08 それほど変わったか?
セラフィーナがサハロフ邸で暮らすようになって、数カ月が過ぎた。
レナートはセラフィーナと朝食を共にし、時間があればできるだけ乗馬や散歩に出かけた。
そういった生活を始めたせいなのか、レナートは最近、自分の体調に変化があることに気がついた。
以前より食欲が増し、寝つきが良くなって深い睡眠がとれるようになった。頭は冴え、常にまとわりついていた倦怠感がいつのまにか軽くなっている。
明るいセラフィーナの笑顔につられて健康になっていく自分に、レナートは新鮮な驚きを覚えていた。
今朝もセラフィーナとの時間を終えて、レナートが執務室で書類に向かっていると、部屋にノックの音が響いた。
集中していた思考が途切れることなく、自然と入室を許可する声を発する。使用人が開けた扉の向こうから、十五歳になる弟、シルヴィオが姿を現していた。
「兄上、ただいま戻りました」
「ああ、帰ってきたのか」
父から任されている領地からの報告書を確認していたレナートは、手を止め顔を上げた。王立学校の長期休暇の時期になり、弟は寄宿舎から戻ったのだろう。
「あれ? 兄上……」
シルヴィオはなぜか、非常に驚いた表情をしている。
「一体、どうしたのですか?」
「……何がだ」
意味が分からず眉を寄せるレナートに、シルヴィオは執務机のすぐ前まで近づいてきて、まじまじとレナートの顔を眺める。その瞳には、何か信じられないものを見たかのような色が浮かんでいた。
「顔色が、全然違う!」
「…………」
レナートと年の離れた次男であることもあってか、父も母もシルヴィオには若干甘い。そのせいなのか、レナートとは違って、シルヴィオはサハロフ家の人間にしては、感情が豊かなほうだ。思ったことを素直に口にする彼の性格は、時にレナートをあきれさせることもあった。
「へえ、セラフィーナ様と毎日朝食を一緒に取っていると、母上から手紙で聞いてはいましたが……。セラフィーナ様、すごい方ですね」
シルヴィオは両家の顔合わせの時に、セラフィーナに会っている。だが、すぐに寄宿舎に戻ってしまったので、セラフィーナとはあまり会話をしていない。
母はそんなことを報告していたのか。レナートはわざとらしく小さく息をついた。
「軽口はそこまでだ。父上と母上には挨拶を済ませたのか?」
「ええ、父上には会いました。これから母上とセラフィーナ様のところへ行こうかと。楽しみだな。この休暇の間に、セラフィーナ様をエスコートさせてもらいますね」
「……なぜそうなる」
「社交の場での振る舞いを身につけるためじゃないですか。成長のためですよ。それに兄上は、忙しいでしょう? 兄上の代わりをしっかり務めますね」
シルヴィオの言葉には、どこかいたずらっぽい響きがあった。シルヴィオの言うことは建前であり、実際はセラフィーナとの交流を楽しみたいという本音が透けて見えた。
確かにレナートには、公爵家での仕事の他に、王宮の財務執務室での仕事もある。数人で分担しているとはいえ、一国の財政を担う責任は重い。連日、山積みの報告書や決裁書類に目を通し、会議に出席する日々だ。そしてレナートはまさにこれから、王宮に向かわなければならない。今日は早朝の乗馬もできなかった。
レナートはため息をついて立ち上がると、シルヴィオに多少きつい視線を向けた。
「もう出る時間だ。私の婚約者に失礼のないように」
「嫌だなあ。久しぶりに戻った弟に、優しくないですよ」
「……寄宿舎に入って、態度が悪くなったな」
「成長したと言ってください」
そう言って、シルヴィオは悪びれることなく笑う。シルヴィオに見送られ、レナートは王宮へと向かった。
◇ ◇ ◇
「レナートじゃないか。久しぶりだな」
財務執務室へ向かう途中、王宮の一角で声をかけられて、レナートは立ち止まって振り返った。
声の主は、アニエロ・リミニだった。リミニ公爵家の嫡男で、レナートの学生時代からの友人でもある。
自分で呼び止めたというのに、なぜか彼は非常に驚いた表情になった。アニエロはレナートのすぐ前までやってくると、不思議そうにレナートの顔を眺める。この視線には既視感がある。さっきシルヴィオに同じようなまなざしを向けられたばかりだ。
「ようやく婚約者を迎えたと聞いたぞ」
「ああ。三カ月になる」
「ロランの妹だろう?」
「……彼は、きみとも親しかったのか」
「ああ。ロランは友人が多い。だが妹は、病気で療養中だと聞いていたぞ。体は大丈夫なのか?」
心配そうなアニエロに、レナートはセラフィーナの姿を思い浮かべながら答えた。
「聞いていた話とは違って、とても健康的な女性だ」
「そうなのか?」
「ああ。溌剌としていて、良く動く。乗馬が好きで、陽光の中を飛ぶように駆け抜けていく」
言葉にすると、脳裏のセラフィーナの姿がより鮮明になっていく。風を切って馬を走らせる姿、太陽の下で輝く笑顔、どんなことでも優しく受け止める姿勢。その全てが、レナートにとってはまぶしい光景だった。
「前向きで、常に笑顔を絶やさない。屋敷の空気が随分明るくなった」
アニエロは、片手を上げてレナートの言葉を遮った。顔には笑みが浮かんでいるが、その目はどこか面白がっているように見えた。
「分かった。のろけ話はもういい」
「…………」
レナートは思わず動きを止めた。
「顔色が随分良くなったと思ったが、そういうことだったのか」
これもまた、シルヴィオと同じ反応だ。だが弟とは違い、友人には素直に尋ねることができる。レナートはやや戸惑いながらアニエロに聞いた。
「……それほど変わったか?」
「今までと全然違うぞ! 君は長いこと死神にとりつかれていたようだった」
「…………」
「悲壮感漂う君に、病気を患っている婚約者とあっては、お互いに大丈夫なのかと心配していたが……。良かったじゃないか」
そう言ってアニエロは嬉しそうにぽんぽんとレナートの肩をたたく。その手のひらから伝わるあたたかさに、レナートはアニエロの喜びを感じ取った。
「今度紹介してくれ。しばらく領地に行っていたんだ。ロランとも久しく会っていない。せっかくの縁だ。次は一緒に集まろう」
「ああ、分かった」
アニエロと別れ、レナートは財務執務室へと向かう足を動かした。
シルヴィオも、アニエロも、口々に彼の変化を指摘した。レナート自身が感じていた体調の変化は、周囲にも明白に分かるほどのものであったらしい。
(彼女のおかげか……)
財務執務室の扉を開ける直前、レナートはふと振り返る。陽光に満ちた王宮の中庭。空は青く澄んで、穏やかに小鳥の声が聞こえていた。
当たり前だが、そこにセラフィーナの姿はない。けれどレナートの胸の中には、光差す場所で笑う彼女の姿が確かにあった。