第70話 変わらぬ心と変わり始めるもの
「……はい。そうですか。これからよろしくお願い致します」
花火大会も終わった、帰路の途中。
汐は、一言お礼を告げて携帯電話を閉じて、深く溜め息をついた。
携帯電話を使用していた自分に、気を遣ってくれたのだろう。少し前を歩く友人達に視線を移し、微笑む。
最近、何かと色々慌しい日々が続いていたが、慌しさが楽しいと感じたのは、汐にしてみれば本当に久しぶりだった。
「これで、少しは今日の恩返しになるでしょうか」
「みんな、そういうの気にするようなタイプじゃないようだけど……」
きっと喜ぶ、と笑顔で返す衣緒を眩しそうに目を細めながら見つめ、汐は思う。七瀬衣緒という人物が、今この時彼女であって良かった、と。
幼い頃から、特別扱いという孤独感の中で育てられて、いつの間にか笑顔を振り撒きながらも、他人とは一定の距離を保つようになってしまっていた自分。
それは、少し前を歩く彼女達が望む友人の形ではないだろう。
「でも、宜しかったのですか?」
去来する鈍い痛みを胸に感じながらも、それを衣緒に悟られないように努めて、汐は疑問を口にした。
「ん?」
「先程の件ですよ」
質問に対して首を傾げる衣緒に、汐は、手にした携帯電話を無言で指差す。
「優さんを24時間こちらの監視下において、Sウィルス解決の糸口を探すと言い出したのは貴女でしょう……」
「そ、それはそうなんだけど」
呆れたような汐の物言いに、バツが悪そうな表情を浮かべる衣緒。
それもそのはずだ。
衣緒として存在していたはずの自分と、汐として存在していたはずの衣緒が、ある日突然、目が覚めたら入れ替わっているという常識はずれな事態が起こったのは、今から数ヶ月前のこと。
その日。父親が経営している会社が運営している、オンラインゲーム夢幻学園を二人でプレイし終えて、寝ようとしたときの出来事が原因だ。
Sをアンインストールしますか?
無機質な画面の真ん中に、ぽつりと浮かび上がった一文。
それを了承してしまった理由を挙げるとすれば、眠り眼で思考が鈍っていたということ。そして、確認もせずにセキュリティソフトに摘出されたウィルスか何かだと、勝手に思い込んでしまったことだろう。
それ以来、衣緒となってしまった汐は、必死に元に戻る方法を探してきた。
そして見つけた、もう一つのSの存在。
だが、それはいくつかの類似点はあるものの、自分達とはまた違った形で存在していたため、彼女は衣緒としての立場を利用して、24時間監視できるようにしたのだ。
その案は、元々衣緒であった汐からしてみても、かなりの無茶が必要だったが、それに見合うだけの情報は得られるだろうと渋々承諾したのだが……。
どういう訳か。衣緒は、その案を白紙に戻すと言ってきたのだ。
「優さんを自宅に帰す。つまりは、監視を止めるということですね」
深く溜め息をつく。だが、呆れたような口調だが、その表情は穏やかだ。
いや。本当は、その理由など、汐は十分過ぎるほど理解していた。
友達だから。
言葉にしてしまえば、それはとても簡単なこと。
ただ、何事も打算で動いてしまう汐にしてみれば、その行動理念は、自分には到底理解できないものなのだと感じてしまう。
だからこそ汐は、そうやって素直に感情を優先して動ける衣緒を尊敬もしているし、彼女のように在りたいと何度も願ってきた。
そう考えると、Sという代物が、人の変身願望がパソコンという媒体を通して、歪ながらも形を成したものかも知れないという神凪翔の推測は、正しいように思える。
「でも。諦める訳じゃない」
それでも、やはりその願いは歪なものであると。それを証明するかのように、今は衣緒として存在している汐が呟いた。
「確かに、私は衣緒に憧れていたけど。そう在りたいと願ったこともあったけど……。今を望んだわけじゃない」
真摯な眼差しで。前を見据えて。彼女は汐としての言葉を口にした。そして、前を歩く友人へと駆けていく。
その姿に。言葉に。汐であることを願った衣緒の胸が、僅かに痛んだ。
それでも、私はこうして汐としていられる時間が愛おしく、変えたくない。
もし、その思いを彼女に告げてしまったら、ずっと築き上げてきた信頼関係や、尊敬の裏側にある、嫉妬という醜い感情を認めることになってしまう。
その結果が、心の中ではこのままであることを望みながらも、彼女が望んだ、元に戻るという願いの手伝いをしている自分が在ることが、滑稽で仕方がなかった。
そんな矛盾の末にある、今の状況を受け入れられるほどの心の余裕は無い。
私には、あの輪には入れない。
その言葉が脳裏を掠めた瞬間。汐は、顔を下げて、歩みを止めてしまう。
だが―
「密談は終わりましたか?」
「…………え?」
前方からの突然の呼びかけに、汐は下げていた顔を上げる。
その視線の先に立っていたのは、翔だった。
「終えたようですね」
翔は、呆けている汐の返事を聞くよりも先に、正面に立ち、語り掛けてきた。
「…………」
突然の出来事に、汐は一瞬何が起きたか理解できないでいた。
それでも、何かを言わなければならない気がして、汐は必死に言葉を探す。
だが、いったい何を?
衣緒には話していないが、汐に言わせてみれば、現神凪翔は謎が多過ぎる。
Sという異質なものの中で、一番の異質物を挙げるとすれば、今まさに自分の目の前にいる人物の存在だ。
その理由は至って簡単であり、明確だった。
彼が何者か分からない。
その一点尽きる。
あの日のサーバー情報の中に変化が見られたのは、YOUというキャラクター唯一人。
だが、それだけではプレイヤーの個人情報を特定するには至らない。
それは、元々、無幻学園のような基本的に参加無料のオンラインゲームにおいて、ちゃんとした個人情報を入力する人が少なくなってきている事が要因の一つでもあるが……。
汐は、その無幻学園に参加するプレイヤー情報を確認出来る立場にいる者であって、ある程度確認し終わった上での見解なのだ。
しかも、ただ個人情報がでたらめなプレイヤーをすべて調べ上げたわけじゃない。
優のように、キャラクター自体が変化した以外のことでも、何らかのSの影響下にあるプレイヤーがいるかもしれない。
だからこそ、プレイヤー情報が不明瞭なキャラクターに対して、『バグが発生した』と発表し、初期化することで不審人物を炙り出したりもした。
通常、これまでの情報が消えたのならば、大抵はそのゲームを再びやり始める気には到底なれないだろう。だが、万が一、Sと関わりを持った人間がいるとすれば、無幻学園を辞めるわけにはいかないはずだと考えたのだ。
そして、汐の思惑通り、あっという間に調べる必要性がありそうなプレイヤーを絞り込むことが出来た。
だが、どうしても確認できないプレイヤーが数人いることも事実だ。
その一人が、神凪翔としてこの場に存在しているとしたら?
そして、これは可能性としての話だが……。その人物こそ、この状況を生み出した元凶であって、自分達を監視するためにこの場に入り込んだのならば。
そう考えれば、ある程度の辻褄が合う。
ただ、そうなると、優という人物は餌で、それに釣られて寄ってきた自分自身も、その計略にはまってしまっていることになる。
だからこそ、その人物から優を遠ざける意味で衣緒の案を承諾したし、必要以上に彼との接点を持たないようにと努めていた。
汐にとっては、警戒心はあっても信頼という言葉には程遠い存在。それが神凪翔という人物だった。
「……どうして」
汐は、思わずそう口に出していた。
その言葉に、翔は怪訝そうに眉顰め、苦笑した。
「衣緒さんは変わられましたね」
「は?」
予想外な翔の言葉に、汐は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「これで、もう少し貴女も皆さんに対しての警戒心を解いて下さると助かるのですが」
いつまでも警戒心を解かない汐への皮肉のつもりだろうか。
翔は、やれやれといった感じに大げさに溜め息をつく。
「あ、貴方には関係ないことでしょう!」
まるで、心中を見透かされたかのような翔の言葉に、汐は顔を真っ赤にして反論する。
良くも悪くも、当たり障りのない友好関係を築くことは得意だった汐にしてみれば、その奥に秘めた警戒心を指摘されること自体、初めてのことだった。
見透かされたことに、怒りと、なぜか無性に恥ずかしさを覚えて、汐は顔を伏せる。
そんな汐に、再び困ったように苦笑いを浮かべつつ、翔が口を開く。
「何を遠慮しているのかは解りませんが……」
翔はそこまで言って一呼吸おくと、視線を、前を歩く優達に移して……。
「皆、貴女が肩を並べて歩いてくれることを待っています」
寂しげに呟いた。
「…………え?」
その呟きの中にある寂しさの正体を、汐はよく知っている気がした。
顔を上げて、翔の表情を伺おうとしたが……。
「それに、待たせ過ぎると後が怖いので」
その表情は、すでにいつもの人を食ったような笑顔で微笑んでいた。
「そうですね」
あまりの変わりように、一瞬呆気に取られたが、汐はすぐさま微笑み返す。
翔の後ろには、立ち止まって談笑している優達の姿が見える。
時折、こちらの様子を確認しながら、ずっと自分達の到着を待つ姿は、汐にとってはとても眩しかった。
そして、それを眩しいと感じているのは、自分だけではないだろう。たぶん、目の前に立つ翔も、きっと。
それは、先程の呟きにあった寂しさの根源を知っているから。
自分には、あの輪に入ることが出来ない。
ただ、見守るだけしか出来ない自分への嘲笑と、それでも大切な誰かが笑っていてくれるならばそれでいいと。
そう願っている者だからこその呟き。
それは、汐自身が衣緒に抱いている想いとなんら変わりないもの。
そう思うと、なぜか心が軽くなったように感じられるから不思議だ。
つい先程まで、神凪翔という存在は、もっとも警戒すべき存在だったはずなのに、今では妙な共感と安心感をもたらす存在になっているなんて。
汐は、自分がこんな単純な人間だったことに驚きつつも、それを「嫌じゃない」と思っている自分がいることに気がついて、思わず頬を緩めてしまう。
「残念ながら、警戒し甲斐のない人達ばかりです」
翔が、先に待つ友人達を見て笑う。
「確かに。警戒するのが、馬鹿らしく感じさせられますね」
汐も、それを見て微笑む。
そして、そのままの笑顔で、汐は言った。
「でも、貴方はまだまだ油断出来ない人物ですが」
こうして、警戒心をそのまま言葉にするなんて、普段の汐ならば考えられない愚行だった。
でも、今はこれでいい。
そう思えるから、不思議だ。
「確かに」
そんな汐の物言いが面白かったのか。翔は、必死に笑い声を抑えながら、先程の汐の返答を真似る。
「今後、貴女が、警戒するのが馬鹿らしく感じれるように努力しましょう」
だが、汐はそれを不快には感じなかった。
「ちなみに。現状、私の中での、貴方に対する好感度を上げる方法が一つあります」
「聞きましょう」
「ささやかな疑問に答えてくれることです」
まるで、翔を試すかのような眼差し。
しかし、汐の表情は穏やかだ。汐の性格上、質問ではなく疑問として投げかける時点で、まともな返答は期待していないということは、翔にも理解できていた。
それは、汐なりの不器用な譲歩のつもりなのだろう。
ならば、翔の返答は決まっていた。
「聞きましょう」
翔は頷く。
その姿に、汐は満足気に微笑む。そして、自分の中にある率直な疑問を口にした。
「貴方の正体は、響夜ですか?」
とりあえず、目標のところまでの更新はなんとか間に合いました(汗)
これは色々と後書きがし難いお話です(ぇ)
無茶な優の環境な変化には、実は衣緒、というよりも汐の思惑があったからこその出来事。
今回、ここに辿り着くまでに時間がかかったせいでもありますが、衣緒と汐が出てきてからのお話は面白味が欠けてしまっているという状態に陥ったのは、自分の構想内でのお話を、上手く表現しきれていなかった気がします。
反省するべき点が多いですが、今後の糧にしていこうかと思います。
次回から、再び学園生活のお話になります。
汐と衣緒が本当の意味で友達となった新しい学園生活にご期待ください。
お手紙、コメント、感想大歓迎です!文法的におかしな部分、読み難かった部分があればご指摘、もし宜しければお願いします。
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もし宜しければ、ご覧下さいませ。
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となっております。
如月コウでした(礼)
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