灰の記憶と星の地図 ~何度でも、君と明日を選ぶためのやり直し魔法~
## 序章 百回目の朝
天井の木目の節が、三つある。
光の差す角度は東から二十三度。ベッドのきしみは、腰に体重をかけたとき、かすかに二音鳴る。朝の空気は少し湿っていて、南の森の土と青草の混じった匂いがした。窓の外でクランツじいさんが炉に火を入れる気配がする。遠くで馬屋のケネスが厩舎の扉を開く音がした。水汲み場でマーシャが桶を叩く音が三回。
全部、知っている。百回、経験したから。
「……今日も、俺だ」
呟いた声は木の壁に吸い込まれて消えた。
アレンはゆっくりと体を起こした。腕が重い。脚も重い。《残響回帰》は魔力も傷も元に戻してくれる。だが精神の疲弊だけは違う。やり直しのたびに少しずつ、少しずつ積み重なっていく。九十九回分のそれが今も骨の芯に沈んでいた。どれほど眠っても拭えない重さだ。
窓の外では、ラヴァン辺境の小村メイヤーが目を覚ましていた。鍛冶師のクランツが炉の前でぶつぶつ言っている。行商人のペドロが荷台の幌を留め直している。酒場女将のマーシャが二階の窓から布団を出した。隣の農家フォルクが「今日も天気は持つかな」と妻のネッサに声をかけている。村長の書記を務めるヨアンが朝の帳簿を抱えて小走りに過ぎた。馬屋のケネスが一番太った馬に水桶を差し出しながら「お前だけ飲みすぎだ」と文句を言っていた。
今日も、スタンピードが来る。今日も、アレンは一人では止められない。
九十九回が証明している。
扉がノックされた。
「アレン。起きてるか」
リックだ。
「起きてる」
「入るぞ」
幼馴染みの少年が扉を押して入ってきた。大工の父ユートに似た肩幅、日焼けした肌、手には昨夜の木剣練習でついた新しい擦り傷がある。いつもは呑気な顔をしているのに、今日は違った。心配というよりも、もっと硬い何かだ。
「顔色が悪い」
「問題ない」
「嘘をつくな。十日前から様子がおかしい」
リックは椅子を引いて、アレンの向かいに腰を下ろした。手を膝の上で組んで、まっすぐ見てくる。「最初に気づいたのは、誰も教えていない落とし穴をお前が先に避けた日だ。次の日、死骸になった野鼠を何事もないように跨いだ。昨日は魔物の出現方向を、見る前に言い当てた。俺は頭が悪いが、さすがに気づく」
「…………」
「お前が話してくれるまで待つと決めていた。でも今朝、お前の顔を見て、待てなくなった」
アレンはリックを見た。怒っている様子はない。責めてもいない。ただ、心配している。百回のうち、リックに話しかけられたことは何度もあった。でもこんな風に核心を突いてきたのは、初めてだ。
「何回目か、答えてくれ」
沈黙が落ちた。窓の外でケネスが「おい、水桶返せ」と叫んだ。鐘が一つ鳴った。
「百回だ」
絞り出すように言った。
「今日が、百回目の同じ朝だ」
リックの目が、わずかに見開いた。
アレンは話し始めた。全部を。《残響回帰》のこと。深い後悔とともに眠れば、その日の朝に戻ること。魔力も傷も元に戻るが、記憶と精神の疲弊だけは積み重なること。五年前、幼い妹のエルザを魔法の暴走事故で死なせてしまったこと。だからもう誰も傷つけたくなくて、全部ひとりでやろうとしてきたこと。百回、それで足りなかったこと。
話し終えたとき、アレンは気づいた。エルザが死んでから、誰かにここまで話したのは初めてだ、と。
部屋の外でクランツが「おい、朝飯食ったか!」と誰かに怒鳴る声がした。
リックはしばらく黙っていた。
「百回」と彼は静かに言った。「百回、一人でやってたのか」
「ああ」
「俺たちを信用できなかったから?」
「違う。お前らをまた傷つけたくなかったから」
「それは同じことだ」
声は責めていない。でも、ずきっとした。
「お前が一人で抱えてる分、俺たちは何も知らないまま同じ間違いを繰り返す。それが守ることになるか?」
アレンは何も言えなかった。
「俺はな」とリックはぼりぼりと頭を掻いた。「大工の息子で、剣がそこそこ強くて、お前より頭が悪い。でも壁を壊す力だけはお前より上だ。お前の知識と俺の力を合わせたら、百一回目は違う結果になるかもしれない」
「……リック」
「手を貸せ。そう言え。それだけでいい」
アレンは拳を膝の上で握りしめた。百回の孤独が、胸の奥で音を立てた。
「……手を、貸してくれ」
リックはにっと笑った。「最初からそう言えばよかったんだよ、馬鹿野郎」
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## 第一章 告白と調合
診療所の裏庭は薬草の香りが漂っていた。師のイレーナが往診で不在のとき、十七歳のリリアはここで一人、薬草の仕分けと調合をしている。手際がいい。知識も深い。でも彼女が一番得意なのは、人の顔色を読むことだ、とアレンは百回かけて知っていた。
「……話があります、よね」
アレンが口を開く前にリリアが言った。「今日のアレンさん、目の色が違います」
「見抜くな」
「すみません。でも、ちゃんと聞きます」
リリアは薬草の手を止めて、木の椅子にアレンを促した。自分も向かいに座って、両手を膝に置いた。アレンは話した。リックに話したのと同じことを。
リリアは最後まで口を挟まなかった。
「……全部、話してくれたんですね」
少し考えてから、彼女はアレンの手を取った。細い指だが、力がある。薬草で染まった指先だ。
「ありがとうございます。隠さないでいてくれて」
「感謝されることじゃない。俺が弱かっただけだ」
「弱くて、何が悪いんですか」
まっすぐ目を見てくる。「弱いから助けを求める。それは当たり前のことです。百回やって無理だったことを、三人でやれば解決できるかもしれない。ただそれだけです」
「……そんな単純な話か」
「単純じゃないです。でも複雑でもない」
リリアは手を離して、青みがかった細い草の束を差し出した。「これは青莢草といいます。燃やすと、魔物の攻撃性を一時的に和らげます。スタンピードで使えるはずです」
アレンは受け取った。草の匂いがした。どこかで嗅いだことがある、と思った一秒後に分かった。エルザが好きだった匂いだ。妹は「いい匂い」と言って、よくこの草を枕元に置いていた。
「……師匠から教わったのか」
「はい、イレーナ師匠に。でも応用は自分で考えました」
リリアはちょっと得意げに微笑んだ。エルザがよく見せた笑い方に、少し似ていた。
「今夜中に十本は作ります。あと——」と彼女は声を少し落とした。「一つだけ訊いていいですか」
「何だ」
「その力、怖くなかったですか。百回、また朝に戻るたびに」
アレンは少し考えた。「最初は怖かった。今は怖さより疲れの方が大きい」
「そうですか」と彼女は言った。それからまた薬草に手を伸ばしながら、独り言のように続けた。「あなたが百回かけて蓄えた知識を、私たちが三人分の力で支えられる。そう思ったら、百回が無駄じゃなかったと思えて。……少し嬉しくなってしまいました」
アレンは何も言えなかった。何も言えないまま、裏庭を出た。草の匂いがずっと、鼻の奥に残った。
その夜、三人は村外れの小屋でランプを囲んだ。アレンが地図を広げ、百回分の記憶を整理した。
「魔物の先鋒は東の街道から。第三分岐点で二手に分かれる。右翼七体、左翼五体。陽動の小集団が北の水路を回り込む」
リックが「右翼に何人いれば止まる」と訊いた。「ベーカー団長と四人。俺が光の壁を作れば二十秒は稼げる」
リリアが「左翼に青莢草の煙を流せば動きが鈍くなります。リックさんならそこで三体は処理できるはず」と言い、リックが「四体でも行けるぞ」と言い、リリアが「欲張りすぎです」と返した。
「問題はベーカーが俺の言うことを聞くかどうかだ」
「話してみましょう」とリリアが言った。「団長は頑固だけど、理不尽な人じゃない。ちゃんと説明すれば聞いてくれます」
「根拠が百回の記憶だと言っても信じるかな」
「信じなくてもいい」とリックが言った。「準備だけしてもらえればいい。結果で証明しろ」
アレンは、その言葉を百一回目の朝まで胸に持っておくことにした。
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## 第二章 百一回目の夜明け
夜明けの一時間前、防壁の上に自警団員たちが展開していた。
ベーカー団長が腕を組んで立っていた。四十絡みの硬骨漢で、辺境の自警団を十五年率いてきた男だ。隣には副長格のラーゲ、医療担当のキャス、若手のヴァン、弓使いのダラ、剣士のシード、それに農民自警組からカール、フォルク、アーヴィンの三人。遠方配置に七人。全部で十五名。百回の中で、これだけの人員が揃ったのは初めてだ。
「落ちこぼれの魔法使いが指揮を取るとはな」とベーカーが言った。「根拠を聞かせろ。お前は何の資格があって指示を出す」
「根拠は百回の経験です」
「百回の夢か」
「夢じゃありません。外れたらあなたの言う通りにします。一回だけ信じてください」
隣でリリアが静かに言った。「ベーカー団長、アレンさんは嘘をつく人じゃないです。私が保証します」
ベーカーはふん、と鼻を鳴らした。「ヴァン、北側水路に回れ。キャスを連れて行け。……外れたらただじゃおかない、アレン」
「外れません」
東の空が白み始めた。
「みんな聞いてくれ」とアレンは言った。低く、でも通る声で。「魔物の先鋒は東の街道から来る。第三分岐点で二手に分かれる。右翼に七体、左翼に五体。その後、陽動の小集団が北側の水路沿いに回り込む。陽動は速い、三体。水路組は先に動いてくれ」
「何でそんなことが分かる」とダラが言った。
「観察だ。繰り返した結果だ」
「信じなくていい」とリックが横から言った。「でも準備だけしてくれ。俺はアレンを信じる。左翼は俺が受け持つ」
どっ、と遠雷のような音が南の森から響いた。
「来た。今から三十秒で先鋒が見える」
アレンが言い終えるより先に、カールが「おい、北の水路を回ってる影がある!」と叫んだ。ヴァンとキャスが走り出した。
二十八秒後。地鳴りが響いた。東の街道から、黒い影の群れが現れた。第三分岐点で、ぴたりと二手に分かれた。
沈黙がぴんと張った。
「……当たってる」とシードが呟いた。
「右に七体!左に五体!」ダラが叫ぶ。
リックが走り出した。左翼へ。どん、と大きな衝突音。ざんっと剣が弾く音。一体、二体。リリアが燃やした青莢草の煙が左翼に流れ、魔物の動きが目に見えて鈍くなった。リックがそこへ踏み込む。三体。「もう一体!」「見えてる!」四体目がリックの剣を受けた。
「北側!今、ヴァン!」
アレンの声と同時に、水路の側面から三つの影が現れた。キャスとヴァンが待ち構えていた。
「まじか」とキャスが呆けた声を上げた。「本当に回ってきた」
「一体は速い、炎草で足止めしろ!」とアレンが叫んだ。キャスが懐から携帯炉を取り出して点火した。火の粉が散り、一体の足元が燃えた。もう一体にヴァンが剣を入れる。鈍い音が二つ鳴って、静かになった。
右翼ではベーカーが三体を前に「左を抑えろ、ラーゲ!」と叫んでいた。ラーゲが飛び込んで一体を壁に押し込む。アレンが記録魔法を展開した。エネルギー流の先読み。魔物の動線に光の壁を構成する。
ぼん、と残り二体が壁に激突した。
「今だ、ベーカー!」
鈍い打撃音が二つ鳴って、右翼も静かになった。
三十分。それで全部、終わった。
村の広場に降りたとき、ガルドス村長が待っていた。七十近い老人で、皺だらけの顔に驚きが浮かんでいた。「……死者がゼロだと?重傷者は?」
「リックが腕に軽い擦り傷。カールが足首を捻った。それだけです」
ガルドスは目を細めた。書記のヨアンが「……傷者数が前回の三分の一以下です」と帳面を確かめながら言った。
マーシャが窓から顔を出した。「アレン!今朝の朝飯は無料にしてあげるよ!」ネッサが「うちの畑も無事だった!ありがとう!」と泣いていた。フォルクが無言でアレンの肩を叩いた。ケネスが「馬が怯えなかったぞ、すごいな」と感心した様子で言った。ペドロが荷台の陰から顔を出した。「あー、俺も生きてるよ、参考までに」
ざわざわと笑いが起きた。
アレンはそれを、少し離れたところで聞いていた。
ベーカーが近づいてきた。「俺が間違っていた」
目を逸らさずに言った。「今まで、お前を見くびっていた。謝る」
「……受け取る」
「今後は協力する。指揮系統に入れてくれ。俺には十五人の部下がいる」
「……ありがたい」
ベーカーは短く頷いて、背を向けた。
リックが横に来た。「どうだ、一人より良かっただろ」
アレンは空を見た。青かった。雲が流れていた。
「……ああ」
それだけ言った。でも胸の奥で何かが、少しだけ緩んだ気がした。
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## 第三章 地下遺跡と解析
スタンピードの根本原因を探るうちに、南の森の地下に何かある、という話が浮かびあがった。
きっかけはイレーナだった。往診から戻ってきた薬師の師匠が、診療所の奥から古い記録帳を引っ張り出してきた。「三百年前の村記録に書いてある。南の森の地下に古代の封印があった。当時の神官たちが封じた何かがある。もし崩れかけているなら、魔物が増えるのも頷ける」
神官長のサラスが「書庫を開放しましょう。古代語の写本があります」と言い、リリアが「一緒に見に行かせてください」と手を挙げた。ラーゲが「南の森の地形なら俺が一番詳しい」と言い、気づけば四人で向かっていた。
「遺跡が本当にあるなら」とラーゲが歩きながら言った。「魔物の行動ルートが変わってた理由が分かる。十年前から少しずつ、奴らの動きが変だったんだ」
「十年前から封印が弱り始めていたかもしれません」とリリアが言った。「少しずつ崩れて……今年になって限界を超えた」
崖の裂け目は、百回の記憶で位置を知っていた。ラーゲが石組みを確かめ、「やっぱり人工的だ。石の年季が違う」と言った。
松明に火を点けて、中へ入った。
「止まれ」とアレンが言い、全員が止まった。「三歩先、右から二枚目の石が罠だ。槍が出る」
ラーゲが半眼で言った。「……何回ここに来た」
「記憶の中で、七十三回以上」
「慣れてるわけだ。……行くぞ」
壁沿いに進んだ。リリアが壁の文字を指でなぞる。「古代エルフ語です。〝星の歌の源、ここに眠る〟……という文が繰り返されています。それを守る者たちの記録のようです」
「読めるのか」とラーゲが感心した様子で言った。
「イレーナ師匠に少し習いました。でもこれほどの量は……時間をください」
通路を抜けると、空間が広がった。
「わあ」とリリアが声を上げた。
天井まで五間ほどある石造りの回廊。柱に複雑な彫刻。壁は全面、文字で埋め尽くされている。見上げた天井には、かすかに残った顔料で星図が描かれていた。
「星図だ」とラーゲが言った。「……でかい。百年単位じゃない、もっと古い」
「天文魔法の結界図です」とリリアが囁いた。「特定の天体配置に合わせて術式を発動させる——ここに眠る何かを管理するための、制御盤です」
「二十分で出ないといけない」とアレンが言った。「機構が動き始める」
「分かった」とラーゲが剣に手をかけた。「入口は俺が守る。お前たちは調べろ」
アレンは壁の前に立って記録魔法を使った。指先から微弱な魔力を流し込む。ざわ、と何かが流れ込んできた。古い魔力の残滓だ。ここは、かつて巨大な封印の一部だった。その封印が今、崩れかけている。それがスタンピードの原因だ。
そして——もう一つの流れがあった。
誰かの意志の残滓。古いが、鮮明だ。子供の意志だ。
どこかで感じたことがある。
「奥にあります」とリリアが振り返った。「この先に大きな広間があると書いてあります。〝星の歌の源〟はそこに」
「行こう。でも急ぐぞ」
回廊の奥が、広間だった。
直径二十間ほどの円形空間に、石床一面に魔法陣が刻まれていた。中央から弱い光が漏れている。静かに脈動する青白い光だ。陣の一部が欠けている。崩れた石の粉が周囲に散っていた。
「これが原因か」とラーゲが言った。
「ああ。これが崩れ続ける限り、魔物は増え続ける」
アレンは広間を見回した。そして、端に黒い石棺があることに気づいた。
足が、勝手に動いた。
近づいた。石棺の蓋に、名前が刻まれていた。
エルザ・メイヤー。
「……違う」
声が出た。「エルザは村の共同墓地に眠ってる。これは別人だ、名前が同じだけで——」
「アレン」とリリアが静かに言った。「石棺の脇に石板があります」
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## 第四章 真実と涙
リリアは石板の前にしゃがんだ。ラーゲが近くに立ったまま、松明の光を差し伸べた。長い沈黙が続いた。リックが肩に手を置いた。
「読みます」とリリアが言った。「正確に」
一度、深呼吸した。
「〝私はここで眠る。遺跡の防衛機構が目覚めた夜、盾になる者が必要だった。私は自分で選んだ。お兄ちゃんが暴走したのは私が引き起こした誘爆事故のせいで、魔力の流れを修正しようとしたら私の側に機構が向いた。でもそれでよかった。お兄ちゃんは長く生きてください。この魔法陣の修復方法は研究ノートの最終章にあります。続きは任せます。エルザ〟」
静寂が広間に満ちた。
アレンは一歩も動けなかった。
「……もう一回」
声が掠れた。
「もう一回読んでくれ」
リリアは繰り返した。一言一句、丁寧に。
「〝お兄ちゃんが暴走したのは私が引き起こした誘爆事故のせいで——〟」
アレンは膝をついた。ごつ、と石床に膝が当たる音がした。冷たかった。
「俺の、せいじゃなかったのか」
声が震えた。
「はい」とリリアが静かに言った。「そう書いてあります」
「エルザが——エルザが自分で」
「自分で、選んだ」
「……俺を守るために」
「守るために」
ぽた、と音がした。アレンの視界が歪んだ。涙が一滴、石床に落ちた。
五年だ。五年間、俺のせいで妹が死んだと思っていた。だから誰も近くに置けなかった。誰かが傷つくのが怖かった。一人でやらなければならないと思っていた。
全部。全部、間違っていた。
リックが肩に手を置いた。何も言わない。ただ、手を置いている。ラーゲは少し距離を置いて、壁の文字を見つめるふりをしていた。それがかえってありがたかった。
リリアがアレンの前にしゃがんで、両手でアレンの手を包んだ。「今度は止められます。百回分の知識がある。エルザさんの研究ノートがある。みんないる」
「……分かってる」
「泣いていいですよ」
「泣いてない」
「泣いてます」
「……」
ぽた、と二滴目が落ちた。アレンは手の甲で顔を拭った。ごしごしと、子供みたいに。
立ち上がって、振り返った。リックは目を逸らさない。リリアは手を離さない。ラーゲが壁から視線を戻して、短く言った。「……すごい妹だったんだな」
「ああ」
アレンはその一言だけで、十分だった。
「エルザのノートを取ってくる。今夜、全員で読む」
「いつでも」とリックが言った。「いつでも」とリリアが言った。「俺も手を貸す」とラーゲが言った。
「……ありがとう」
それだけ言った。リックが「礼なんかいらん」と言い、リリアが「私も嬉しいです」と言い、ラーゲが「腹が減った、早く出よう」と言った。
笑いたい気分でも、笑える余白がそこにはあった。
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## 第五章 百二回目の準備
ノートの解析は夜通しかかった。
診療所の大机を囲んで、アレン、リリア、イレーナが古代語を読み解き、リックが書記役を務めた。ラーゲが外で見張りをした。ガルドス村長が食事を持ってきた。サラス神官長が「書庫に必要な写本があれば何でも持ち出してください」と言った。クランツが「材料が必要なら夜通し鍛える」と言い残した。マーシャが「全員倒れんなよ」と夜食を届けた。ネッサが薬草の束を玄関に置いていった。フォルクが「明日の朝、一番に飯を届ける」と言った。ケネスが「馬の準備はしてある」と申し出た。書記のヨアンが「必要な文書があれば写します」と申し出た。医療担当のキャスが「回復薬を準備しておく」と言って去った。
村が、少しずつ動いていた。
「核心部はここです」と夜明け前にリリアが言った。手書きの術式図を指しながら。「〝星の音を空間に満たすことで、魔物の攻撃性を鎮静させる〟。発動に必要な魔力が通常の十五倍。一人では到底——」
「それだけじゃない」とアレンはノートの最終行を指した。エルザの丸い字で書かれた一文。
「〝確固たる未来への意志〟が触媒になる。魔力量の問題じゃない、これは意志の魔法だ」
「意志を燃料にする魔法……」とリリアが息を飲んだ。
「俺の《残響回帰》と同じ構造だ。精神の状態が出力に影響する。エルザは——それを知っていた」
イレーナが深く頷いた。「……エルザは天才だったよ。こんな術式を八歳で設計していたとは」
「だから不完全でした」とリリアが言った。「最後を完成させる人間が必要だったんです。それが——」
アレンは立ち上がった。
全員が彼を見た。
「俺がやる。明日の朝、遺跡で発動させる」
「一人で?」とイレーナが言った。
「四人で。俺が術式を動かす。リックが機構を抑える。リリアが補助をする。ラーゲが入口を守る」
「危険ですよ」とリリアが言いながら、すでに調合道具に手を伸ばしていた。
「危険じゃない方法はない。でも百一回の失敗より、一回の成功の方がいい」
窓の外が白み始めていた。
その夜、一人で広場のベンチに座っていた。
満天の星が出ていた。エルザが好きだった夜の景色だ。北の方に明るい星がある。エルザが〝ミラルダ〟と呼んでいた冒険者の星。幼い頃、「お兄ちゃんも一緒に見て」と引っ張ってきたのに、あのとき魔法の修行で忙しくて、まともに見てやらなかった。
「眠れないんですか」
隣にリリアが来た。
「少し考えてた」
「エルザさんのこと?」
「ああ」
リリアは空を見上げた。「少し教えてもらえますか」
アレンはしばらく空を見た。「明るかった。俺より全然頭が良くて、研究が好きで、魔法は下手だったくせに古代魔法だけは一人で勉強してた。いつも後ろをついてきたがった。邪険にしても全然傷ついた顔をしなかった」
「……強い子だったんですね」
「強かった。俺より全然」
沈黙。
「アレンさんも強いですよ」
「俺は弱い」
「百回、諦めなかった。それは強さじゃないですか」
「強さと意地は違う」
「似てますよ、その二つは」
アレンは何も言えなかった。
リリアが続けた。「私ね、思うんです。あなたが百回同じ朝に戻ってきたのは、後悔があったからですよね。でも明日——魔法が成功して、後悔なく眠れたら——その次の朝は、初めての朝になる」
「……ああ」
「その朝、私はここにいます。リックもいます。ラーゲも、ベーカー団長も、クランツさんも、マーシャさんも、みんないます。その朝に会いに来てください」
アレンはリリアを見た。月明かりの下で、彼女はまっすぐ空を見ていた。
「……変なことを言う」
「変ですか」
「……いや」
アレンは空を見た。ミラルダが光っていた。
「そういう朝に、なるといいな」
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## 第六章 百二回目、最後の朝
四人で遺跡へ向かった。
村の入口でガルドスが「村の命運を頼む」と言った。ベーカーが「必ず戻れ」と言った。ラーゲに「地形は任せろ」と頷いた。クランツが「帰ってきたら飯をおごる」と言い、マーシャが「全員分だよ」と付け加えた。フォルクが「……頼む」とだけ言い、ネッサが小さく手を振った。ケネスが「馬は準備してある」と言った。自警団員のシードが「戻ってきたら祝杯だ」と言い、ダラが「弓で援護できることがあれば言え」と申し出た。少年のティモが「俺もお手伝いします!」と手を上げ、隣の老婆ベネが「行ってらっしゃい」と静かに言った。
中央広間の魔法陣の前に立った。
アレンはエルザのノートを開いた。最後のページに、妹の字で一行だけある。
〝お兄ちゃん、これを読んでいるなら、続きは任せます〟
「……なんで先に行くんだ、お前は」
呟きは誰にも届かない。でも、いい。
「始めるぞ」
「いつでも」とリックが剣を構えた。
「準備できてます」とリリアが青莢草の束を握った。
「入口は俺が持つ」とラーゲが背後に立った。「何が来ても通さない」
魔法陣に手を置いた。冷たい石の感触の奥に、弱い脈動がある。アレンは記録魔法を展開した。感知と解析を組み合わせた術式。エルザの研究が、指先を伝って流れ込んでくる。
ざわっと広間の空気が揺れた。防衛機構が起動した。壁から十体の光の矢が放たれた。
「来た!」とリックが叫んだ。
ざんっ、ざんっと連続して弾く音。リックが走り回って全方位を処理する。一体、二体。リリアが香木に着火した。ぼっと紫の煙が広がる。
「左から速い!」
「見えてる!」
リックが跳んだ。鈍い着地音。ぎっと歯を食いしばる声。一体を抑え込んだ。
「右から三体!」
「香草、投げます!」
煙が展開した。光の矢が一瞬止まる。
「今だ、リック!」
「おう!」
三体がまとめて弾き飛ばされた重い音。
「入口から二体、近づいてる」とラーゲが叫んだ。「俺が止める!」
「無理するな!」とアレンが言ったが、ラーゲはすでに動いていた。ぎんっ、と鉄と何かが弾き合う音がした。「……これぐらいは俺の仕事だ。お前は陣を読め!」
アレンは魔法陣を読み続けた。
複雑な術式が意味をなしていく。エルザの設計は完璧だった。必要なのは、最後の一行。触媒。
〝確固たる未来への意志〟。
何だ。何を意志と呼ぶ。
百回の後悔。百回の失敗。百回、同じ朝に戻ってきた。全部無駄だったのか。
違う。
全部あって、今ここにいる。リックがいる。リリアがいる。ラーゲがいる。エルザのノートがある。村が外で待っている。そしてエルザは、俺に続きを任せると言った。
これが、意志だ。
「——諦めるか」
アレンは術式を押し通した。ぐわっと魔力が逆流する感覚。記録魔法の許容量を超えかけた。視界が白くなった。
「アレン!」リリアの声が遠くなる。
「もう少しだ」
「あと四体!」リックが叫ぶ。
「四十秒、持たせろ!」
「任せろ!」
ラーゲが「入口は俺が守れる!」と叫んだ。
全身に力を込めた。指先から、魔法陣へ。エルザの意志と、アレンの意志が、百回分の記憶とともに共鳴した。
ぱん、と空気が弾けた。
それから、何もかもが止まった。防衛機構が停止した。
リックが荒い息をついた。「終わったか」
魔法陣が光を変えた。白から銀へ。銀から青へ。青から——星の色へ。
轟、と遺跡が震えた。光が天井を貫いた。
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地上では。
広場に立っていたガルドス村長が、最初に空を見て「見ろ」と言った。マーシャが声を上げた。サラスが膝を折った。クランツが目を丸くした。ベーカーが息を飲んだ。キャスが「何だあれ」と呟いた。ヴァンが「魔法か」と言い、ダラが「違う、これは——」と言葉を失った。ネッサが泣いた。フォルクが彼女の肩を抱いた。ケネスが馬をなだめながら空を見上げた。カールが「アレンがやったのか」と言い、農民自警組の面々が一斉に空を仰いだ。書記のヨアンが帳面を落として「……これは書けない」と呟いた。少年のティモが「きれいだ」とだけ言い、老婆ベネが「そうだね」と静かに頷いた。
空に、巨大な星図が描かれた。
光の線が繋がって、見たことのない星座を作った。北の方に、ひときわ明るい光が一点。
ミラルダだ、とガルドスが言った。「……あの星に似ている」
南の森から溢れかけていた魔物が、ぴたりと動きを止めた。それから、ゆっくりと、静かに、森へ帰っていった。
「討伐じゃない」とベーカーが後に言った。「鎮魂だった」
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## エピローグ 初めての翌朝
遺跡の中で、四人は光に包まれていた。
アレンは魔法陣の前にへたり込んでいた。手のひらにエルザのノートがある。最後のページが弱い光を帯びていた。
「終わったな」とリックが隣に膝をついた。
「……終わった」
「もし今夜、後悔しながら眠ったら、また戻るのか」
「来ない気がする」
「なんで分かる」
「今は後悔してない。だから」
リリアが静かに笑った。「なら今夜は普通に眠れますね」
「……たぶん」
「もし眠れなかったら診療所に来てください。イレーナ師匠の薬があります。苦いですけど」
「遠慮する」
「絶対来ますよ、アレンさんは強がりだから」
「お前は人を見透かしすぎだ」
ラーゲが壁にもたれながら言った。「……ところで、お前ら。俺はただ地形案内で来たつもりだったんだが、いつの間にか涙もろくなってる。どういうことだ」
「一緒に来たからですよ」とリリアが言った。
「そうか」とラーゲは短く言って、天井の光を見上げた。「そうか」
リックが吹き出した。リリアもつられた。最後にアレンも。
遺跡の石壁に、四人分の笑い声が響いた。不格好で、英雄的でも何でもない笑い声が、反響して、やがて静かに消えた。百回の間に一度もなかった音だ。
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その夜、アレンは後悔なく眠った。
翌朝。
天井の木目の節が、三つある。
光の差す角度は東から二十三度。ベッドのきしみは、腰に体重をかけたとき、かすかに二音鳴る。朝の空気は少し湿っていて、南の森の土と青草の混じった匂いがした。
全部、知っている。でも今日は、百一回目ではない。
ただの、翌朝だ。
扉がノックされた。
「アレン、飯ができてる。早く来い」
リックの声だ。
アレンは少し黙った後、言った。「……今日は何回目だ」
「何のことだ」
「……いや。今行く」
立ち上がった。着替えて、扉を開けた。廊下に朝日が差している。リックが腕を組んで待っていた。
「リリアも来る。薬草粥だ」
「苦いんじゃないのか」
「今日は甘いらしいぞ」
廊下を歩いた。リックが横に並んだ。窓から南の森が見える。静かだった。空に昨夜の星図の残光が、かすかに漂っている気がした。
「リック」
「ん?」
「ありがとう。百回分。気づいてくれて」
リックは少し間を置いた後、短く言った。「俺もな、ずっとお前に言ってほしかったんだよ。手を貸せって」
ぱんっと背中を叩かれた。
痛かった。でも、温かかった。
アレンは初めて、この朝を「呪い」と思わなかった。
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エルザのノートは、メイヤー村の資料館に収められた。表紙に彼女の丸い字で書かれている。
〝灰の記憶は、いつか星の地図になる〟
アレンはその字を見るたびに思う。百回、後悔しながら眠った。百回、同じ朝に戻った。それは全部、この朝にたどり着くための地図だったのかもしれない、と。
村の自警団員ミリが「あの夜の星は神様の仕業だと思ってた」と言い、ソフィが「アレンさんがやったって知って泣いた」と言った。辺境伯の使者ディノが「あの術式の記録をさせてほしい」と訪ねてきた。元学院同期のハンスが「お前が遺跡を解析したって本当か」と手紙を送ってきた。行商人ペドロは翌月も村に来た。「生きてる土産話ができたよ」と笑いながら。神官長サラスは古代語の写本をアレンに贈った。イレーナ師匠はリリアに「よくやった」とだけ言い、リリアは「照れます、師匠に言われると」と返した。クランツは「次は盾も作ってやる」と言い、ベーカーは「そうじゃない、防衛計画を立て直せ」と言い、ガルドスは「村が助かった」と目を細め、書記のヨアンは「記録に残します、正式に」と帳面を開いた。マーシャは三人の食事をしばらく無料にした。ネッサは薬草を届け続けた。フォルクは無言で米袋を玄関に置いていった。ケネスが「馬に乗れるようになっておけ」と言い、ラーゲが「俺が教える」と言い、アーヴィンが「鉱山に来れば採掘法も教えるぞ」と言った。シードが「次の訓練に加わってくれ」と言い、ダラが「弓も教えられる」と言った。カールが「今年の秋祭りは村を上げてやろう」と言い、ティモが「俺もお手伝いします!」と手を上げた。ベネが「あの子はよかったね、いい人たちに囲まれて」と呟いた。誰も名前を言わなかったが、全員がエルザのことを思っていた。
アレンはその夜も後悔なく眠り、翌朝、リックに起こされた。それが当たり前になった。
「アレンさん、早く来てください!粥が冷めます!」
廊下の奥で、リリアの声がした。
アレンは立ち上がった。
今日は昨日の続きだ。
それで、十分だった。




