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列車は動き続ける

作者: ベオ

     私は自殺した。少し頭がぼんやりしているがそれだけはまだはっきり覚えている。どこでどう自殺したか、何が私を自殺させたのか、それは覚えていない。何が私を自殺させたのかに関しては思い出したくも無い気がする。ただ、人が自殺するときというのはなにかその自殺させる間彼らの心を絶望で多い尽くしていたのだと思う。絶望という言葉は言うには簡単だが、実際に経験してみると怖いものだ。どんな発想も、どんな出来事もマイナスのほうにしか考えが向かなくなる。まるで自分の命があと一日といわれ、自分でも自分の命が消えていくのを感じていくように、一度絶望にとらわれると何もかもが無駄に感じてしまう。私は中学のころ初めて太陽の大きさと人間の大きさを比べたことがあった。そのときは太陽のその偉大さに驚いたが、その太陽よりも何千倍と大きい天体が存在すると知ったとき(Sドドゥスだったか。名前は忘れた)、人間の生きる意味を疑った時があった。そして自殺するすこし前から記憶が無いようで、振動に目を覚ますと私は列車に乗っていた。

     「おはようございます」

     目の前には女の人が座っていた。年齢にして10代後半のようにも見えるが、最近の若いのは見た目から年齢はさっぱりわからない。ひょっとしたらこれで20代の半ばかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも私は自分の置かれていた状況に疑問を抱いていた。

     どうやら私は列車の座席に座っていたようだった。昭和のようなイメージの古い列車で、座席は対面するようになっている。ガラスの隅についている埃や、赤い座席の色あせ具合からしても、古いというイメージが一番初めに思いつく。外の窓から見える景色は永遠に横に続く山。浮き沈みするその山の肩から、ニンジンの様に赤い太陽が見える。反対側の窓からは、夕焼けに染まった海が果てしなく続くのが見える。反射できらめく波がすこし目に痛い。だが列車の中はなぜかぼんやりとしたもやが張っていた。なんとも懐かしい。私が昔乗っていた列車にそれは瓜二つだったのだ。確かこんな感じで私も昔私の妻と座っていた気がする。

自分の服にも少し異変を感じた。来ていた服は間違いなく私が自殺する寸前に着ていた物(だった気がする)だが、なぜか新しい服を初めて来たときに感じるこわばった感じがする。革靴も、私がはいていたものとまったく同じだが、それには履いていれば必ず付く皺がない。

     目の前の女性に目を向けた。服装はおしとやかな白のブラウスに長い緑のスカートをはいている。髪は黒くストレートで顔はほんのりと細く丸い。顔には常にほんのりとした微笑をたたえており、普段であれば美人であるなと思うところだが、この異常な状況の中ではそのような事を考えるほど私の神経も鈍くはない。

     「ここはどこか?ですよね?」

     私の頭に浮かんでいた質問を的確に読んで彼女は言った。

     「どこだね、ここは?」

     「ここは、ようするに死後の世界です。」

     「死後の世界・・・」

     復唱してみる。死後の世界というのは、昔から何も考えることがなくなったときに考える一つのトピックであった。天国は存在するか?否、死んだら人間は地獄にしか行かないと気づいた人が作ったものである。そういうふうに誰かが言っていたが、自分としては死後の世界なんて人間には測れないものであると結論付けていた。閻魔大王なんてもちろん信じていなかったが、かといってキリスト教の言うような煉獄や神の国というのも素直に受け入れられなかった。

     「死んだ方は皆一人ずつこの一両の列車を所有することができます。そしてここであなたの駅に到着するまで待っていただくこととなっております。」

     「私の駅?」

     「はい。そこであなたは生まれ変わるのです。」

     輪廻転生。どうやらこの話だけは事実だったらしい。

     「あんたは何者なんだい?」

     「私は「答える者」。あなたの質問にすべてに答える義務があります」

     間違いなくマニュアルか何かの答えをそのまま復唱しているような感じであったが、不思議と彼女の言葉の中からは冷たさを感じなかった。

     「死んだ人を相手に、答える者?」

     「はい。私たちは死んだ直後に、自分たちのおかれた状況に混乱するだろう人たちのために、彼らが聞くだろう質問に答える義務を与えられたものたちです。」

     「なんでそんなものを・・・」

     「あなた方が言う、「神様」という存在のお計らいです。死んだ後ぐらい魂に悩みをあたえたくないという、神様の慈悲ですね。暇つぶしという理由もあるのでしょうけど」

ほんのすこしの苦笑い。そしてまたいつもの微笑に彼女の顔は戻った。

     「暇つぶし。時間がかかるのか?私の駅に着くのには。」

     「はい。特にあなたのケースは余計に時間がかかるのです。体感時間で言うと、120年ですね」

     「特別?」

     「はい。自殺された方は与えられた寿命から計算した転生までの時間を過ごしきっていないので、この列車にのる時間が長くなるのです。まっとうに寿命を過ごしていれば、30年ほどなのですが、あなたは本来長生きするはずだったのですよ。70年ほどいきるはずだったんです。」

ふうとため息を彼女はついた。

     「正直、120年もの間、暇つぶしの相手をしきれるかどうか不安なのですけどね、私の初めての当番でもありますし」

私はポケットの中を探ってみた。驚いたことに家の鍵、財布などはきっちりとある。しかしよくよく思い出してみると自分のスーツケースだけが見当たらない。

     「どうかいたしましたか?」

     「いや、私のスーツケースはどこかなと」

     「それでしたら上の、網の上にありますよ」

     彼女の指が指す方向を見る。なるほど確かに私のスーツケースは黒いまま網の上にどっかりと腰を下ろしていた。

     「なにか大切なものでも入ってらっしゃるのですか?」

     「まぁ・・・」

     大切なもの、なんだろうかそれは。あまり空けたくもない気がするが、ふいと手はスーツケースに伸びていった。その黒い皮のケースに触れると、長年触りなれていたその感触を皮膚から思い出していく。金の番号を合わせる金具。皮のとって。皺の感触。どうやらこれだけは私が握っていたときと変わりないらしい。ふと、一瞬黄色の点字ブロックを思い出したが、すぐに振り切った。そしてスーツケースをとってひざの上に置く。ケースを開ける番号は705。カチャリとためらいなくケースは開いた。中に入っていたのは、あけながら思い出していたが私が勤めていた会社での書類の束であった。大切なもの。たしかに仕事上最重要な書類である。しかし死後の世界なら考えてみれば大切とは程遠いものかもしれない。いや、自殺したときから確かもう必要なくなっていたものだったのだ。

     パタンとスーツケースを閉めた。どうやらすこし勢いが強かったらしく、わずかに前の女は一瞬驚いたような顔をした。

     「・・・ああ、驚かせた。」

     「いえ。どうかなさったのですか?」

     「・・・なんでもない。」

     ふうと沈黙。タタンタタンと列車は動き続ける。こんなとき私が煙草でも吸うのであれば一服していたかもしれないが、生涯煙草と酒と博打には手を染めないと決めていた。酒と博打の習慣はわたしの家族や親にはなかったが、煙草だけは父が良く吸っていた。いつもことあるごとに煙草をすっては、咳き込んで笑う父。そしてみんなが予想していたように、父は私が大学を卒業した年、肺癌で逝ってしまった。

     「・・・私は死んだのだよな。」

やることもないので、彼女の言うとおり暇つぶしの相手にさせてもらうことにする。

     「はい。○月○日××年午前―」

     「いや、詳細はいい。あんまり思い出したくもない気がする」

     「すみません」

     「ここはあの世とは違うのか?」

     「ええ。あなたのいうあの世とはようするに死んだ人たちの住む所なのでしょう。昔は死んだ人、生き物、命あるものは平等に死後の世界に運ばれ、そこで次の人生までの間住むこととなっていましたが、今はいっぺんになくなる命が多くなりすぎたため、列車でつねに彼らの転生先まで運ぶこととなっているのです。」

     「システム的だな」

     「ええ、皮肉でしょう?何でもできる神様も、効率をはからないと忙しくなりすぎるだなんて」

     苦笑い。彼女の表情はなにかしら笑顔が付く。

     「なぜ列車なのだ?」

     「命を運ぶ術がですよね。正直これはこういうものなのだとうけいれて欲しいのですが、まぁ時間もありますしゆっくりと説明しましょう。」

     「いや、こういうものだというなら別にそれでかまわない。」

     「そうですか?」

     私が人生について考えたことは一度や二度ではない。答えこそは手にしなかったものの、ある程度は心が落ち着くままにあるところでこれいじょう人生についてをいろいろ考えるのを私はやめた。ある人は人生には意味がないと言ったが、そこまで無意味なものとも私は思ってはいない。ただ、人間の想像がつくものよりははるかに予想だにしないものだと思っていたのだ。その点では、今この命を運ぶという乗り物が列車であったのは、少し期待はずれだったともいえる。結局、生きることに意味は無いのかもしれない。人間は生きて、死んでも輪廻転生を経て違う生き物に生まれ変わると知った以上、何をしても結局は転生したってなにもかわらないのだろう。転生して、記憶はなくなるだろうし、生まれ変わったら生まれ変わったときにその人生をまた悩むのかもしれないが、結局わすれてしまうのなら生きる意味が無い。

     「野暮なことを聞くが、食事とかはあるのか?」

     「食事ですか。無くはありませんが、質素なものしか用意できませんよ。でも味は保障します。」

     「それくらいでいい。死んでようやく豪華なものが食べれても虚しいだけだ。」

     女は静かに目で頷いた。


     「無口、なのですね?」

     「なんだ?」

     私があんまり何も聞かないことにしびれを切らしたのか、女から先に私に話しかけてきた。私は窓にひじをおき、頬杖を付いて開いた窓から風の音を聞きながら目を閉じていたが、眠りと目覚めの間をさ迷っていた。

     「いえ、あなたは御自分が死んだことにまったく疑問も抱かないものだから。」

     「ああ、まぁな。こんなものなのだろうなと思って。」

     確かに自分でも驚いているくらい、自分は死んだといわれても自分は初めから驚いていなかった。私がこの列車で目覚めてからしたことといえばスーツケースを開け、列車の中を確認したり、窓から景色を眺めていたりする程度だった。腕時計をしていたが、その時間は止まっていた。6時11分。私が自殺したときの時間だったはずだ。鉄のこすれる急ブレーキの音が頭の中でするので腕時計は極力見ないようにしている。次の列車の車両への扉には窓があり、その中の様子も見える。そこには浮浪者のような格好をした男がいすに座って寝ており、その向かい側には黒い髪の毛の頭だけが見えた。

     「その・・・生き返りたいとかって思わないんですか?」

     「さてな・・・どうにもそんな気になれない。第一死んだら二度と戻れないだろうが。」

     「いえ、これは私の初めての仕事で、その、本当はこうやって私から質問することもしてはいけないのですが、私が研修のときに聞いた話しだと、死んだ人の八割は泣いて生き返らせてくれとすがるんだそうです。」

     「なら私はその二割だったようだな。」

     「・・・その、もしよろしければですけど・・・その・・・なんで自殺したのか教えていただけませんか?」

「・・・」

     「あ、いえ、その、嫌なら・・・」

     「なんで、か。」

単純に言えば、私は会社をクビになったからだった。5年間つとめて、業績は中の上程度ではあったが、そこまで悪くは無かった。しかし不況の風に私の勤めていた会社はまともにあおりを食らってしまい、人件費削減のために私はクビになってしまった。とはいえ私の勤めていた会社は私や、何百人をクビにしたところですでに破産寸前。どっちみちであった。

しかし私には家族がいた。小学3年生になったばかりの息子と、私を慕ってくれる良妻。クビになったその日、私は自分がクビになったことを告白できないでいた。家に着くと私を迎えてくれる息子と妻がいて、私のコートをはずしながら、すばやく私が落ち込んでいることを見抜いた妻は、何も言わずにただ今目の前にいる女のようにわらって、元気を出してといってくれた。

食卓にあったご飯は比較的質素であった。魚の煮物。野菜の炒め物。そして食後はお茶。息子はわらって自分の学校で起きたことを話していたが、どうしても私の頭の中ではこの食卓は、ご飯は半分。魚は煮干。野菜ではなく、漬物が二枚程度とこれよりさらに貧相になっていくのだろうなと思ってしまっていた。

夜になって妻と一緒に横になっていたとき、私は妙に眠れなかったのを覚えている。目が覚めてしまい、考えることといえば明日からどうするかということ。結局妻にはクビになったことをいえないでいたのだ。胸の上には妻の手が暖かく添えられていたが、それもまたひたすら悲しく感じた。そして私がクビになったと知ったとき、その手は唐突に氷のように冷たくなるのではとさえ感じた。氷のように冷たくなり、そして震える手。私にはその手を強く握り返せるのだろうか。握り返せても、一度クビになった私をまた雇ってくれるところがあるのだろうか、それとも・・・それとも・・・。気づけば私は絶望に深く身を沈めていた。

死亡保険がある。私が死ねば、妻たちは今よりもいい暮らしができる。そんなことを思いついたのが、そんなときであった。以前、私はもしものためにと自から自分に死亡保険をかけていたのだが、妻にそれをひどく心配されたのを覚えている。世の中なにが起こるのかわからないのだからと思ってだったが、確かに普通なら余計な心配かもしれない。

保険をかけてからすでに一年がたっていた。今なら死んでも、こんなこともあると疑われないかもしれない。

翌朝私は早めに起きて早めに駅に向かった。せめて死ぬにしてもラッシュの時は迷惑をかけるかもしれないと思ってのことである。今思えばなんともおろかなことだった。自分らしくも無い。いつも向かうような時間帯じゃない時間に会社に向かうのでは、自殺とおもわれても不思議じゃないだろう。そんなことも考え付かないほど、私の心はただひたすら自殺に向いていたようだった。

死のう。死んで考えるのをやめよう。

保険も結局は正当化するためだけの理由。ただ、すべてのことに悩むのがそのとき嫌になっていた。

「・・・でも、かばんを持っていたんですよね。」

「当然さ。一応仕事に行くんだからな。」

言い終わって私はまた窓辺を向いていた。列車は動き続ける。右に曲がり、その次は左に、そしてまた右に・・・。

「でも、あなたは死ぬときそのかばんをこう、両手を交差させて抱えていたんですよね?」

そのジェスチャーなのか、彼女は自分の肩を抱くようなポーズをした。

「それって、そのケースになにか思い入れがあったんじゃないんですか?」

「どうだったかな。この中にあったのは無意味になった書類だけだったよ。」

「でも、そのスーツケース、たとえばですけど、あなたの妻からもらったとか。」

そういわれてふと、妻と息子の顔を思い出した。そのかばんは、私の誕生日のときに、息子のアイディアで送られたものだったのだ。二年前だったか。小学生でありながら随分と大人っぽいと周りから言われていたが、さすがにそう言い出したのが本当に私の息子だったということには、そのとき驚いたものだった。

何もいえなくなり再び網の上においておいたスーツケースをみあげる。どっかりとその黒い箱は網の上に居座っていた。ふたたびそれを手に取り、開けると、思ったとおりそこには書類があった。そしてそのスーツケースの側面に入れていた妻と息子の写真を取り出し見つめる。

家族のそろった集合写真。私の誕生日のときにとったものだったと思う。皆制服を着ており、妻と息子は笑っているのだが私はいつもどおりさっぱり笑っていない。写真は苦手なのだ。集合写真を撮ろうというのも、妻のアイディアだった。

ああ、息子は私が死ねば、金が大量に入ったという事実をしったところで、息子は彼の将来の安定性にほっとなどはしないだろう。きっとわけもわからなく父がいなくなってしまったことに納得できないでいるかもしれない。そして納得したら彼は泣くだろう。妻も私がいなくなってからは、たったひとりで息子を育て無ければならない。世間とも同情から奇妙な関係になってしまうかもしれない。悲しむかもしれない。泣くかもしれない。

いやそれよりも私自身が、彼らに会えなくなるのを悲しんでいた。私の胸におかれた手の暖かさ。冷たくなったなら、私が暖めてやればよかったのだ。生きる意味が無いと知った今でも、感情は、感情だけは、ただただ熱く、悲しさを感じていた。

しばらく何も言えなくなってしまった。顔が熱い。涙が落ちる。

何年ぶりだろう、涙を流すのなんて。

     「私は死んだんだよな。」

     「・・・はい・・・」

     はじめて彼女の顔に少し悲しそうな顔が浮かんだ。同情なのだろう。安っぽさしか感じなかった同情が、今はこのうえなく優しさを感じる。

     「・・・生きたい。」

     「・・・すみません・・・。」

     私が知る限り、もっとも優しい否定であった。

     120年という途方も無い時間を、私はどう過ごそう。生まれ変わったら何になるのだろうか。そんなことを思いながら、ふと眠気が差してきた。涙を拭くのも忘れて私は眠りについていた。

     深く・・・深く・・・。





     「もう大丈夫です。あなたの夫は生きたいとはっきりおっしゃいました。」

     その言葉を聴いて、私はこの上なく安心した。夫が早くに仕事に出かけてしまったのに、特に疑問に思わなかったのがそもそもの間違いだったのだが、幸いにも夫は意識不明ではあったものの一命を取り留めていたのだ。

     しかし一度自殺をした人は、再び目覚めたときまた自殺しようとしてしまうのではどうしようもない。私もそれを知っていたため、それに悩んでいたが、そんなときに病院から密かに、この事業を行っている団体がいるという話を私は聞いたのだった。

その団体はまだ正式名称をもっておらず、また、彼らのすることもまだ実験段階であるといっていた。彼らは、一度自殺をして命を取り留めた人たちが、再び自殺する可能性があると思われた場合に、この団体は彼らが極力おちつける雰囲気を作り出し、彼らの情報からどんなところで再び生きたいと思えるかを完全に分析して自ら生きたいと本気で思わせることを仕事としている人たちだとか。

     「あなたの夫で8人目なのですが、いまのところ8人中8人とも生きたいといってくれましたよ。正直私のほうが安心しているくらいなんです。」

     「演技がお上手なのですね。」

     「とんでもない。あれはほとんど私の正直な疑問ですよ。」

     白いブラウスと緑の長いスカートをはいた、夫の話し相手をしていた彼女と私は話していた。彼女が言うには、質問に対する答えのマニュアルなどは存在しているらしく、一通りの骨組みがそのプログラムにはあり、万が一、一つ目のプログラムが成功しなかった場合には違う手をつかって被験者に生きる希望を諭す予定であったらしい。しかし今のところすべての被験者が第一の段階で生きたいといっているため、もうすぐこの団体も公式的に動けるようになるらしい。とはいえ決して彼らの存在は表にはでてはいけないため、たとえ被験者が目を覚ましてもこのことは伝えないようにときつく私は口止めをされていた。このような団体があると知られてしまえば、自殺した人たちにこの情報が行かないとは限らず、その場合にはこの団体はその被験者をどのような方法でもう一度生きる希望をもたせるか、手段が無いのだそうだ。

     「それにしても、うらやましいです。あなたのために本当に死ねる夫がいらっしゃるなんて。・・・あ、その・・・いえ、・・・その」

     「ええ、わかっているわ。あなたは本心でそう思っているわね。」

     「すみません」

     「謝らなくていいわ。私は本当にあなたに感謝しているのだもの。」

     息子は夫がプログラムを受けている間、ついに待ちきれずに寝てしまっていた。夫が意識不明の重態に陥ったと知ったときから、息子は二日の間一睡もしていなかったのだ。

     プログラムを行うにあたって、私はいろいろなことを聞かれていた。夫の住んでいたところ、夫の両親、彼の幼いころの思い出の場所、私たちと夫をつなげるなにか大切なもの、性格、などなど。彼らはその情報を元にすべてが彼をおちつかせる場所を割り出し、その結果今回は彼がむかし乗っていた列車を、完全なまでにスタジオで実現させたのだ。そして彼が目覚めるだろうという時間を計り、彼を睡眠薬で眠らせてから着替えをさせてスタジオに運んだのだ。服はさすがに汚れていたためどっちにしろ着替えさせる必要があったが、スーツケースはよほど大事に抱いていたのか、ほこりが付いただけだといっていた。

     彼女が言っていた答えも、ある程度質問を、ほんの少し気づかれない程度に無理やり、彼女の、元から持っている答えに向かわせるようになっていた。ここはどこかですよね。あなたの質問とはようするにこういう意味ですよね、などといった類である。

     「あなたが選ばれたのも、なんとなくわかる気がするわ。私はむかし、清楚だのなんだのっていわれていましたけど、あなたってなんだか私の若いころのイメージに似ているかもしれないわ」

     「そうですか?」

     「ええ。美人ですしね。」

     そこで照れたように彼女は笑った。


今、彼は病院の白いベットで患者用の白い寝巻きを着て静かに寝息を立てている。窓は開けておいた。彼の好きなものは涼しいそよ風。あの時も彼は、窓を開けて静かに列車に座っていた。息子はどうやら目が覚めてしまったようで、目をはっきりとあけ、じっと彼の手を握っている。私もそっと手を添える。大丈夫よ。もうお父さんは遠くに行かないわ。

うん。そういって息子はひたすら待つ。

おはよう、がいいかしら。おかえりなさいがいいのかしら。

ふとそんなことを私は考えていた。彼の手が暖かい。そう気づいたら、なぜか泣けてくる。あんまり私が静かに泣くものだから、息子が大丈夫?とたずねて来た。

浅く・・・浅く・・・ゆっくり彼の意識は深みから浮かび上がってくる。彼の鼓動は動き続けている。


     「生きることってね。きっと、意味があるのよあなた。全員共通の意味はないかもしれないけど、きっと人それぞれにあるのよ。あなたの生きる意味はあなたしか見つけられないと思うわ。だからあなた自身で見つける必要があるのよ。たとえ生きることに意味が無くても、私は無意味に生きるのが嫌よ。それに私の生きる意味はもうみつけているの。それはあなたと一緒に生きること。息子を立派に育てること。それ以上なにも複雑じゃないのよ。」


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