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灰の記憶と星の地図 ~何度でも、君と明日を選ぶためのやり直し魔法~

掲載日:2026/04/24

## 序章 百回目の朝


天井の木目の節が、三つある。


光の差す角度は東から二十三度。ベッドのきしみは、腰に体重をかけたとき、かすかに二音鳴る。朝の空気は少し湿っていて、南の森の土と青草の混じった匂いがした。窓の外でクランツじいさんが炉に火を入れる気配がする。遠くで馬屋のケネスが厩舎の扉を開く音がした。水汲み場でマーシャが桶を叩く音が三回。


全部、知っている。百回、経験したから。


「……今日も、俺だ」


呟いた声は木の壁に吸い込まれて消えた。


アレンはゆっくりと体を起こした。腕が重い。脚も重い。《残響回帰エコー・リグレッション》は魔力も傷も元に戻してくれる。だが精神の疲弊だけは違う。やり直しのたびに少しずつ、少しずつ積み重なっていく。九十九回分のそれが今も骨の芯に沈んでいた。どれほど眠っても拭えない重さだ。


窓の外では、ラヴァン辺境の小村メイヤーが目を覚ましていた。鍛冶師のクランツが炉の前でぶつぶつ言っている。行商人のペドロが荷台の幌を留め直している。酒場女将のマーシャが二階の窓から布団を出した。隣の農家フォルクが「今日も天気は持つかな」と妻のネッサに声をかけている。村長の書記を務めるヨアンが朝の帳簿を抱えて小走りに過ぎた。馬屋のケネスが一番太った馬に水桶を差し出しながら「お前だけ飲みすぎだ」と文句を言っていた。


今日も、スタンピードが来る。今日も、アレンは一人では止められない。


九十九回が証明している。


扉がノックされた。

「アレン。起きてるか」

リックだ。

「起きてる」

「入るぞ」


幼馴染みの少年が扉を押して入ってきた。大工の父ユートに似た肩幅、日焼けした肌、手には昨夜の木剣練習でついた新しい擦り傷がある。いつもは呑気な顔をしているのに、今日は違った。心配というよりも、もっと硬い何かだ。


「顔色が悪い」

「問題ない」

「嘘をつくな。十日前から様子がおかしい」


リックは椅子を引いて、アレンの向かいに腰を下ろした。手を膝の上で組んで、まっすぐ見てくる。「最初に気づいたのは、誰も教えていない落とし穴をお前が先に避けた日だ。次の日、死骸になった野鼠を何事もないように跨いだ。昨日は魔物の出現方向を、見る前に言い当てた。俺は頭が悪いが、さすがに気づく」


「…………」


「お前が話してくれるまで待つと決めていた。でも今朝、お前の顔を見て、待てなくなった」


アレンはリックを見た。怒っている様子はない。責めてもいない。ただ、心配している。百回のうち、リックに話しかけられたことは何度もあった。でもこんな風に核心を突いてきたのは、初めてだ。


「何回目か、答えてくれ」


沈黙が落ちた。窓の外でケネスが「おい、水桶返せ」と叫んだ。鐘が一つ鳴った。


「百回だ」


絞り出すように言った。


「今日が、百回目の同じ朝だ」


リックの目が、わずかに見開いた。


アレンは話し始めた。全部を。《残響回帰》のこと。深い後悔とともに眠れば、その日の朝に戻ること。魔力も傷も元に戻るが、記憶と精神の疲弊だけは積み重なること。五年前、幼い妹のエルザを魔法の暴走事故で死なせてしまったこと。だからもう誰も傷つけたくなくて、全部ひとりでやろうとしてきたこと。百回、それで足りなかったこと。


話し終えたとき、アレンは気づいた。エルザが死んでから、誰かにここまで話したのは初めてだ、と。


部屋の外でクランツが「おい、朝飯食ったか!」と誰かに怒鳴る声がした。


リックはしばらく黙っていた。


「百回」と彼は静かに言った。「百回、一人でやってたのか」

「ああ」

「俺たちを信用できなかったから?」

「違う。お前らをまた傷つけたくなかったから」

「それは同じことだ」


声は責めていない。でも、ずきっとした。


「お前が一人で抱えてる分、俺たちは何も知らないまま同じ間違いを繰り返す。それが守ることになるか?」


アレンは何も言えなかった。


「俺はな」とリックはぼりぼりと頭を掻いた。「大工の息子で、剣がそこそこ強くて、お前より頭が悪い。でも壁を壊す力だけはお前より上だ。お前の知識と俺の力を合わせたら、百一回目は違う結果になるかもしれない」


「……リック」


「手を貸せ。そう言え。それだけでいい」


アレンは拳を膝の上で握りしめた。百回の孤独が、胸の奥で音を立てた。


「……手を、貸してくれ」


リックはにっと笑った。「最初からそう言えばよかったんだよ、馬鹿野郎」


-----


## 第一章 告白と調合


診療所の裏庭は薬草の香りが漂っていた。師のイレーナが往診で不在のとき、十七歳のリリアはここで一人、薬草の仕分けと調合をしている。手際がいい。知識も深い。でも彼女が一番得意なのは、人の顔色を読むことだ、とアレンは百回かけて知っていた。


「……話があります、よね」


アレンが口を開く前にリリアが言った。「今日のアレンさん、目の色が違います」


「見抜くな」

「すみません。でも、ちゃんと聞きます」


リリアは薬草の手を止めて、木の椅子にアレンを促した。自分も向かいに座って、両手を膝に置いた。アレンは話した。リックに話したのと同じことを。


リリアは最後まで口を挟まなかった。


「……全部、話してくれたんですね」


少し考えてから、彼女はアレンの手を取った。細い指だが、力がある。薬草で染まった指先だ。


「ありがとうございます。隠さないでいてくれて」

「感謝されることじゃない。俺が弱かっただけだ」

「弱くて、何が悪いんですか」


まっすぐ目を見てくる。「弱いから助けを求める。それは当たり前のことです。百回やって無理だったことを、三人でやれば解決できるかもしれない。ただそれだけです」


「……そんな単純な話か」

「単純じゃないです。でも複雑でもない」


リリアは手を離して、青みがかった細い草の束を差し出した。「これは青莢草といいます。燃やすと、魔物の攻撃性を一時的に和らげます。スタンピードで使えるはずです」


アレンは受け取った。草の匂いがした。どこかで嗅いだことがある、と思った一秒後に分かった。エルザが好きだった匂いだ。妹は「いい匂い」と言って、よくこの草を枕元に置いていた。


「……師匠から教わったのか」

「はい、イレーナ師匠に。でも応用は自分で考えました」


リリアはちょっと得意げに微笑んだ。エルザがよく見せた笑い方に、少し似ていた。


「今夜中に十本は作ります。あと——」と彼女は声を少し落とした。「一つだけ訊いていいですか」


「何だ」


「その力、怖くなかったですか。百回、また朝に戻るたびに」


アレンは少し考えた。「最初は怖かった。今は怖さより疲れの方が大きい」


「そうですか」と彼女は言った。それからまた薬草に手を伸ばしながら、独り言のように続けた。「あなたが百回かけて蓄えた知識を、私たちが三人分の力で支えられる。そう思ったら、百回が無駄じゃなかったと思えて。……少し嬉しくなってしまいました」


アレンは何も言えなかった。何も言えないまま、裏庭を出た。草の匂いがずっと、鼻の奥に残った。


その夜、三人は村外れの小屋でランプを囲んだ。アレンが地図を広げ、百回分の記憶を整理した。


「魔物の先鋒は東の街道から。第三分岐点で二手に分かれる。右翼七体、左翼五体。陽動の小集団が北の水路を回り込む」


リックが「右翼に何人いれば止まる」と訊いた。「ベーカー団長と四人。俺が光の壁を作れば二十秒は稼げる」


リリアが「左翼に青莢草の煙を流せば動きが鈍くなります。リックさんならそこで三体は処理できるはず」と言い、リックが「四体でも行けるぞ」と言い、リリアが「欲張りすぎです」と返した。


「問題はベーカーが俺の言うことを聞くかどうかだ」


「話してみましょう」とリリアが言った。「団長は頑固だけど、理不尽な人じゃない。ちゃんと説明すれば聞いてくれます」


「根拠が百回の記憶だと言っても信じるかな」


「信じなくてもいい」とリックが言った。「準備だけしてもらえればいい。結果で証明しろ」


アレンは、その言葉を百一回目の朝まで胸に持っておくことにした。


-----


## 第二章 百一回目の夜明け


夜明けの一時間前、防壁の上に自警団員たちが展開していた。


ベーカー団長が腕を組んで立っていた。四十絡みの硬骨漢で、辺境の自警団を十五年率いてきた男だ。隣には副長格のラーゲ、医療担当のキャス、若手のヴァン、弓使いのダラ、剣士のシード、それに農民自警組からカール、フォルク、アーヴィンの三人。遠方配置に七人。全部で十五名。百回の中で、これだけの人員が揃ったのは初めてだ。


「落ちこぼれの魔法使いが指揮を取るとはな」とベーカーが言った。「根拠を聞かせろ。お前は何の資格があって指示を出す」


「根拠は百回の経験です」

「百回の夢か」

「夢じゃありません。外れたらあなたの言う通りにします。一回だけ信じてください」


隣でリリアが静かに言った。「ベーカー団長、アレンさんは嘘をつく人じゃないです。私が保証します」


ベーカーはふん、と鼻を鳴らした。「ヴァン、北側水路に回れ。キャスを連れて行け。……外れたらただじゃおかない、アレン」


「外れません」


東の空が白み始めた。


「みんな聞いてくれ」とアレンは言った。低く、でも通る声で。「魔物の先鋒は東の街道から来る。第三分岐点で二手に分かれる。右翼に七体、左翼に五体。その後、陽動の小集団が北側の水路沿いに回り込む。陽動は速い、三体。水路組は先に動いてくれ」


「何でそんなことが分かる」とダラが言った。

「観察だ。繰り返した結果だ」

「信じなくていい」とリックが横から言った。「でも準備だけしてくれ。俺はアレンを信じる。左翼は俺が受け持つ」


どっ、と遠雷のような音が南の森から響いた。


「来た。今から三十秒で先鋒が見える」


アレンが言い終えるより先に、カールが「おい、北の水路を回ってる影がある!」と叫んだ。ヴァンとキャスが走り出した。


二十八秒後。地鳴りが響いた。東の街道から、黒い影の群れが現れた。第三分岐点で、ぴたりと二手に分かれた。


沈黙がぴんと張った。


「……当たってる」とシードが呟いた。

「右に七体!左に五体!」ダラが叫ぶ。


リックが走り出した。左翼へ。どん、と大きな衝突音。ざんっと剣が弾く音。一体、二体。リリアが燃やした青莢草の煙が左翼に流れ、魔物の動きが目に見えて鈍くなった。リックがそこへ踏み込む。三体。「もう一体!」「見えてる!」四体目がリックの剣を受けた。


「北側!今、ヴァン!」


アレンの声と同時に、水路の側面から三つの影が現れた。キャスとヴァンが待ち構えていた。


「まじか」とキャスが呆けた声を上げた。「本当に回ってきた」


「一体は速い、炎草で足止めしろ!」とアレンが叫んだ。キャスが懐から携帯炉を取り出して点火した。火の粉が散り、一体の足元が燃えた。もう一体にヴァンが剣を入れる。鈍い音が二つ鳴って、静かになった。


右翼ではベーカーが三体を前に「左を抑えろ、ラーゲ!」と叫んでいた。ラーゲが飛び込んで一体を壁に押し込む。アレンが記録魔法を展開した。エネルギー流の先読み。魔物の動線に光の壁を構成する。


ぼん、と残り二体が壁に激突した。


「今だ、ベーカー!」


鈍い打撃音が二つ鳴って、右翼も静かになった。


三十分。それで全部、終わった。


村の広場に降りたとき、ガルドス村長が待っていた。七十近い老人で、皺だらけの顔に驚きが浮かんでいた。「……死者がゼロだと?重傷者は?」


「リックが腕に軽い擦り傷。カールが足首を捻った。それだけです」


ガルドスは目を細めた。書記のヨアンが「……傷者数が前回の三分の一以下です」と帳面を確かめながら言った。


マーシャが窓から顔を出した。「アレン!今朝の朝飯は無料にしてあげるよ!」ネッサが「うちの畑も無事だった!ありがとう!」と泣いていた。フォルクが無言でアレンの肩を叩いた。ケネスが「馬が怯えなかったぞ、すごいな」と感心した様子で言った。ペドロが荷台の陰から顔を出した。「あー、俺も生きてるよ、参考までに」


ざわざわと笑いが起きた。


アレンはそれを、少し離れたところで聞いていた。


ベーカーが近づいてきた。「俺が間違っていた」


目を逸らさずに言った。「今まで、お前を見くびっていた。謝る」


「……受け取る」


「今後は協力する。指揮系統に入れてくれ。俺には十五人の部下がいる」


「……ありがたい」


ベーカーは短く頷いて、背を向けた。


リックが横に来た。「どうだ、一人より良かっただろ」


アレンは空を見た。青かった。雲が流れていた。


「……ああ」


それだけ言った。でも胸の奥で何かが、少しだけ緩んだ気がした。


-----


## 第三章 地下遺跡と解析


スタンピードの根本原因を探るうちに、南の森の地下に何かある、という話が浮かびあがった。


きっかけはイレーナだった。往診から戻ってきた薬師の師匠が、診療所の奥から古い記録帳を引っ張り出してきた。「三百年前の村記録に書いてある。南の森の地下に古代の封印があった。当時の神官たちが封じた何かがある。もし崩れかけているなら、魔物が増えるのも頷ける」


神官長のサラスが「書庫を開放しましょう。古代語の写本があります」と言い、リリアが「一緒に見に行かせてください」と手を挙げた。ラーゲが「南の森の地形なら俺が一番詳しい」と言い、気づけば四人で向かっていた。


「遺跡が本当にあるなら」とラーゲが歩きながら言った。「魔物の行動ルートが変わってた理由が分かる。十年前から少しずつ、奴らの動きが変だったんだ」


「十年前から封印が弱り始めていたかもしれません」とリリアが言った。「少しずつ崩れて……今年になって限界を超えた」


崖の裂け目は、百回の記憶で位置を知っていた。ラーゲが石組みを確かめ、「やっぱり人工的だ。石の年季が違う」と言った。


松明に火を点けて、中へ入った。


「止まれ」とアレンが言い、全員が止まった。「三歩先、右から二枚目の石が罠だ。槍が出る」


ラーゲが半眼で言った。「……何回ここに来た」

「記憶の中で、七十三回以上」

「慣れてるわけだ。……行くぞ」


壁沿いに進んだ。リリアが壁の文字を指でなぞる。「古代エルフ語です。〝星の歌の源、ここに眠る〟……という文が繰り返されています。それを守る者たちの記録のようです」


「読めるのか」とラーゲが感心した様子で言った。


「イレーナ師匠に少し習いました。でもこれほどの量は……時間をください」


通路を抜けると、空間が広がった。


「わあ」とリリアが声を上げた。


天井まで五間ほどある石造りの回廊。柱に複雑な彫刻。壁は全面、文字で埋め尽くされている。見上げた天井には、かすかに残った顔料で星図が描かれていた。


「星図だ」とラーゲが言った。「……でかい。百年単位じゃない、もっと古い」


「天文魔法の結界図です」とリリアが囁いた。「特定の天体配置に合わせて術式を発動させる——ここに眠る何かを管理するための、制御盤です」


「二十分で出ないといけない」とアレンが言った。「機構が動き始める」


「分かった」とラーゲが剣に手をかけた。「入口は俺が守る。お前たちは調べろ」


アレンは壁の前に立って記録魔法を使った。指先から微弱な魔力を流し込む。ざわ、と何かが流れ込んできた。古い魔力の残滓だ。ここは、かつて巨大な封印の一部だった。その封印が今、崩れかけている。それがスタンピードの原因だ。


そして——もう一つの流れがあった。


誰かの意志の残滓。古いが、鮮明だ。子供の意志だ。


どこかで感じたことがある。


「奥にあります」とリリアが振り返った。「この先に大きな広間があると書いてあります。〝星の歌の源〟はそこに」


「行こう。でも急ぐぞ」


回廊の奥が、広間だった。


直径二十間ほどの円形空間に、石床一面に魔法陣が刻まれていた。中央から弱い光が漏れている。静かに脈動する青白い光だ。陣の一部が欠けている。崩れた石の粉が周囲に散っていた。


「これが原因か」とラーゲが言った。

「ああ。これが崩れ続ける限り、魔物は増え続ける」


アレンは広間を見回した。そして、端に黒い石棺があることに気づいた。


足が、勝手に動いた。


近づいた。石棺の蓋に、名前が刻まれていた。


エルザ・メイヤー。


「……違う」


声が出た。「エルザは村の共同墓地に眠ってる。これは別人だ、名前が同じだけで——」


「アレン」とリリアが静かに言った。「石棺の脇に石板があります」


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## 第四章 真実と涙


リリアは石板の前にしゃがんだ。ラーゲが近くに立ったまま、松明の光を差し伸べた。長い沈黙が続いた。リックが肩に手を置いた。


「読みます」とリリアが言った。「正確に」


一度、深呼吸した。


「〝私はここで眠る。遺跡の防衛機構が目覚めた夜、盾になる者が必要だった。私は自分で選んだ。お兄ちゃんが暴走したのは私が引き起こした誘爆事故のせいで、魔力の流れを修正しようとしたら私の側に機構が向いた。でもそれでよかった。お兄ちゃんは長く生きてください。この魔法陣の修復方法は研究ノートの最終章にあります。続きは任せます。エルザ〟」


静寂が広間に満ちた。


アレンは一歩も動けなかった。


「……もう一回」


声が掠れた。


「もう一回読んでくれ」


リリアは繰り返した。一言一句、丁寧に。


「〝お兄ちゃんが暴走したのは私が引き起こした誘爆事故のせいで——〟」


アレンは膝をついた。ごつ、と石床に膝が当たる音がした。冷たかった。


「俺の、せいじゃなかったのか」


声が震えた。


「はい」とリリアが静かに言った。「そう書いてあります」


「エルザが——エルザが自分で」


「自分で、選んだ」


「……俺を守るために」


「守るために」


ぽた、と音がした。アレンの視界が歪んだ。涙が一滴、石床に落ちた。


五年だ。五年間、俺のせいで妹が死んだと思っていた。だから誰も近くに置けなかった。誰かが傷つくのが怖かった。一人でやらなければならないと思っていた。


全部。全部、間違っていた。


リックが肩に手を置いた。何も言わない。ただ、手を置いている。ラーゲは少し距離を置いて、壁の文字を見つめるふりをしていた。それがかえってありがたかった。


リリアがアレンの前にしゃがんで、両手でアレンの手を包んだ。「今度は止められます。百回分の知識がある。エルザさんの研究ノートがある。みんないる」


「……分かってる」


「泣いていいですよ」


「泣いてない」


「泣いてます」


「……」


ぽた、と二滴目が落ちた。アレンは手の甲で顔を拭った。ごしごしと、子供みたいに。


立ち上がって、振り返った。リックは目を逸らさない。リリアは手を離さない。ラーゲが壁から視線を戻して、短く言った。「……すごい妹だったんだな」


「ああ」


アレンはその一言だけで、十分だった。


「エルザのノートを取ってくる。今夜、全員で読む」


「いつでも」とリックが言った。「いつでも」とリリアが言った。「俺も手を貸す」とラーゲが言った。


「……ありがとう」


それだけ言った。リックが「礼なんかいらん」と言い、リリアが「私も嬉しいです」と言い、ラーゲが「腹が減った、早く出よう」と言った。


笑いたい気分でも、笑える余白がそこにはあった。


-----


## 第五章 百二回目の準備


ノートの解析は夜通しかかった。


診療所の大机を囲んで、アレン、リリア、イレーナが古代語を読み解き、リックが書記役を務めた。ラーゲが外で見張りをした。ガルドス村長が食事を持ってきた。サラス神官長が「書庫に必要な写本があれば何でも持ち出してください」と言った。クランツが「材料が必要なら夜通し鍛える」と言い残した。マーシャが「全員倒れんなよ」と夜食を届けた。ネッサが薬草の束を玄関に置いていった。フォルクが「明日の朝、一番に飯を届ける」と言った。ケネスが「馬の準備はしてある」と申し出た。書記のヨアンが「必要な文書があれば写します」と申し出た。医療担当のキャスが「回復薬を準備しておく」と言って去った。


村が、少しずつ動いていた。


「核心部はここです」と夜明け前にリリアが言った。手書きの術式図を指しながら。「〝星の音を空間に満たすことで、魔物の攻撃性を鎮静させる〟。発動に必要な魔力が通常の十五倍。一人では到底——」


「それだけじゃない」とアレンはノートの最終行を指した。エルザの丸い字で書かれた一文。


「〝確固たる未来への意志〟が触媒になる。魔力量の問題じゃない、これは意志の魔法だ」


「意志を燃料にする魔法……」とリリアが息を飲んだ。


「俺の《残響回帰》と同じ構造だ。精神の状態が出力に影響する。エルザは——それを知っていた」


イレーナが深く頷いた。「……エルザは天才だったよ。こんな術式を八歳で設計していたとは」


「だから不完全でした」とリリアが言った。「最後を完成させる人間が必要だったんです。それが——」


アレンは立ち上がった。


全員が彼を見た。


「俺がやる。明日の朝、遺跡で発動させる」


「一人で?」とイレーナが言った。


「四人で。俺が術式を動かす。リックが機構を抑える。リリアが補助をする。ラーゲが入口を守る」


「危険ですよ」とリリアが言いながら、すでに調合道具に手を伸ばしていた。


「危険じゃない方法はない。でも百一回の失敗より、一回の成功の方がいい」


窓の外が白み始めていた。


その夜、一人で広場のベンチに座っていた。


満天の星が出ていた。エルザが好きだった夜の景色だ。北の方に明るい星がある。エルザが〝ミラルダ〟と呼んでいた冒険者の星。幼い頃、「お兄ちゃんも一緒に見て」と引っ張ってきたのに、あのとき魔法の修行で忙しくて、まともに見てやらなかった。


「眠れないんですか」


隣にリリアが来た。


「少し考えてた」


「エルザさんのこと?」


「ああ」


リリアは空を見上げた。「少し教えてもらえますか」


アレンはしばらく空を見た。「明るかった。俺より全然頭が良くて、研究が好きで、魔法は下手だったくせに古代魔法だけは一人で勉強してた。いつも後ろをついてきたがった。邪険にしても全然傷ついた顔をしなかった」


「……強い子だったんですね」


「強かった。俺より全然」


沈黙。


「アレンさんも強いですよ」


「俺は弱い」


「百回、諦めなかった。それは強さじゃないですか」


「強さと意地は違う」


「似てますよ、その二つは」


アレンは何も言えなかった。


リリアが続けた。「私ね、思うんです。あなたが百回同じ朝に戻ってきたのは、後悔があったからですよね。でも明日——魔法が成功して、後悔なく眠れたら——その次の朝は、初めての朝になる」


「……ああ」


「その朝、私はここにいます。リックもいます。ラーゲも、ベーカー団長も、クランツさんも、マーシャさんも、みんないます。その朝に会いに来てください」


アレンはリリアを見た。月明かりの下で、彼女はまっすぐ空を見ていた。


「……変なことを言う」


「変ですか」


「……いや」


アレンは空を見た。ミラルダが光っていた。


「そういう朝に、なるといいな」


-----


## 第六章 百二回目、最後の朝


四人で遺跡へ向かった。


村の入口でガルドスが「村の命運を頼む」と言った。ベーカーが「必ず戻れ」と言った。ラーゲに「地形は任せろ」と頷いた。クランツが「帰ってきたら飯をおごる」と言い、マーシャが「全員分だよ」と付け加えた。フォルクが「……頼む」とだけ言い、ネッサが小さく手を振った。ケネスが「馬は準備してある」と言った。自警団員のシードが「戻ってきたら祝杯だ」と言い、ダラが「弓で援護できることがあれば言え」と申し出た。少年のティモが「俺もお手伝いします!」と手を上げ、隣の老婆ベネが「行ってらっしゃい」と静かに言った。


中央広間の魔法陣の前に立った。


アレンはエルザのノートを開いた。最後のページに、妹の字で一行だけある。


〝お兄ちゃん、これを読んでいるなら、続きは任せます〟


「……なんで先に行くんだ、お前は」


呟きは誰にも届かない。でも、いい。


「始めるぞ」


「いつでも」とリックが剣を構えた。


「準備できてます」とリリアが青莢草の束を握った。


「入口は俺が持つ」とラーゲが背後に立った。「何が来ても通さない」


魔法陣に手を置いた。冷たい石の感触の奥に、弱い脈動がある。アレンは記録魔法を展開した。感知と解析を組み合わせた術式。エルザの研究が、指先を伝って流れ込んでくる。


ざわっと広間の空気が揺れた。防衛機構が起動した。壁から十体の光の矢が放たれた。


「来た!」とリックが叫んだ。


ざんっ、ざんっと連続して弾く音。リックが走り回って全方位を処理する。一体、二体。リリアが香木に着火した。ぼっと紫の煙が広がる。


「左から速い!」

「見えてる!」


リックが跳んだ。鈍い着地音。ぎっと歯を食いしばる声。一体を抑え込んだ。


「右から三体!」

「香草、投げます!」


煙が展開した。光の矢が一瞬止まる。


「今だ、リック!」

「おう!」


三体がまとめて弾き飛ばされた重い音。


「入口から二体、近づいてる」とラーゲが叫んだ。「俺が止める!」


「無理するな!」とアレンが言ったが、ラーゲはすでに動いていた。ぎんっ、と鉄と何かが弾き合う音がした。「……これぐらいは俺の仕事だ。お前は陣を読め!」


アレンは魔法陣を読み続けた。


複雑な術式が意味をなしていく。エルザの設計は完璧だった。必要なのは、最後の一行。触媒。


〝確固たる未来への意志〟。


何だ。何を意志と呼ぶ。


百回の後悔。百回の失敗。百回、同じ朝に戻ってきた。全部無駄だったのか。


違う。


全部あって、今ここにいる。リックがいる。リリアがいる。ラーゲがいる。エルザのノートがある。村が外で待っている。そしてエルザは、俺に続きを任せると言った。


これが、意志だ。


「——諦めるか」


アレンは術式を押し通した。ぐわっと魔力が逆流する感覚。記録魔法の許容量を超えかけた。視界が白くなった。


「アレン!」リリアの声が遠くなる。

「もう少しだ」

「あと四体!」リックが叫ぶ。

「四十秒、持たせろ!」

「任せろ!」


ラーゲが「入口は俺が守れる!」と叫んだ。


全身に力を込めた。指先から、魔法陣へ。エルザの意志と、アレンの意志が、百回分の記憶とともに共鳴した。


ぱん、と空気が弾けた。


それから、何もかもが止まった。防衛機構が停止した。


リックが荒い息をついた。「終わったか」


魔法陣が光を変えた。白から銀へ。銀から青へ。青から——星の色へ。


轟、と遺跡が震えた。光が天井を貫いた。


-----


地上では。


広場に立っていたガルドス村長が、最初に空を見て「見ろ」と言った。マーシャが声を上げた。サラスが膝を折った。クランツが目を丸くした。ベーカーが息を飲んだ。キャスが「何だあれ」と呟いた。ヴァンが「魔法か」と言い、ダラが「違う、これは——」と言葉を失った。ネッサが泣いた。フォルクが彼女の肩を抱いた。ケネスが馬をなだめながら空を見上げた。カールが「アレンがやったのか」と言い、農民自警組の面々が一斉に空を仰いだ。書記のヨアンが帳面を落として「……これは書けない」と呟いた。少年のティモが「きれいだ」とだけ言い、老婆ベネが「そうだね」と静かに頷いた。


空に、巨大な星図が描かれた。


光の線が繋がって、見たことのない星座を作った。北の方に、ひときわ明るい光が一点。


ミラルダだ、とガルドスが言った。「……あの星に似ている」


南の森から溢れかけていた魔物が、ぴたりと動きを止めた。それから、ゆっくりと、静かに、森へ帰っていった。


「討伐じゃない」とベーカーが後に言った。「鎮魂だった」


-----


## エピローグ 初めての翌朝


遺跡の中で、四人は光に包まれていた。


アレンは魔法陣の前にへたり込んでいた。手のひらにエルザのノートがある。最後のページが弱い光を帯びていた。


「終わったな」とリックが隣に膝をついた。

「……終わった」

「もし今夜、後悔しながら眠ったら、また戻るのか」

「来ない気がする」

「なんで分かる」

「今は後悔してない。だから」


リリアが静かに笑った。「なら今夜は普通に眠れますね」

「……たぶん」

「もし眠れなかったら診療所に来てください。イレーナ師匠の薬があります。苦いですけど」

「遠慮する」

「絶対来ますよ、アレンさんは強がりだから」

「お前は人を見透かしすぎだ」


ラーゲが壁にもたれながら言った。「……ところで、お前ら。俺はただ地形案内で来たつもりだったんだが、いつの間にか涙もろくなってる。どういうことだ」


「一緒に来たからですよ」とリリアが言った。


「そうか」とラーゲは短く言って、天井の光を見上げた。「そうか」


リックが吹き出した。リリアもつられた。最後にアレンも。


遺跡の石壁に、四人分の笑い声が響いた。不格好で、英雄的でも何でもない笑い声が、反響して、やがて静かに消えた。百回の間に一度もなかった音だ。


-----


その夜、アレンは後悔なく眠った。


翌朝。


天井の木目の節が、三つある。


光の差す角度は東から二十三度。ベッドのきしみは、腰に体重をかけたとき、かすかに二音鳴る。朝の空気は少し湿っていて、南の森の土と青草の混じった匂いがした。


全部、知っている。でも今日は、百一回目ではない。


ただの、翌朝だ。


扉がノックされた。

「アレン、飯ができてる。早く来い」

リックの声だ。


アレンは少し黙った後、言った。「……今日は何回目だ」


「何のことだ」


「……いや。今行く」


立ち上がった。着替えて、扉を開けた。廊下に朝日が差している。リックが腕を組んで待っていた。


「リリアも来る。薬草粥だ」


「苦いんじゃないのか」


「今日は甘いらしいぞ」


廊下を歩いた。リックが横に並んだ。窓から南の森が見える。静かだった。空に昨夜の星図の残光が、かすかに漂っている気がした。


「リック」


「ん?」


「ありがとう。百回分。気づいてくれて」


リックは少し間を置いた後、短く言った。「俺もな、ずっとお前に言ってほしかったんだよ。手を貸せって」


ぱんっと背中を叩かれた。


痛かった。でも、温かかった。


アレンは初めて、この朝を「呪い」と思わなかった。


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エルザのノートは、メイヤー村の資料館に収められた。表紙に彼女の丸い字で書かれている。


〝灰の記憶は、いつか星の地図になる〟


アレンはその字を見るたびに思う。百回、後悔しながら眠った。百回、同じ朝に戻った。それは全部、この朝にたどり着くための地図だったのかもしれない、と。


村の自警団員ミリが「あの夜の星は神様の仕業だと思ってた」と言い、ソフィが「アレンさんがやったって知って泣いた」と言った。辺境伯の使者ディノが「あの術式の記録をさせてほしい」と訪ねてきた。元学院同期のハンスが「お前が遺跡を解析したって本当か」と手紙を送ってきた。行商人ペドロは翌月も村に来た。「生きてる土産話ができたよ」と笑いながら。神官長サラスは古代語の写本をアレンに贈った。イレーナ師匠はリリアに「よくやった」とだけ言い、リリアは「照れます、師匠に言われると」と返した。クランツは「次は盾も作ってやる」と言い、ベーカーは「そうじゃない、防衛計画を立て直せ」と言い、ガルドスは「村が助かった」と目を細め、書記のヨアンは「記録に残します、正式に」と帳面を開いた。マーシャは三人の食事をしばらく無料にした。ネッサは薬草を届け続けた。フォルクは無言で米袋を玄関に置いていった。ケネスが「馬に乗れるようになっておけ」と言い、ラーゲが「俺が教える」と言い、アーヴィンが「鉱山に来れば採掘法も教えるぞ」と言った。シードが「次の訓練に加わってくれ」と言い、ダラが「弓も教えられる」と言った。カールが「今年の秋祭りは村を上げてやろう」と言い、ティモが「俺もお手伝いします!」と手を上げた。ベネが「あの子はよかったね、いい人たちに囲まれて」と呟いた。誰も名前を言わなかったが、全員がエルザのことを思っていた。


アレンはその夜も後悔なく眠り、翌朝、リックに起こされた。それが当たり前になった。


「アレンさん、早く来てください!粥が冷めます!」


廊下の奥で、リリアの声がした。


アレンは立ち上がった。


今日は昨日の続きだ。


それで、十分だった。

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