、実は明日退院するんです」
その言葉に、直樹が最初に反応した。
「え、裕也、それ本当」
「うん、明後日の月曜日から学校にも行けるよ」
「やったー!」
直樹は大声を上げ、飛び上がった。個室でなかったら看護師さんに怒られていただろう。
和美はふと疑問に感じた。退院するのになぜ勇気が必要なのだろう。裕也に尋ねてみようと思ったが、聖夜に足を踏まれたことを思い出した。聖夜のほうを見ると首を左右に振っていた。余計なことは訊くなということだろう。和美は自分に学習能力があったことを感謝した。しかし裕也のほうに顔を向けると小さく笑っている。まったく、何でもお見通しといったような表情だ。
「聖夜さん、ありがとうございました。聖夜さんのパワーはすごいですね。ほんとに勇気をたくさんもらいました。鈴木さんの言うとおり天使ですね。」
そこには最高の笑顔でお礼を言う男の子がいた。
病院の外で聖夜と和美は直樹が出てくるのを待っていた。初対面なのに長居するわけにはいかないため2人は直樹より先に退出していた。
そこへ直樹がやってきた。どことなくすっきりしない顔をしている。
「よう、遅かったな」
「あれ、まだ帰ってなかったの?」
「君が来るのを待っていたのさ。何か訊きたいことがあるんだろう。駅まで歩いている間でよかったら話を聞いてあげよう」
「セイさん、なんでそんなに上から目線なんですか?」
「なんとなくだ」
直樹は2人のやり取りを呆れたように見ていた。なんだか自分の悩みがばからしくなってきた、そんな感じた。
「裕也が帽子を取ったところ、今日、初めて見たんだ。なんで初めて会った人に見せることができたんだろうって」
「やはりな、そのことか」
「なんで裕也は退院するのに勇気が必要なの?まさかずっと入院したいわけじゃないよね」
「そうそれ、私も疑問に思ってた。なのにセイさん、口を開くなという感じで私のこと見るし」
直樹の質問に和美も加わった。
「よく思いとどまったな。おかげで足を踏み損ねた」
「私だって学習します」
「たまにな」
「たまにじゃないです。時々です」
2人のやりとりに思わず直樹はふきだした。まじめな話のはずなのにそんな感じがしない。
「退院するのに勇気が必要なわけじゃない」
「じゃあ、何に勇気が……」
「学校に行くのにさ。まあ、不安でいっぱいだろうな」
聖夜の答に和美と直樹は今一つ理解できないようだ。
「それはどんな不安ですか?長いこと入院していたから勉強についていけるかどうかとか」
「それはないよ、裕也、頭いいから」
和美の予想を直樹が否定した。
「じゃあ、どんな不安?」
「……」
直樹にも予想がつかないようだ。2人が黙ってしまったのを見て、聖夜は語りだした。
「同級生が自分を受け入れてくれるかどうかという不安さ。髪の毛のことでからかわれたりしないだろうか、など」
「そんな、みんな裕也のことをからかったりなんかしない!」
聖夜の言葉に直樹は思わず大声をあげてしまった。通りの通行人が彼らを見つめていくが、直樹は気づかない。今にも泣きだしそうな表情をしている。
「頭ではわかっているんだろう、でも不安というのは心の問題だからな。それに私もそうだったから」
「!」
「退院した時は、もう小学校1年生の1学期は始まっていた。あの時はまるで転入生みたいだったな。そして自分にはまわりの人と違うところがある。さらに1人も友達がいない。誰だって不安になるさ」
それは和美にとっても初めて聞く話だった。1年生のクラスで聖夜は右手のことでさんざんからかわれたらしい。特に男子がひどかったということだ。陰湿ないじめだ。
「それで私は強くなるしかなかった。泣いたら逆効果、つらそうな顔をしたら相手を喜ばすだけだったからな」
「なるほど、それでセイさんいつも男みたいに話すんですね」
「うん、僕もそう思う」
「うるさい、なんか文句でもあるのか」
「いえいえ、そんな。文句だなんてとんでもない」
和美と直樹はそろって首を振った。
「まあ、それでだ。そんな話を裕也君は鈴木さんから聞いていたんだろう。それで今日本人に会った。それで勇気がわいてきた、というわけだ。もっとも私の推測にすぎないけどな」
「あっ、そういうことね」
聖夜の説明に和美は納得したが、直樹は沈黙したままだ。何かを考え込んでるようだ。
「ねえ、それじゃ僕は裕也のために何ができるかな?」
「彼の不安を取り除くことだろ」
「そうだよね、でもどうしたらそれができるの?」
「さあな」
「そんな、ちょっとは考えてよ!」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
聖夜の話を聞いているうちに直樹の表情が変わってきた。興奮してきたように見える。
「そのアイデア、とてもいいと思う。どうもありがとう。じゃ、クラスのみんなに知らせてくるから。さよなら!」
そのまま手を振りながら直樹は走り去った。その顔はやる気に満ち溢れていた。
「セイさん、すごいこと考えますね。でもできるのかな、そんなこと」
「さあな、少なくとも私が小学1年のときの同級生にはできなかっただろうな」
聖夜はかすかな声でつぶやいた。
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竹中昭夫は朝から不安だった。小学校6年3組の担当である彼は生徒に好かれ、保護者からも信頼されている40代のベテラン教師だ。そんな彼でも今回経験することは初めてのことだった。長期入院していた本山裕也が今日から通学を再開する。勉強についていけるか、クラスの生徒にきちんと受け入れられるか。そしてからかわれたりしないか。心配の種はつきない。そしてその時が来た。
職員室で本山裕也の母親とあいさつをすると、彼女はそのまま帰って行った。これから仕事に行くのだろう。必要なことは電話で話してあるので、改めて今日説明するようなことはない。
「本山、そろそろ行くか」
「はい、先生」
思ったよりも元気な返事だった。退院といってもいつ再発するかわからない。そうなったら再入院だ。できれば3学期が終わるまでずっと登校してほしいとものだと竹中は願った。そうすれば同級生達と一緒に卒業できる。
廊下を歩いて6年3組の教室に来た。教室のドアを開ける前に横を見ると、裕也が帽子を取ってカバンに入れているところだった。
「本山、別に帽子をかぶったままでもいいんだぞ。規則を気にする必要はない」
「大丈夫です、先生。一昨日、天使から勇気をもらったんで」
裕也は笑いながらそう言うと自分で教室のドアを開けた。
「おかえり!裕也君!!」
掛け声と一緒にクラッカーの音がした。完全に隣のクラスの迷惑など考えていない。黒板には大きく「おかえりなさい、裕也君!!」と書かれ、教室はまるでパーティーでも始まるかのように飾り付けがされていた。
しかし、声が出なくなるほど裕也を驚かせたのはそういったことではなかった。
目に涙を浮かべながら同級生全員を見つめていた。
クラスの男子全員が頭を丸刈りしていた。いつも髪型にこだわっていた生徒も例外ではない。さすがに女子の中に坊主頭はいないが、ロングヘアーをばっさりショートカットにした者もいた。
「裕也、どうこの髪型?かっこいい?」
直樹の質問に裕也は笑顔でうなずくことしかできなかった。涙あふれる笑顔で。
「それではこれより、竹中先生の断髪式を始めます!」
「ちょっと待て。お前たち何故学校にバリカンなんか持ってきている!?」
「まさか先生、この状況で嫌とは言いませんよね?」
「……わかった。勝手にしろ!」
こうして6年3組に坊主頭がまた1人増えた。
誕 たなじょう