ピータル・モゥルド
春っていうのは、落ちてくるものだと思うんだよね
だからぼくは、それを拾いに行くんだ。
石畳が途絶えて曇り空に草原となり、木漏れ陽に林となっても、そのつるくさ紋に刻まれた石盤だけは、レィルのようにずっと続いていた。
つるくさはどこまで続くのか。
つるくさはどこかに続くのか。
キイトリーはずっとそれをたどって、どこまでも歩いてゆきました。
ある街に、ケーリーシィという女の子がいました。ケーリーシィはこの街で、ひとりで果物屋を切り盛りして暮らす女の子でした。性格はあまり良い方ではなく、ヒトに好かれるような子でもありません。果物屋の向かいには花屋があり、店番の青年と、よく睨み合いをするのでした。
それはつぼみだった街路樹がちらほらと咲き始めるある日のことでした。「こんにちわ、」という愛想の良い声が、お店の外から聞こえました。果物屋の番をしていたケーリーシィは、脂だの傷だの皺だのでボロボロの読みなれた本に眼を通している最中でしたので、眼を向けず「こんにちわ、」と空返事しました。聞きなれない声でしたので、流れ者かもしれないと、ケーリーシィは姿も見ずに感じました。
「みんなが言うよ、あたしには花がないって、あたしは言い返すんだ。あたしには果肉があるって。そうすると言うのよ、あたしの果肉は腐ってるって。前に売ったリンゴが腐ってたからなんだけどね。ひどい話よ。」
ケーリーシィは何か適当にしゃべりたいという気持ちがありましたが、それが自己紹介の代わりでした。
「この赤色の果物、珍しいね、」
「そうね、確かにこの辺じゃないと手に入らないわ。」
「ひとつ、もらっていいかな、」
キイトリーは銅貨を三枚ほど差し出します。
「ええ、結構よ。ただし、十に一くらい腐ったものがあるわ。どれを取っても構わないけど、それに当たっても文句を言わないで頂戴。」
そう言って、初めてケーリーシィはお客さんの顔を見ました。
花のような匂いがしたので、ケーリーシィは女の子かと思っていたましたが、どうにもお客さんは男の子のようでした。まだ、ケーリーシィと同じ十歳くらいの少年だったのです。
肌が白く、黄緑色のペレット帽を被っています。肢体には露出がほとんどなく、緑の衣の下から、ぴったりと巻かれた明るい色の布が覗いていました。
よく見ると、顔の白さは化粧のようでした。
男の子にしては風変わりな化粧を珍しく思って、ケーリーシィは変なの、と思いました。
「ところで、”メノンルー”はないかな、」
「”メノンルー”、」
「この時期たまに、ごくまれに出回る果物らしくて、本で読んだんだ、」
「知らないわ、あら、またオルゴーンが睨んでる。彼、いつも春は自分の花屋の方が売り上げがいいからって、見下ろしてねめつけてくるのよ。」
正面の花屋から視線を感じた後に、風変わりな少年にふと興味がわいて、ケーリーシィは訊ねました。
「あなた、珍しい格好してるけど、どこから来たの、名前は、」
「ぼくはキイトリー。”黄緑色の街”から来たんだ。知っている、」
「それも、知らないわ。」
「そっか、ねえ、良かったらなんだけど、街の案内をしてもらえないかな、? これから、一週間ここで暮らすんだ。」
「はあ、なんであたしが、」
「きみの名前は、」
「ケーリーシィ、あら、オルゴーンがこっちに来る。」
オルゴーンは黒い髪にリネンのシャツを開いた、表情の幾分固い男でした。
「あら、いやみでも言いに来たのかしら、」
ケーリーシィが端眼にいやみで迎えますが、オルゴーンはちらりと見ただけで取り合いません。そのままキイトリーへ向かいます。
オルゴーンはキイトリーに、まるで執事のように丁寧なお辞儀を一つして、差し出したのです。
「ダリアの飾り花です。一週間もちます。どうぞお召しを、」
それはまだ咲き始めたばかりの、鮮やかな黄色のダリアでした。キイトリーはそれを前にすると、黙して一礼し、すっとオルゴーンの手から受け取りました。
ケーリーシィは驚きました。オルゴーンは愛想が悪く、ヒトとの関係なんかについては粗雑な青年です。丁寧な態度はおろか、取引きなしに商品をあげるなど、ケーリーシィにはまるで考えられないことでした。
「あら珍しい、ケチを固めてつくったような、あのオルゴーンが、お金をもらわずに花を渡すなんて、」
しかしオルゴーンは調子が悪そうに方眉を上げただけで、すっと身を引いてしまいました。一体どうしたのかしらとケーリーシィは思って青ざめていると、キイトリーも通り過ぎ始めました。
「街の案内、気が向いたらお願いするね、」
キイトリーは白い顔で微笑んで、そう言い残します。してやるものですかとケーリーシィは心の中思いながら片眼の下を引っ張ります。
しかしそうしながらも、ケーリーシィはキイトリーという男の子を、どこか不思議に思っていたのでした。
次の日も、キイトリーは何故だかしつこくケーリーシィに街案内を頼みに来ましたが、断りました。
キイトリーは、街で用意した、役人が泊まっていくような仮宿に泊まっているのだと、翌日、ケーリーシィはおばさんのお客さんから口伝えに聞きました。
その夜に、ケーリーシィは一日の終わりに、狭いつくりの軒の、その小さな張り出しのベランダで、葉巻を吸います。ケーリーシィにとって、一日の楽しみはここに凝縮していたました。早や摘みのジーグの低樹の葉と、薄いビラの花を膜に使います。マッチで火をつければ、ぬるく豊かな香りが漂って、吸い込むとともにケーリーシィの気分を安楽させます。この時期だけ味わえる、心安らぐ味覚と匂いでした。
路地にならぶ樹のひとつが、ベランダまで枝を伸ばし、つるくさを絡ませながら柵まで忍ばせます。オーリーの薄黄色をした砂糖の結晶のようなつぼみは、満開へと姿を近づけます。
ケーリーシィはふと煙としげみの奥に、ヒトの姿を見ました。大人が深夜を出歩くことは、特にこの街では珍しくもないことでしたが、路地奥に現れた五人の大人が、それぞれ同じような黒い礼服を着ていたので、ケーリシィはなんだか妙に思って、草煙をふかしながら眺めていました。大人は全て男性で、老年の方もいれば壮年も、中くらいの年のヒト、オルゴーンのような青年もいて、みな固くおごそかな顔をしています。
総じて誰かに向かっているようなので、ケーリーシィは少ししげみの枝から顔をずらしますと、三枚葉の重なりに丁度おおわれて隠れていた少年が、あらわになりました。キイトリーです。
緑の衣を羽織り、黄緑色のペレット帽には、昨日オルゴーンが手渡していた、イエローのダリアがしっかりとそえてあります。
礼服のヒトビトは、これまた昨日のオルゴーンのように、丁寧で遠眼にも敬意に満ちたふうなお辞儀をしたのでした。
対するキイトリーは、やはりお辞儀を黙って返します。するとヒトビトは、それぞれに包装されてある花を、次々に手渡し、キイトリーも次々と受け取るのでした。
キイトリーほどの男の子に対するものとは思えない、それは何とも静かな、路地奥のやりとりでした。これを見て、ケーリーシィの中でくすぶっていた少年に対する不思議が、確かな謎に変わったのでした。
次の日、キイトリーが訪れてから三日目のことでした。
ケーリーシィは、またお店にキイトリーの少年が訪れるのを、少しだけ心待ちにしていました。街案内をしてくれともう一度頼まれたら引き受けると思うくらいに、気持ちが変わっていたのです。
しかしこの日は、キイトリーは訪れませんでした。代わりにその夜、ベランダからおじさんが一人、路地にたたずんでいるのを、ケーリーシィは見かけました。
おじさんはたまにお店に来る、セイテータというこわもてのおじさんでした。何か悩み事があると、一人いつまでも、路地に立って悩み続ける癖のある、少し困ったおじさんです。何が困りますかというと、こわもてなものですから、その間路でずっとにらみをきかせているように見えて、路ゆくヒトが勘違いして怯えてしまうからでした。
ケーリーシィは、今日は何を悩んでいるのだろうと思いながら、おじさんを眺めて葉巻をふかしました。
次の四日目の日、ケーリーシィのお店に、あるお客さんが訪れました。
このおばさんはリンゴやオレンジの実を買うと、腐っていないか確かめながら、ケーリーシィに言います。
「うちの夫を見なかった、ケーリーシィ。ここのところ悩んでばかりで、まともに家に帰らないのよ。」
おばさんは、昨日路地にいたセイテータおじさんの妻でした。ケーリーシィは気になっていたので、昨日のことを思い出しながら訊き返します。
「セイテータさんは、一体何を悩んでいるの、」
しかしおばさんは、それが知りたいのよ、ここ三回くらい、ずっとなのよ、と、首を横に振るばかりでした。ケーリーシィは、キイトリーに加えてセイテータおじさんのことも気にかかり始めました。
妻のおばさんが微笑んで去っていきますと、向かいの花屋のオルゴーンが、何か言いたそうにこちらを見ていることに気付きました。その眼がいやにじっとりとしていて、ケーリーシィは嫌な気分になってそっぽを向きますと、オルゴーンは立ち上がって、ケーリーシィの方へ向かって来るのでした。
ケーリーシィはあきらめて向き直ると、お店の前まで来たオルゴーンを睨みつけます。オルゴーンは表情も変えずに言います。
「路地でセイテータのおじさんの横を通り抜けたときに、呟いているのが聞こえた。”セムナ、セムナ、”て。」
「”セムナ”、」
「花の名前さ。”セムナ・シートル”、葉と見まごう緑色の、星型の花を咲かせる。」
「それを、セイテータおじさんが探してるっていうの、」
「俺の店にも直接訊きに来た。間違いないはずだ。」
「どうして売ってあげないの、」
「ないのさ。お店にならぶことのない花なんだ。なぜならほとんどの場合、摘んだ途端に枯れてしまうから。繊細な花なんだ。水が澄んだ場所でないと、生えもしない。」
「摘んでも枯れない方法はないっていうわけ、」
「いや、摘んだところをすぐに、きれいな水にさしひたせば、少しは持つ。」
「それを、どうしてあたしに言うの、」
「この街の中の方にも、生えているところがある。それを取りに行った。おばさんを心配して、あの少年が。」
あの少年、と言ったのを、ケーリーシィはすぐにキイトリーのことだと分かりました。彼以外に、オルゴーンがわざわざ近寄ってまで言う少年を、ケーリーシィは思いつかなかったからです。
この街は、中の方に近づくにつれて樹が目立っていき、真ん中には小さな森があります。その森は、住人が、簡単に踏み入ってはいけない森でした。ケーリーシィはやっと、オルゴーンが自分に話しかけてきた理由が、やっと分かりました。
つまり、オルゴーンは街のおきてを知らないキイトリーが真ん中の森に入らないかが心配だったのです。
「あの少年は、森に入ってはいけない、まだ、」
”まだ”という言葉がケーリーシィには気にかかりましたが、そちらよりも言いたいことが、たくさんあったのでした。
「あたしに、キイトリーを探しに行けというの、」
ケーリーシィにはお店の番があります。オルゴーン自身でなく、なぜ自分が行かされるのかが、ケーリーシィには不満でした。
「ケーリーシィ、きみが行った方が、彼にとってもいいと思うんだ、」
「キイトリーは、一体なんなの、」
ケーリーシィは、一番謎に思っていたことを、つい口に出してぶつけました。流れ者にも、この街は寛容でありますが、それにしてもあの少年に対するみんなの態度は、尋常ではありません。
しかし、オルゴーンは黙します。少しだけ憐れむ眼になって、きみはまだ幼い、とだけ言いました。
「お断りよ、」と、ケーリーシィはいらいらして突き放しました。
次の日の五日目。ケーリーシィの心が動きました。お店のカウンターを木戸で閉め、お休みの札を掛けます。果物を仕入れる、夜明けの街外れ市場にも行かず、残っていた果物だけを、ひさしの下ろされた売り棚にならべて、料金箱をくくっておきます。売り上げは見込めませんが、お休みの日はそうしておきます。ケーリーシィは腐りかけのりんごをひとつ取って、皮のままに朝食としてかじりつきました。向かいのオルゴーンのお店が開く前には、ケーリーシィは身支度を整え、縫い糸の切れた革靴のひもをとめます。少し泥で濁った井戸水が、底に沈まないうちに顔を洗い、ふくとおしろいの粉をうっすらと塗ります。茶けた黄緑の絹織りの外衣を手でぽんと払うと、ケーリーシィは出かけました。最後に、いつも開け放しにしている扉に、真鍮の鍵をかけます。
昨日の夜、ケーリーシィはまたセイテータのおじさんが、路地で突っ立っているのを見かけたのでした。それを見たケーリーシィは、まだ見つかっていないのね、と思って、まだ男の子、キイトリーも探しているのかもしれないと、そう考えたのです。
オルゴーンに言われて、昨日すぐに行かなかった分、自分で行動を決めている気がして、いくらかこの頃には、昨日感じていた不満も収まっていたのでした。そしてキイトリーのことも、もう、彼に直接聞かないと、誰も教えてくれない、謎のようなものになりはててしまうと、そう思ったのです。
ケーリーシィは、街の中の方へと歩いていきます。街は、中心に向かって窪んですり鉢状になり、それにともなって、真ん中の小さな森で”街の壁のような家並み”をピンで留め、風車のように渦巻く形で並んでいます。
ケーリーシィは、積もり始めた、オーリーやレモの花びらをよけて歩きます。この街では、散った花びらを踏まないのが風習でした。もっとゆるやかに下って先の方へ行きますと、所々、石畳が四角く浮き出て、河の石の上を渡るように点々としています。浮き出た石の上はきれいに掃かれ、下を這う石畳に花びらが溜まります。これは春の花びらのために造られたもので、通行者はみんな点々とした方を渡って歩かなくてはいけません。これも、花びらを踏まない仕掛けです。
ケーリーシィは、革靴で、点々と跳ねていきます。下には、レモの黄色い花びらや、エアリーの青い花びらが、重なりあって一面にささやいていました。花びらが、街を流れる湧水のようでした。この辺りまで来ると、大分街路樹が増えてきます。幹は太くはならず、レモもエアリーも背を高めに伸ばして生え広がります。新しい芽をまじらせて満開となり、青や黄を次々と散らせていました。さしこんだ陽の光に透けたりして、影を落としたりしました。
もう少し、ケーリーシィが進みますと、所々石畳が終わっていき、樹々が増え、広場の代わりに、やがて森になりました。まだ中心でない場所で、家も縞になって続きますが、街の中では真ん中に近づくと、たびたび植物の群生する場所に出るのでした。
街の樹木は、春のこの季節になると一様に花開きます。エーノウのたくさん花びらを蓄えた白い花や、オーリーの黄緑に加え、見事な三角形の重なりをなすキィラの夕暮れ色が相まって、頭上や傍らを咲き乱れるのでした。
その中を、ケーリーシィは少しさまよって、土の上を歩いていると、すぐにキイトリーの緑色の姿が見つかります。もっとしらみつぶしに探すことを決めていたケーリーシィは、いささか拍子抜けしながら、少年に近づいて行きました。
キイトリーは、背の低い花々を眺めては、きょろきょろと何か探しています。キイトリーに会うのは、実に三日ぶりでしたので、ケーリーシィはなんと声をかけるべきか戸惑いました。何せ二回もキイトリーがお願いして来たのを、冷たく突き放してしまったわけですから、突然、知りたいことを訊くのも、当然はばかられます。
そうして、ケーリーシィは眼をさまよわせていますと、木陰に、見事に花を咲かせます、緑色の星形の花弁が緑に包まれておりました。それが、オルゴーンの言っていたものとひどく似ていましたので、ケーリーシィは、見つけた、と、胸を高鳴らせ、そのうちのひとつをすぐに根本から摘み取りました。
ケーリーシィはキイトリーの背に忍び寄り、その花”セムナ”を手に差し出すとともに声をかけます。
「キイトリー、あなたが探しているのは、この花じゃないかしら、」
すると、黄緑色のペレット帽が回ってキイトリーが、こちらを向きます。変わらず帽子には、イエローのダリアが咲き誇っていました。しかしその時にはもう、”セムナ”の静かに凛とした様子はしおれていました。キイトリーは一瞬哀しみにも似た複雑な表情になりまして、次に花の奥のケーリーシィの姿をみとめると、ぱっと少年ながらに明るい顔になりました。
「ケーリーシィ、」
キイトリーは立ち上がって言います。
「また会えるとは思わなかった、それは、それが”セムナ”の花なんだね、」
キイトリーはすぐそばまで近寄って、しおれた花を眺めました。それと一緒に、ケーリーシィはまた、会ったときに感じていた香水の匂いを嗅ぎました。香しくて安らぐものです。しかし変わったことに、その香りは以前に増して強いものになっているように感じられました。加えて、蒼白だった頬も、さらに白さを際立たせています。ケーリーシィはそれを見て、不思議、と言うよりも、妙に思いました。
「ええ、そこのしげみに生えているわ。こうしてすぐ枯れてしまうけど、方法はあるの。街の中でも、澄んだ井戸水を、汲みに行くの。」
「それは良かった、昨日から苦労していたところなんだ、ありがとう、ケーリーシィ、」
「こっちよ、行きましょう、」
ケーリーシィは覚えている井戸の方を示してキイトリーとともに歩き出しました。
「ケーリーシィは、優しいんだね、」
そんなことをヒトから言われたのは、ケーリーシィはひどく久しぶりだったので、ひどく感動しました。しかしそれもそのはずで、こんなことでもない限り、ケーリーシィは自分から優しいことをしなくなったヒトでした。
「井戸は、二番水よ。この街の真ん中に近づくほど、井戸の水は澄んでいくわ。だからって、真ん中に行こう、なんて、言わないでね。真ん中の森には入らないように。オルゴーンも言っていたわ。」
ケーリーシィは、手早くオルゴーンからの用件を伝えると、キイトリーは頷きました。
「分かっているよ、ケーリーシィ。”春風”が来るまでは、まだ、」
「”春風”、」
ケーリーシィは、疑問に思って繰り返しました。”春風”は、この時期に毎年訪れる、あたたかく、激しい突風のことでした。小一時間に渡って吹き抜け、街中を駆け巡ります。それが来ると、どうしてキイトリーは、真ん中に入っていいと言うのでしょうか。
オルゴーンも、”まだ”と言っていました。それがどういうわけなのか、ケーリーシィはキイトリーについて問おうとしたのですが、蒼白に微笑むキイトリーを見ると、なぜだかケーリーシィはやりきれなさを感じてしまい、それを訊くことがはばかられるのでした。「あれだね、」
キイトリーは、樹に囲まれた、先にある井戸に気付いて示しました。井戸へと向かって行きますと、キイトリーはふと、しおれてしまった“セムナ”の花を見まして、続けてふいと自分たちをおおってしまっている樹々に眼を向けて、言ったのでした。
「ケーリーシィ、葉っぱの命のことを知っているかい、」
唐突なことでしたので、ケーリーシィは、へ、と思っただけで、キイトリーはすぐに続けてしまいました。
「ひとつひとつの季節の巡りで落ちてしまう葉の命は、春から秋の間だけだ、葉っぱは、それしか生きられない。そしてその命は、次につながることではたされる。”まっとう”されるんだ。」
ケーリーシィは、急に命というものの話をされて、ぼうっとしてしまいました。
「次につながる、」
呟きますが、葉っぱというものの命のことを、ケーリーシィはあまり考えたことがありませんでした。話しながら、二人は協力し合って井戸から水を、脇の桶に汲みました。泥の濁りがほとんどありません。そこに、ケーリーシィは持参していた水澄ましの果実を、ひとつ落とします。
「土になるってことさ、だけどそれは、葉っぱだけじゃない、みんな同じこと、枯れて、最後には朽ちて腐っても、そうすることで、命は”まっとう”される。それはこの街の、花びらだって同じさ。石畳で朽ちてしまったら、”まっとう”することすらできやしない。」
キイトリーが言います。この街は、よく花びらというものを大切にしています。キイトリーの言う、“まっとうする”というのは、そういうことと関係があるものなのだと、ケーリーシィは何となく理解しました。しかし彼の小難しい話に、子どもが何を、と、少しだけ非難する気持ちになっていました。
「それが、どうしたというの、」
「なんでもないよ、ただ、知って欲しかったんだ、」
キイトリーは、よく分からないあいまいなことを言いました。そんなキイトリーに、ケーリーシィは、何よ、と、また不満に思いました。
しかし、ケーリーシィもまた、心当たりがないわけではありません。
「みんな、あたしのことを腐ってるって言うわ。それはね、あたしもそう思うことなの。器量もない、頭も良くない。こんなに若いのに、もう葉巻を吸ってる。あれを吸っていると、すぐに肺が朽ちてしまうとも言うわ。」
「ケーリーシィ、」
キイトリーはそれを訊いて、哀しそうによどみました。
「キイトリー、なぐさめないでね、あたしが、一番分かっていることだもの。あたしは、もう朽ちかけてる。」
しかしそんなことを言っても、どうしようもないことでした。ケーリーシィは少しだけ、自分が命を“まっとう”するにはどうしたらいいのかを考えました。キイトリーはしかしどういうわけか、はかなげに微笑みました。それを見て、何よ、と、またケーリーシィは思いました。
その後二人は、戻って無事、枯らさずに“セムナ”の花を摘むことができました。それからセイテータさんに届けるのだと言って、キイトリーは再びお礼をし、ケーリーシィとお別れをしました。
結局ケーリーシィはその日、訊きたいことを訊くことができずにいました。簡単なことなのに、いざ切り出そうとすると、なぜかケーリーシィはためらってしまうのです。
そのお別れのときにケーリーシィは、明日、街案内をしてあげると、次こそ彼の謎を訊こうと思って、そう告げたのでした。
別れ際に、真ん中近くに来ていましたキイトリーは、振り返って問いました。
あの奥はなんだい、ケーリーシィ、
あれは“腐葉土”の森よ。この街の、一番水があるところ。
この街の真ん中にある、樹が豊かに生い茂る森。その先に、ふとキイトリーは眼を下に這わせました。そこにつるくさの石畳が続いているのを見つけまして、キイトリーは、ああ、やっとだな、っと思った反面、不安と怖さで胸が一杯でした。それでも口の形は、うっすらと微笑んでいて、キイトリーの眼は、夕暮れを見るように細まっていました。
次の日の六日目、その日、セイテータおじさんの妻が再び訪れました。おばさんは果物を買うと、言います。
昨日うちの夫が、”セムナ”の花を持ってきたんだ。あの繊細な花を、がさつな夫が。あたしは驚いたよ。どうやって見つけて来たんだろうね、近頃、あたしがあの花を探していたのを知っていたんだ。あたしは嬉しかったよ。そして喜んで、あの男の子にあげたんだ。キイトリーと、言ったかしら、
その話を聞いて、ケーリーシィは苦笑いしました。
「キイトリーに渡すために、欲しかったの、」
おばさんは、さも当然という顔で、眼を丸くして言いました。
「もちろんそうよ、」
ケーリーシィはお店を開けて、キイトリーが来るのを待っていましたが、彼はいくら待っても来ませんでした。ケーリーシィは不満に思いながらも、少しだけさみしく思いました。通りの黄緑色が、はらはらと散っていきます。
次の日の七日目、セイテータ妻のおばさんが来ました。しかしキイトリーは、やはり現れません。ケーリーシィは堰を切らして、おばさんにキイトリーのことを知らないか問います。するとおばさんは、ケーリーシィを憐れな眼で見ました。
「あなた、”ロット”も知らないのね、」
おばさんが言ったのは、それだけでした。ケーリーシィは、また仲間外れにされたような疎外感を感じました。お店が閉まる夕暮れ時になると、風が吹き始めました。向かいのオルゴーンのお店に、ヒトが幾らか寄って行きます。いつかの夜に見たような、黒い礼服を着たヒトビトでした。
「森の街灯に、灯りをこしらえに行きました。」
そう漏れ聞こえて、礼服のヒトたちは去って行きました。あたたかな風が、強く吹きます。向かいのオルゴーンと、ケーリーシィの眼が合います。ケーリーシィは、なぜだか焦っていました。お店を飛び出て、オルゴーンに詰め寄ります。ケーリーシィは強く見据えると、オルゴーンは眼をそらしました。
「あの男の子は、キイトリーは一体何なの、彼に何があって、何が起こるの、」
ケーリーシィは煮詰まった疑問を、感情一杯に吐き出しました。溜まっていた感情を吐き出して、もうからになってしまうというくらいでした。ケーリーシィは憤っていたはずでしたが、それを口にすると、何だか柄にもなく泣き出してしまいそうになりました。
オルゴーンは一瞬ぐっとつらそうな、こらえてた表情をしました。しかし、彼の眼が、戻ってケーリーシィを見ますと、オルゴーンはすぐに口を開きました。それを訊くと、ケーリーシィは駆け出したのでした。
いよいよ強い風が、突風となって吹き込みました。春風です。点々とした石畳を飛んで渡る間、風は咲く花の全てを散らし、足下に積もった花びらを巻き上げていきます。風車のような形をなす街は、吹き込んだ風を、その壁のような軒なみで、中央へ誘導する仕掛けになっています。街中の春風が、花びらをともなって中央に向かっていくのです。オーリーの若草にも似た黄緑、エアリーの青、レモの薄黄色やイーギィの白が、次々に吹き上がって飛び交います。
ケーリーシィはただ中で、街の真ん中へと向かっていきました。樹木が目立ち、ここでもやはり花を散らしていきます。”セムナ”の花のあるところや井戸を過ぎると、小さな森が見えます。”腐葉土”の森です。入るところには、以前キイトリーが見つめていた、つるくさ紋の刻まれた石版が敷かれてあり、陽が落ちてうっすらとした森の木陰を、奥まで連ねていました。
ケーリーシィは、息が乱れるのも構わず走ります。奥の方に、街灯がぽつりぽつりと浮かびます。橙色に、木の葉や花をうちから照らします。ケーリーシィの衣服を荒くはたはたとさせ、髪を掻き乱します。ケーリーシィの横を、花びらが抜かして先に駆けていきました。石版の先に、ヒトの影が見えました。キイトリーです。頼りなく、しかし軽やかな足取りで、石版の上を歩んでゆきます。ふらふらとして倒れてしまいそうでありましたが、褒められてごほうびをもらった子どものように、らんらんとステップ踏んでいるようにも見えました。
ケーリーシィは叫ぼうとしましたが、息が続かずむせかえりました。しかしいよいよ追いつこうとしたところで、樹の小路が開けました。空から、色とりどりの花びらが降っています。森の中の広場には、一面に木の葉が敷き詰まって地面をなし、その身を朽ちさせて黄土色にしたのを、くべられた灯りが照らします。その上に花びらが、やむこともしらずに降り注ぎます。新緑色に、空と水のような青色、雪のような白銀に、シトリンのような黄色、キィラの夕暮れ色。他に色がないのではないかというくらいの全ての色合いが、ケーリーシィの眼をおおいました。降り積もる花びらの中には、当然色あせたものもありました。花開いたばかりのものから、色あせて縮こまってしまったものや茶色っぽくなってしまったものまで、空を舞い踊ります。
この街は、真ん中へ向かって溝のようになっています。街を抜けた風は、全ての花びらを連れて、この森へと吹き溜まるのでした。大小様々で、楕円のものや、円のもの、スペードの形をしたものが、一様に腐葉土に降り注ぐのです。とめどない花は天国の花畑から舞落ちてくるように、ケーリーシィは思いました。
歩き込むキイトリーは、腐った葉でなる土を踏み、広場の真ん中へきて、ついに仰向けに倒れました。ケーリーシィは近づきます。少年は、激しく動いたわけでもないのに、苦しそうに息を絶え絶えにしました。
「キイトリー、」
ケーリーシィは少年の下へたどりつきました。キイトリーは、つるくさの石版の丁度途切れたところで横たわっていました。ケーリーシィがのぞき込むと、少年の青白かった頬は、汗で白さが落ちて、土気色へと変わっていました。キイトリーは微笑んでいました。
「ケーリーシィ、」
キイトリーは絶え絶えに呟きました。ケーリーシィは少年の緑の衣に手をかけてはぎます。うちには、布がぴたりと肌に接するように巻かれています。明るかった色が、濁った肉の色ににじんでいました。花の香りがしていたのが、むせかえるようなひどく腐った匂いに変わりました。
奇病”ロット”は、身体が腐り、朽ちていく病でした。つるくさの石版は、彼らをここへと、導くものでした。その奇病の持ち主は、この街へと導かれるのが、このあたりのならわしだったのです。大抵春に病にかかりますと、そのヒトはこの街の花びらと、同じ扱いを受けるのです。そしてこの腐葉土で、街と春風が集めた花びらと同じように、身を朽ちさせるのです。それは全て、命を”まっとう”させるためのものでした。
ケーリーシィは彼の身体の弱り方を見て、昨日キイトリーは、自分の元に来れなかったのだということをさとりました。
「ぼくはね、たくさんたくさん、泣いたよ、ぼくはまだ、世界のほんの少ししか感じてない。そんな折り、春が訪れた。春が咲き始めた。咲き始めて、ぼくは思った。花の命は、本当に短い。ほんの、一週間しかない。」
キイトリーは少しだけ、感情をあらわにして、ケーリーシィに言いました。帽子のイエローのダリアが、風に流されて散っていきました。キイトリーは、すぐに花びらに埋もれていきました。ケーリーシィは焦って、彼がいなくならないように花びらを払います。しかし花びらはとまりません。ケーリーシィは怖くてなりませんでした。今にも朽ちて消えかかった命が、眼の前でなくなることが耐えられませんでした。ケーリーシィはキイトリーの上の花びらを掃きながら、口を押さえました。そんなケーリーシィの様子を見ながら、キイトリーは穏やかに言いました。
「ねえ、ケーリーシィ、きみはもしかしたらきみの言う通り、朽ちかけているのかもしれない。だけど、朽ちていくものは、自分が朽ちていく反面、朽ちたものを、新しく生み出したりはしない。なぜなら、澄んだものは、朽ちたものから生まれていくんだからね。分かるかい、もしきみが朽ちているとしたら、きみはもっとも新しく、もっとも純粋で澄んだものを生み出すことができる。この春みたいにね。朽ちかけた樹から新緑が芽吹くように、何千年も歳を重ねた樹が、また新しい葉を生み出すようにさ。」
最後にキイトリーは手を伸ばすと、その手にたくさんの花びらがすぐに舞い込んできます。街の真ん中で、樹々の中で円く吹き抜けた空と、花の雪を、キイトリーは見つめていました。
「春っていうのは、落ちてくるものだと思うんだよね、」
ケーリシィがその手を取って、花びらと一緒に握り締めました。
「だからぼくは、それを拾いにいくんだ。」
すると、キイトリーのつむった眼から、ひとすじだけ涙が流れました。この街の水は、真ん中にいくほど、澄んだものになるのです。そう、自分に言い聞かせるケーリーシィは、花びらの中で、悲しみにむせかえるのでした。
その後、街から一斉に花びらがなくなった、ある春の終わり、ケーリーシィは、市場で、キイトリーの言っていた、”メノンルー”という果実が出回りましたのを見つけました。
ケーリーシィは手にとって、ひとつだけ仕入れると、本当に、陽が暮れる頃にはしなびてしまうのでした。
ケーリーシィは、お店の表に植樹鉢を用意して、そこにしなびた果実を植えました。
毎日水をやり続けると、いつしか芽吹きました。
ケーリーシィはそれを、何となく育てていくことにしました。
その樹が大きくなるころには、ケーリーシィも老いていることでしょう。
そしてキイトリーのように、身体を腐らせて、朽ちさせていくのです。
しかしそれは、若いケーリーシィにとっては、まだまだ、長い長い話でした。
キイトリーに、自分は朽ちかけていると言ったとき、彼がはかなげに微笑んだのは、あるいはケーリーシィが、まだまだ若いからであったのかもしれないと思いました。
朽ちていく花びらに埋もれながら、キイトリーは言いました。
〈朽ちていくものは、新しく朽ちたものを、生み出しはしない。〉
ケーリーシィは思い出しながら、植樹鉢に芽生えた新しい芽を、眺めました。
ケーリシィは、ある日の始まりに、革靴を履きます。外へでます。向かいのオルゴーンに、おはようと、優しく声をかけるのでした。
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