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07 見えていないことだってたくさんありますよ

「大丈夫か?」

「はい、レナート様がいらしてくださったので、大丈夫です」


 セラフィーナの穏やかなほほえみに、レナートは内心で安堵した。

 そこへ、ひとりの青年が歩み寄ってくる。セラフィーナの兄、ロランだった。


 王立学校時代、レナートとロランは同じ学年に在籍していたが、親しく言葉を交わす機会はほとんどなかった。レナートとは対照的に、ロランは周囲の空気を読むのが得意で、誰にでも分け隔てなく接する穏やかな性格であると記憶している。自然と人望を集め、学友たちの輪の中心にいることが多かった。レナートはそのような輪に入っていくことが得意ではなかったし、ロランもまた、無理に干渉してくるような性格ではなく、結果として、二人は静かな距離を保っていた。


 だからこそ、こうして目の前に立つ彼が、婚約者の兄であるという現実が、少し不思議にすら感じられる。


「婚約の顔合わせの日以来ですね。ご無沙汰しております、サハロフ小公爵様。妹がご心配をおかけしたようで……。ご対応に感謝いたします」


 ロランはそう言って、丁寧に頭を下げた。


「いえ、シュルツ卿の軽率な振る舞いゆえのこと。気にされる必要はありません」


 レナートはそこで言葉を切り、ちらりとアルトゥールの去っていった方を見た。その視線には、二度とあのような真似は許さない、そんな無言の圧があった。


「お兄様とレナート様は、本当に学生時代には交流がなかったのですね」


 二人の間にある微妙な距離を感じ取ったのだろう。セラフィーナがくすりと笑って言った。その言葉に、ロランも笑みを浮かべる。


「そうだな。今回のご縁に、心から感謝しているよ」


 そう言ってロランはレナートへと向き直る。


「セラフィーナの兄として、そしてかつては共に学んだ仲間として、改めてどうぞよろしくお願いいたします、サハロフ小公爵様」

「レナートと呼んでください。あなたは私にとって義兄(あに)となる方ですから」

「では、僭越ながらレナート様と呼ばせていただきます。私のこともロランとお呼びください。そして、もしかなうのであれば、これからは学生時代にできなかった友人としての時間も過ごすことができたら、嬉しく思います」


 ロランのまっすぐなまなざしには、建前ではない誠意と親愛、そして確かなあたたかさが宿っていた。ロランの爽やかな笑顔は、セラフィーナと良く似ている。レナートは今更ながら、彼と接点のなかった学生時代を残念に思った。


「そう言ってもらえて嬉しい。よろしく、ロラン」


 レナートが差し出した手を、ロランは一瞬驚いたように、だがすぐに嬉しそうに笑みを見せ、しっかりと握手を交わした。


「では、我々の両親のところへ一緒に行きませんか。二人が並んでいる姿を、何よりも楽しみにしているはずですから」


 ロランの提案に、レナートとセラフィーナは顔を見合わせ、小さくうなずきあった。


 三人は一緒に、会場の一角へと向かう。そこではラトゥリ侯爵夫妻が、他の貴族たちと穏やかに談笑していた。侯爵は柔和な表情で相手の話に耳を傾け、その傍らで侯爵夫人が優しくほほえんでいる。


「お父様、お母様」


 セラフィーナが明るく呼びかけると、侯爵夫妻の視線が二人へと向けられた。彼らの顔には、今まで以上にあたたかい笑みが浮かぶ。


「セラフィーナ、レナート殿。楽しんでいるかい?」


 侯爵が優しいまなざしで問いかけた。その表情には、娘の幸せを心から願う父親の情愛があふれている。


「はい、お父様。レナート様がずっと傍にいてくださるので、安心して過ごせています」


 セラフィーナはにこやかに答え、そっとレナートに視線を向ける。その様子に、侯爵は安堵したようにうなずいた。


「セラフィーナ、顔色がとても良いわね。安心しましたよ」


 侯爵夫人が、セラフィーナの手を取って両手で包み込んだ。その仕草には、娘への深い愛情がにじみ出ていた。


「ええ、お母様。サハロフ家の皆様がとても良くしてくださいますから、体調もとても良いです」


 セラフィーナの言葉に、侯爵夫妻は互いに顔を見合わせ、あたたかい笑みを交わした。侯爵夫妻の間には、深く穏やかな愛情と信頼が宿っているようにレナートには見えた。彼らは、娘の健康と幸福を心から喜んでいる。


 レナートは、その姿を見つめながら、何とも言えない感情に胸を突かれていた。彼らの間に流れる空気は、かつてレナートが漠然と思い描いていた理想像のように見えた。純粋なあたたかさで満たされた、愛のある関係。この家庭で育ったからこそ、今のセラフィーナがあるのだろう。


 その事実に気づいた瞬間、レナートの胸に、これまで感じたことのないほど強烈な痛みが押し寄せていた。


(……私と彼女は、あまりにも違いすぎる)


 まぶしかった。触れるのが怖いほどに。



 ◇ ◇ ◇



 その後、ラトゥリ侯爵夫妻とロランは、穏やかに談笑の輪へと戻っていった。


 彼らの後姿を見送った後、レナートとセラフィーナは、二人で会場の中心から少し離れて庭園の方へと歩を進めた。

 比較的静かな場所に来ると、唐突に、けれど必死に絞り出すように、レナートは口を開いた。


「……きみのためには、もっと別の人間と結婚したほうが、良いと思う」

「え?」

「決まってしまったことを、変更することは容易ではないが――」

「待ってください、レナート様」


 レナートの言葉を遮ったセラフィーナの瞳には、驚きと困惑の色が浮かんでいる。


「どうして、急にそんなことをおっしゃるのですか?」


 レナートの視線は、再び、先ほど侯爵夫妻が立っていた場所へと向けられた。レナートの心には、彼らのあたたかい光景が焼き付いていた。


「私と一緒では、ラトゥリ侯爵夫妻のようには、きっとなれないだろう。きみなら、もっと良い相手が見つかるはずだ」


 少しだけ首をかしげて困ったようにレナートを見つめていたセラフィーナは、ややしてふっと柔らかくほほえむ。


「初めてお会いした時に言いましたよ。レナート様のお気持ちは、理解しておきますって」

「…………」


 そう、彼女は初めから理解してくれた。だがあの日よりもずっと、レナートの心は戸惑う。


「……だが、君も見ているだろう。私の両親のことを。私もきっと――」


 言葉は最後まで続かなかった。なぜ今になって、こんなにも苦しくなるのかが分からない。

 だがそんなレナートに、セラフィーナは優しい笑みを見せた。


「表面だけでは、見えていないことだってたくさんありますよ、きっと」


 そう言って彼女は、そっと秘密を打ち明けるように、口元に人差し指をあてた。


「公爵夫人は、わたくしにこっそり教えてくださいましたよ。学生時代の公爵様は、大理石の貴公子と呼ばれていて、怜悧で気品のあるお姿が、それはそれはすてきだったって」

「……母が、そんなことを?」


 レナートは耳を疑った。そんなふうに父を語る母の姿など、想像すらできなかった。

 セラフィーナはくすりと笑う。いたずらっ子のような笑顔が、まぶしい。


「わたくしたちはわたくしたちで、良くありませんか?」


 セラフィーナのまっすぐで優しい声に、心の奥底で渦巻いていた自己否定が崩れ去っていく。冷徹な理性も、過去に囚われた思考も、彼女の前では無力だった。


「……そう、か」


 それ以上何も言葉が出なかった。

 レナートはまだ無自覚だった。己がもう、彼女から目が離すことができなくなっていることに。

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