第74話 たそがれ
その日の放課後。
夕暮れ染まる教室に優は、憂いを帯びた眼差しで、窓の外で部活動に勤しむ学生達を眺めていた。
僅かに開けられた窓から流れた風が、優の頬とブロンドの髪を撫でていく。
その姿は、まるでドラマのワンシーンを思わせるほど美しく、教室に佇む優の存在に気づいた者は、一瞬目を奪われてしまうことだろう。
そんな中、優は一言溜め息混じりに呟いた。
「眠いし、お腹減ったな」
しかし、所詮それは外面的な話であって、現実はこんなものである。
部活動に所属していない優にしてみれば、今頃家で晩御飯までの時間をゲームや惰眠に費やしている時間帯だ。ましてや、大分慣れてしまったとはいえ、まだ女としての学校生活には注意する点がある以上、集中力を持続し続ける必要がある。そうなると、なかなかに体力が消費されてしまうものなのだ。
「人を呼び出しておきながら、第一声がそれですか」
「思ったことを口に出しただけだよ。私は」
思考を遮るかのようにかけられた声にも、優は動じることなく応じる。
しかしながら、これからの事を思うと少々気分が重くなるというものだ。
薫達の提案は思ったよりも簡単で、放課後、誰もいない教室に翔を呼び出して、ちゃんと話をして仲直りするというものだった。
『話せないのではなくて、話すことから逃げているだけですよね』
話そのものが出来ない状態だからこそ困っていたのだと言ったとき、綾奈はまっすぐこちらを見てそう返してきた。
その真摯な眼差しに気圧されて、その提案を受け入れた。と、いうよりも、今この状況を生み出してしまっているのは、事実そこにあるのだと気づいたからだ。
(確かに、こうやって無理やりにでも話す場を作れば逃げられないな)
優は自虐気味に苦笑いを浮かべる。
そういえば、自分が女に姿を変えてしまった時も、『なってしまったものは仕方が無い。どうにかなるだろう』といった、ある種の諦めにも似た客観論を抱いていた。
そうすることで冷静でいられたし、なにより、困難な状況を打開するよりも、仕方が無いと受け入れてしまった方が楽だということを真っ先に考えていた自分がいる。
実際、今の翔との関係も、心のどこかで時間と共に元に戻るだろうと考えていたのではないだろうか。それはあまりにも情けなさ過ぎる。
「誰がいるか分からないから、普段通りの口調で話すけど……いいよね?」
薫達のことだ。どこかで聞き耳を立てているかもしれない。
そのためにも、このまま女口調で通さなければ後々面倒な事になりかねないので、念のため確認しておく。
尤も。一人では不安なので、どこかで聞き耳を立ててくれている方が、幾分か緊張が解れるので、ありがたくはあるのだが。
「なるほど」
そんな優の意図に気づいたのだろう。翔は視線だけを動かし苦笑した。
「いつもの無遠慮さがないと思ったら……。優さんも、可愛らしいところがあるじゃないですか」
どうやら、気づかれたくない部分まで気づかれたようだ。
やれやれと肩を竦める翔に、優は不満げに呟く。
「……意外は余計」
不満げに愚痴を漏らしつつも、優は、自分が安堵していることに気がついてしまった。
己の正体を知っているのは翔だけではないが、一番最初から傍にいてくれた存在というのは、自分の中では特別に成り得る。
お互いに、すべてを包み隠さず一緒にいられる存在だと思っていた。
だからこそ、相手に自分が知らない部分があることを知って、戸惑ってしまっているのだ。
(ああ、そうか)
そこまで考え至って。
優は初めて、今まで自分がどれだけ翔という存在を頼りにしていたのかに気づく。
「……あはは。まいったな」
「どうかされましたか?」
突然、呆れたように笑う優に、翔は怪訝そうな表情を浮かべて問いかける。
「いや。こうしたやりとりも大事だと思えるんだから、周りが勘違いするのも仕方がないのかな、って思って」
なるほど確かに。これが男女間での問題であるならば、これは色恋沙汰の類であると勘違いされても致し方ない。しかし、それが恋愛感情の類のものかどうかと問われれば、はっきりと断言できるが、答えは否だ。
「けど、そうじゃない。そうじゃないんだ」
その理由は至って簡単。
あの寂しげな横顔を見てしまったから。
こんなに不安になっているのだ。
「私はただ、翔がいなくなるかも知れないってことが不安だったんだよ」
これが、ずっと自分の中にあった不安の正体なのだと、口に出して初めて確信を持てた。
「秘密だとか、私にとっては問題じゃなかった。私は、こうやって馬鹿言い合える奴を失いたくないだけなんだ」
「……」
堰を切ったかのように語られる優の本音に、先程まで怪訝そうな顔をしていた翔も、いつのまにか真顔で聞き入っている。
「考えて、ちょっと不安になったんだよ。私は貴方の事を何も知らない。それって、貴方がいつでもここから居なくなれる存在であるってことだと思えたから」
「そんなことは……」
「ある」
翔が否定の言葉を告げようとしたにも関わらず、優は更にその言葉を否定した。
「いなくなるのは簡単。顔しか知らない相手なんて、私も見つけようが無い」
だから勝手にいなくなるな、と、優は翔をまっすぐ見据えて告げた。
いつか、いなくなるのかも知れないという疑問は、自分の中でずっとあって。
衣緒や汐のように、元に戻そうとする人間が目の前に現れることで、その疑問が膨らんでいった。
そして、遊園地の帰り道。
なかなか合流しない二人に痺れを切らして振り向いた先にいた汐と翔は、ほんの一瞬、目蓋を閉じれば、消え去りそうな儚さを感じられたから。
「……まったく。あなたは」
一瞬、何か言おうとした翔は、その言葉を飲み込むと、固くなった表情を崩して、困ったように微笑む。
NPCだと説明したはずの己の存在を、まるで元から存在しているかのように『顔しか知らない相手』と言い切った。
ましてや、いなくなれば探すつもりであることは、『見つけようが無い』という言葉が告げている。
そんな支離滅裂な言い分も心地良いと感じさせるのは、優が必死に自分を繋ぎとめようとしてくれているからこそだろう。
「では、秘密を話せばいなくなっても?」
「は?」
突然の翔の申し出に、優は目を丸くする。
「ですから、探し出せるような情報を提示しておけばいなくなってもいいんでしょうか?」
「ちょ!?そ、それは卑怯!そもそも、ほんとに秘密があるの!?ってか、いなくなること自体が反対であって―」
優が慌てて言葉を訂正しようとすると、翔は遮るように『それでも』と前置いて、
「探し出してくれるのでしょう?」
「…………う」
優は、なぜか無性に恥ずかしくなって、俯くように顔を背ける。
このような青春ドラマのような展開は苦手なので遠慮願いたいのだが、目の前にいる人物は、本来この場にいるはずのない人物であることには間違いない。
だが、その人物を含めて、今の環境を悪くはないと思ってしまっている自分の気持ちにもまた、間違いなどないのだ。
だから、
「……可能な限りは」
俯いたまま、か細い声で答えた。
「愛の告白のようです。優さんも、存外に女の子していますね」
「……ぶん殴るぞ」
「いえいえ。率直な意見を述べたまでですよ」
そう言って微笑むと、翔はちらりと横目で廊下側を流し見ると―
「……は?」
突然、翔に腕を掴まれ、引っ張られた優が間抜けな声を出す。呆気に取られてしまい、よろめいた優を、翔はその腕と体で受け止めた。
「……なにを、してるんだ?」
呆けたまま、優は現状に対しての疑問を、混乱した頭で捻り出す。
抵抗はしない。と、いうより出来ないでいた。
元々男であり、女性との交友関係もさほど広くはなかった優にしてみれば、誰かにこれほどまでに情熱的に抱きしめられるという経験が無い上に、そもそも相手はかつての自分自身という珍妙不可思議な状態だ。
優は、動かない頭を無理やりフル回転して考える。
通常、女として考えれば、いくら知り合いだとはいえ、異性からの抱擁はご遠慮願いたい所であって、叫ぶ、或いは暴れるといった行動を取るのが当たり前だろう。
逆に男だったらどうだ?
相手が女だったら、素直に喜ぶ場面かもしれない。仮に吉良だったら、相手が抱きつこうものなら、喜んで抱き返すだろうが……。
(いやいやまて。落ち着くんだ、俺)
浮かんでは消える、冷静そうで実は混乱気味の思考を落ち着かせるため、翔の腕の中でゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「なんのつもりだ。冗談にしても笑えないぞ」
そして、今度ははっきりとその疑問を翔にぶつける。
すると、翔はその腕の力を緩めると、ゆっくりとした動作で優の両腕を掴んで、互いの顔が見える位置まで引き離した。
そうしてぶつかり合った視線の先。
遠くから様子を見守っていたのであろう薫達が、教室へと駆け込んできた姿が見えた。
その姿になぜか安堵して、優が力を抜いた瞬間、
「待っています」
そんな呟きが耳に届く。
「……え?」
そして再び優の頭が真っ白になる。
言葉が出ない。
発する事も出来ない。
何をされているのかは理解は出来ているのだが、なんというか。
自分の身に起こっている事だということを理解できないというべきか。
そんな状況を、教室の入り口で優と同様に呆然と立ち尽くす三人は、この状況を完結に叫んで、それが性質の悪い幻の類ではないことを知らせてくれた。
「き、キスしてるーーーーー!!」
お久しぶりです。
パソコンがご臨終して吐血気味の如月コウです。
更新が遅れて申し訳ないです(汗)
さて、優が、モヤモヤした感情に振り回されていた矢先の出来事。
最近は動きが無い話が続きましたが、これからまた動きが出てきたらいいかな、と思います。
パソコンの突然のご臨終で、書き溜めた分が消えたりしましたが、めげずに待って頂けると嬉しいですorz
如月コウでした!