81話 綾奈
―ショックだったのかも知れない
それが、一日経った今の私の感想だった。
そう望んでいたはずの自分。
でも。
唇を重ねた二人を見た瞬間。
その想いよりも、そうあって欲しくないと望んでいた自分に気づいて、私は愕然とした。
誰かの関係が変わることで、自分達の関係も変わってしまう。それは、変わりたくないと思っていた日々の歯車が、鈍い音を立てて狂ってしまうことへの恐怖だったのかも知れない。
そんな中、教室に響いた乾いた音。彼女が彼の頬を叩いていた。
動揺に不安げに瞳を揺らす彼女の姿に、まるでこうなるように仕向けた私が頬を叩かれたかのような錯覚を覚えてしまって。
自分の自己満足に走った結果が、あの表情だとしたら。
『傷つけてしまった』
そう感じた瞬間、私は頭の中が真っ白になった。
それからは酷いものだと我ながら思う。
散々そうなるようにしておきながら、八つ当たりのように彼を詰った。
そして告げられた言葉に。
私は動揺して、その場から逃げ出していた。
駅前をまっすぐ突き抜けている大通りから、少し外れた場所にある喫茶店Re:Symphony(リ:シンフォニ)。
いわゆる、一等地と呼ばれるような場所ではないが、それでも洋風の可愛らしい外観には、目を引くものがある。
そして、一度中に入れば麗しい女性達がメイド服でお出迎え。
それ目当ての男性客が多い印象も受けるが、その実女性客も多い。菜乃里香と綾奈の二人が作るランチが、密かに人気が高いためだ。
その美味しさはさることながら、調理する者が二人しかおらず、作られる数に限りが出来てしまう上に、その一人は学生だ。その都合により数量が変化することが、良い意味で作用しているのだろう。いわゆる、数限定の魔力というものだ。
それでも、やはり作れる数が増えれば必然的にお客の数が増えるだろう。
だからこそ、綾奈は学校が終わればすぐに家に帰って手伝うようにしていた。
それが、早くに父を亡くし女手一つで自分を育ててくれた母親への、綾奈なりの恩返しのつもりだった。
そのはずだったのに。
「綾奈、大丈夫?」
いつの間にか寝てしまっていたらしい。熱で潤んだ瞳の視界に、心配そうな母親の姿が見えた。
部屋にかけられた時計に目をやる。時刻は午後五時。いつもの騒がしさがないところからすると、母親がいつもより早く喫茶店を閉めたのは明白だ。
バイトは雇ってはいるが、調理が出来る人は綾奈と里香しかいない。
自分を看病するための行動だと分かるからこそ、綾奈は心底申し訳なく思う。
「うん。ごめんね。お母さん」
「謝ることなんてないわ。今はゆっくり寝て、しっかり休みなさい」
謝罪を口にする綾奈に、里香は苦笑いする。
「うん」
迷惑をかけないようにしているつもりが、いつも迷惑をかけてしまう我が身を恨みつつ、綾奈は素直に頷いた。
自分はいつだってそうだった。
病弱、という訳ではないが、精神的には打たれ弱く、精神的な疲れがすぐに体に影響してしまう。せっかく、誰にも心配かけないように早退してきたのに、これでは元の子も無いではないか。
「翼ちゃんと薫ちゃんにも謝っておかないと……」
熱にうなされながら呟く。
長い付き合いだ。たぶん、早退理由もバレているだろう。
「……優さん、大丈夫かな」
綾奈は深い溜息をつく。
その溜め息に気づいた里香が、思い出したかのように手を合わせた。
「そういえば、皆、お見舞いにくるって言っていたわよ」
「え! うそ!」
予想外の言葉に、驚きのあまり思わず飛び起きる。
「……寝てなさいってば」
そんな綾奈の姿に、里香は呆れたように笑う。
しかし、綾奈の心中は穏やかではなかった。
ここ数日間で、どれだけ友人達に迷惑をかけたのやら。更には、この体たらくである。
顔も合わせられないとは正にこの事だ。
「お母さん、お見舞いなんだけど―」
「却下」
「……私、まだ何も言ってないよ」
意を決したように口を開いた綾奈だが、里香は聞き終わる前に返事をよこした。
それが面白くない綾奈は頬を膨らませて抗議する。
「どうせ『大丈夫だと言って断って』っていうお願いでしょ? そんな友達甲斐のないことさせるわけないでしょ」
もうお見舞いは歓迎だと伝えてあるから、と里香は綾奈のおでこを軽く叩く。
「とにかく。さっき、今から皆で行きますって電話があったから、もう少ししたら来てくれるはずよ」
「明日には元気になってるのに……」
不貞腐れたように顔をしかめる綾奈に、里香は呆れたように溜息をつきながら、部屋を後にしようと立ち上がる。
「みんなって……神凪君もなのかな」
それは、質問というよりもただの独白。
そんな綾奈の言葉に、里香は立ち止まり目を瞬かせる。
「神凪君っていうと、優ちゃんの恋人の? 彼がどうかしたの?」
「え? あ、ううん。なんでもない」
(神凪君、か……)
綾奈の取り繕ったような態度に、里香は訝しげな顔をする。
そういえば、綾奈の性格上、ただの体調不良で寝込んだだけなら、心配してくれた友達のお見舞いを断ろうとはしないはずだ。
「喧嘩でもしたの?」
しばらく思考を巡らせた結果を口にした、里香の優しい問いかけに綾奈は静かに首を横に振った。
「けど……今はあまり顔を合わせたくないかな」
自分が勝手に嫌な過去を連想した挙句、それを振り払うためだけに彼を詰ってしまった。
何一つ成長しない自分と、未だに自分の弱さの根源をそのせいにして悲劇のヒロインぶっている自分に嫌気が差す。
「はいはい。でも、また貴女の悪い癖が出たのね。反省してちゃんと謝りなさい」
思いつめた表情の綾奈のおでこを、里香は再びぺちりと叩く。
小さい子供に言い聞かすような里香の態度に、綾奈はますます不満そうに口を尖らせた。
「自分でもわかってるもん。ただ、今はまだ上手く言えないだろうから」
「上手く本音を隠して言えないから、お見舞いを断るつもりだったの?」
「う……」
言い負かされて、綾奈は口ごもる。
そんなとき。
訪問者を告げるインターフォンが鳴った。
「どうやら皆到着したみたいね」
こうしてはいられない。
里香は皆を出迎えるために、今度こそ部屋を立ち去ろうとする。
だが、ふと立ち止まって。
「綾奈」
振り向かず、拗ねて布団に潜り込んだ娘を呼ぶ。
「みんな、貴女のいくつもある中から選んだ本音じゃなくて、いくつもある本音すべてを受け入れてくれるはずよ」
素直になりなさい。
「…………」
里香の諭すような口調にも、綾奈は返事を返そうとしない。
里香は深く溜め息をついて、静かに扉を閉めた。
素直になる?
少しそう在っただけで、今回の結果を生んだのだ。
優さんと神凪君が恋人同士になればいい。
お似合いだと思ったのも本音。
でも、その実。
そうなったら、私達の関係が変わるだろうから、失敗することを望んでいたのも、まぎれも無い私の本音。
そのすべては、ただの我侭でしかないんじゃないだろうか。
我侭だと分かっているから、他人に見せる本音を選ぶ。作り笑顔と共に。
そうすることでしか、他人を傷つけないで接することができない自分はなんて歪んでいる人間なのだろうか。
「……私みたいな我侭女、素直になったら他人を傷つけるだけで誰も傍にいてくれないよ」
綾奈は呟き、布団の中でその身を丸めた。
なんとか携帯で更新。如月コウです。慌ただしい日々が続いていますか゛、少しずつでも頑張って進めていきたいところです。皆様の暇潰し程度になれたのなら光栄です。それでは、また次回お会いしましょう