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09 ちゃんと優しくしてくださいね

 シルヴィオがサハロフ邸に戻ってきてから数日が過ぎた。

 レナートは王宮での職務と公爵家の執務に追われる日々を送っていたが、サハロフ邸の空気は明らかに変化していた。若々しい笑い声が響くようになったのだ。その声の主は、決まってセラフィーナと、そしてシルヴィオだった。


 ある日の午後、王宮から戻ってきたレナートは、直接執務室へは向かわず、庭園へ足を運んでいた。重い職務から一時的に解放され、つかの間の休息を求めていたのだ。サハロフ邸の庭園は、セラフィーナが来てから更に手入れが行き届き、色とりどりの花が咲き乱れていた。


 ふと、奥のバラ園から、弾むような笑い声が聞こえてきた。レナートは声のする方へ歩みを進める。

 すぐに目に入ったのは、バラのアーチの下で、楽しそうに笑い合うセラフィーナとシルヴィオ、そして侍女たちの姿だった。


 シルヴィオは身ぶり手ぶりを交えて語り、セラフィーナは顔を輝かせながら相槌を打っている。傍らでは、侍女たちがにこやかに二人を見守っていた。


「セラフィーナ様は、乗馬が得意だと聞きました」

「得意かどうかは分かりませんが、好きです。シルヴィオ様は、乗馬は好きですか?」

「ええ、もちろん。今度、兄上と三人で乗馬に行きましょう。とっておきの場所にも案内しますよ」

「まあ、本当ですか?」


 二人の間には、無邪気で楽しげな空気が満ちていた。その様子は、まるで長年の友人のようであり、あるいは血の繋がった姉弟のようにも見えた。


「セラフィーナ様、見てください。このバラ、とても美しく咲いています」

「ええ、とてもきれいですね」


 シルヴィオが指差すと、セラフィーナも声を弾ませた。シルヴィオは、近くにいた侍女のミリアムに声をかけた。


「手袋とはさみをくれるかい?」

「はい、ただいま」


 ミリアムから渡された手袋を、シルヴィオは手慣れた様子で身に着け、次に剪定ばさみを受け取る。それからバラの茂みから、鮮やかな赤いバラを一輪摘み取った。

 シルヴィオはバラの茎から棘を丁寧に取り除き始める。慎重に、しかし手際よく作業を進めるシルヴィオの姿は、真剣そのものだ。


「バラの棘は、結構鋭いのですね」

「ええ。こうして手袋をして、丁寧に扱わないと」


 シルヴィオの手によって棘が丁寧に取り除かれたバラは、まるで宝石のように輝いて見える。


「さあ、セラフィーナ様。どうぞ」


 シルヴィオは、誇らしげにそのバラをセラフィーナに差し出した。


「まあ! ありがとうございます、シルヴィオ様」


 セラフィーナは嬉しそうにバラを受け取り、満面の笑みをシルヴィオと侍女たちに向けた。ミリアムをはじめ、周囲の侍女たちも、そのほほえましい光景に顔をほころばせている。


 レナートの胸の奥底で、ちくりと何かが刺さったような感覚があった。それは、彼自身にも説明のつかない、微かな不快感だった。将来の義弟(おとうと)と仲良くすることは、家族としても望ましいことだろう。頭ではそう理解しているのに、なぜかその光景を受け入れられない。

 レナートと乗馬をする際も、朝食を共にする際も、セラフィーナは確かに笑顔を見せる。だが、シルヴィオのように、果たして自分はセラフィーナをあのような無邪気な笑顔にさせたことがあっただろうか?


「……何を馬鹿なことを」


 レナートは自嘲するように、小さくつぶやいた。彼は二人の楽しそうな談笑の輪に加わることなく、ゆっくりときびすを返し、執務室へと戻っていった。その足取りは、庭園に来る前よりも、明らかに重くなっていた。



 ◇ ◇ ◇



 その後、レナートは執務室で報告書に目を通していた。疲労が体にまとわりつくような感覚があったが、セラフィーナとシルヴィオのことを考えなくていいように、仕事に没頭していた。


 ノックの音とともに、レナートの集中力は途切れる。

 入室を許可すれば、現れたのはシルヴィオだった。彼の顔には、どこかいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。


「兄上、おかえりなさい」

「ああ」


 レナートは短く返事をしながら、彼が何の用で来たのか、はかりかねていた。眉を少しひそめると、シルヴィオが口を開く。


「随分、感情を出すようになったんですね」


 シルヴィオは遠慮なくそう言って、レナートの目の前までやってくる。執務室にあるソファに、許可を得ることなく座ってしまう。


「何の話だ」

「とぼけたって無駄ですよ。さっき、庭園で僕とセラフィーナ様が話しているのを、見ていたでしょう? セラフィーナ様は気づいていませんでしたけど」

「…………」


 まさか見られていたとは。レナートは表情を変えないよう努めたが、シルヴィオは構わず言葉を続けた。


「兄上、ものすごく不機嫌そうに、じっと見ていましたよ。僕とセラフィーナ様が楽しそうにしているのが、そんなに気に障ったんですか?」


 シルヴィオは面白そうに、にやにやと笑う。弟の率直な物言いに、レナートは普段の冷静さを保つことができないでいた。


「馬鹿なことを言うな」

「僕とセラフィーナ様が仲良くなるのは、サハロフ家にとっても喜ばしいことでしょう? 兄上の婚約者なんですから、歓迎して当然ですよ」


 レナートは言葉に詰まった。シルヴィオは間違っていない。そんなことは、言われなくても分かっていた。


 だが、やがてレナートは観念したように、大きくため息をついた。自分自身を責めるような、重い吐息だった。


「……感情を表に出している自覚がなかった」


 そう認めると、シルヴィオはにっこりとほほえんだ。


「素直ですね。良かった、兄上のそんな一面を見ることができて、僕も嬉しいです」

「良くはない」


 父の言葉が脳裏にちらつく。感情に支配されることなど、あってはならない。


「どうしてですか?」

「サハロフ家の人間として、ふさわしくない。お前もそう教えられているだろう」


 レナートの言葉に、シルヴィオは目を丸くする。

 何かを考えるようにシルヴィオは少し沈黙し、やがて姿勢を正すと、レナートにいたわるようなまなざしを向けた。その瞳には、レナートを思いやる気持ちが宿っていた。


「父上の後を継ぐために、兄上がどれほど努力しているか知っています。でも、だからこそ私的な場所でくらい、息を抜いてください」

「…………」


 言葉が出なかった。いつまでも小さな弟と思っていたシルヴィオに、突然成長した姿を見せられた気持ちになり、レナートの胸がぐっと詰まった。


「良かったですね、セラフィーナ様が来てくれて」


 シルヴィオは満足げに笑うと、ソファから立ち上がり、扉の方へ向かった。


「セラフィーナ様には、ちゃんと優しくしてくださいね。兄上にあんな顔をさせる、貴重な方ですよ」


 そう言い残し、シルヴィオは執務室を後にした。


 残されたレナートは、深く椅子に座り込み、天井を見上げた。

 色々なことがめまぐるしく浮かぶ。思考の海に沈むうちに、レナートはいつのまにか目を閉じていた。

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