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06 私の婚約者だ

(妹が、まさかレナート・サハロフと婚約することになるとは)


 ロラン・ラトゥリはグラスを傾けながら、王宮の広大な庭園を見渡した。

 侯爵家の領地である北の地では決して見ることのない、色とりどりの花々が咲き誇る、まさに王宮にふさわしい絢爛な景観だ。手入れの行き届いた芝生の上には、白い天幕がいくつも設営され、そこかしこで高貴な男女が談笑している。楽団の奏でる優雅な調べは耳に心地よく、この場の格式を一層引き立てていた。


 今日この場所を訪れたのは、王家主催のガーデンパーティが、王宮の広大な庭園を会場として開催されるからだ。このパーティには、王都中の貴族たちが顔をそろえる。社交界の重要人物たちが一堂に会するこの機会は、各家門の勢力図や人間関係が更新されていく、重要な舞台でもあった。


 ロランの視線の先には、白い天幕の下で、婚約者と共に談笑する妹の姿があった。明るい笑顔を浮かべるその姿は数年前、人目を避けるように領地に閉じこもっていた面影を微塵も感じさせない。


「本当に元気になった」


 ロランは思わず、小さくほほえんでつぶやいた。一時期は、家族と目を合わせるのも避けていた妹が、今は堂々と婚約者の隣に立ち、優雅に振る舞っている。その変化が、兄としてどれほど嬉しいか、胸の奥で言葉にならない喜びを感じていた。


 その少し離れた場所には、ラトゥリ侯爵夫妻である両親の姿が見える。彼らはサハロフ公爵夫妻と挨拶を交わし、和やかに談笑しているようだった。両家がこうして公の場にそろって顔を出すこと自体、この婚約が滞りなく進んでいる証となる。


 レナートについては、王立学校時代から知っている。彼とは同級生だったが、言葉を交わした記憶はほとんどない。学年首席の座は常にレナートのものであり、立ち居振る舞いも非の打ちどころがなく、絵に描いたような貴公子だった。完璧すぎて、まるで血の通わない人形のようだと、噂されていた。感情の起伏を見せず、常に冷静で、人との間に一定の壁を築いている印象だった。


 同学年であったマリーアンヌ・ヴィルヌーヴとの件は有名だ。まもなく婚約というところで、レイルローズ王国のアンドリューズ第二王子にマリーアンヌを奪われてしまったのだ。そのことで、レナートはますます他人と距離を置くようになり、冷淡になったように見えた。それほど、マリーアンヌを愛していたのだろうと、ロランは思っている。


(セラフィーナには、つらい思いをさせたくない)


 それが、兄としてのロランの一番の願いだった。感情を表に出さないレナートが、妹にどのような感情を抱いているのか。果たして妹を幸せにできるのか。


 しかし、セラフィーナはそんなロランの懸念をよそに、新たな環境に適応しようとしている。

 ロランは、グラスをゆっくりと置いた。その先に見えるのは、セラフィーナがレナートにほほえみかける姿。そして、その視線を受け止めるレナート。その表情に、わずかに柔らかさが見える気がした。


(あれは……)


 ロランが見つめる先で、レナートが他の貴族に呼ばれ、セラフィーナの傍を離れた。レナートが向かう先には、王国の重鎮であるクレイグ公爵の姿があった。彼がレナートを呼んだのだろう。


 セラフィーナは一人になっても、動じることなく優雅に振る舞っていた。近くにいた貴婦人たちと笑顔で挨拶を交わし、和やかな会話を紡いでいる。その姿は、完璧な淑女そのものだ。ラトゥリ侯爵家の娘としての品位を保ちながら、サハロフ公爵家の婚約者としての存在感も示している。ロランは妹のその成長ぶりに、誇らしさを感じた。


 しかし、その優雅な雰囲気を壊すかのように、一人の男がセラフィーナに近づいていくのがロランの目に入った。


「……面倒なやつが来たな」


 ロランは小さく吐息を漏らした。


 シュルツ伯爵家の次男、アルトゥール・シュルツ。アルトゥールは甘い顔立ちと巧みな話術で、若い令嬢たちに取り入ることに長けた男だ。アルトゥールは高位貴族の令嬢との繋がりを常に狙っているという噂があった。

 アルトゥールは、ゆっくりとセラフィーナのもとへ歩み寄り、軽く一礼する。


「ラトゥリ侯爵令嬢。このような素晴らしいパーティで、お一人とはもったいない限りです」


 アルトゥールは優しげな笑みを浮かべ、セラフィーナの空間に踏み込もうとする。セラフィーナはにこやかに返しているが、その瞳には警戒の色が浮かんでいるのがロランには分かった。


「ご婚約者様はどちらに?」

「レナート様は、クレイグ公爵閣下とお話し中です」

「そうですか。それにしても、ラトゥリ侯爵令嬢がこれほど美しい方だとは。誰もが目を奪われてしまいますね」

「過分なお言葉をいただき、光栄です」


 セラフィーナは柔らかい笑顔のままだ。しかし、その瞳の奥は笑っていない。これ以上は踏み込まないでほしい、という静かな意志が見えた。

 だが、アルトゥールはそれを無視するように、さらに距離を詰める。その視線はセラフィーナの顔から耳元へと滑る。


「その耳元で揺れるイヤリング。ラトゥリ侯爵令嬢の瞳の色に、実によく似合っていますね。そのような見事な細工を拝見するのは初めてです。もう少し近くで、その細工の美しさを拝見しても?」


 そう言いながら、アルトゥールは恭しい仕草で、しかし明らかに不必要なほど体を近づけ、顔をイヤリングに寄せようとした。

 その不適切な距離感に、セラフィーナの顔からすっと笑みが消える。困惑と嫌悪。ロランは一瞬で距離を詰め、アルトゥールを引きはがそうとした。


 ――が、その必要はなかった。


「シュルツ卿」


 抑揚のない、しかし明確な声が、アルトゥールの背後から響いた。

 声の主は、レナートだった。彼の顔には微塵も感情は読み取れないが、そのアイスブルーの瞳は、まるで獲物を捉えたかのように鋭く光っている。周囲の音が一瞬だけ静まり返ったように感じられた。


 アルトゥールは弾かれたようにセラフィーナから離れ、レナートの方を振り返った。レナートの冷たい視線を目の当たりにして、その顔に焦りが浮かぶ。


「これは、サハロフ小公爵様。ただいま、ラトゥリ侯爵令嬢にご挨拶をさせていただいたところです」

「ただの挨拶にしては、距離が近かったが」

「そんなつもりは――」

「彼女は、私の婚約者だ。私の婚約者への礼を欠いた振る舞いは、我がサハロフ家への敵意とみなす」


 レナートの言葉は平坦ながらも、その背後には公爵家の威厳と、冷徹な意志が透けて見えた。言葉の裏に込められた圧倒的な重圧に、アルトゥールの顔から血の気が引いていくのが分かる。伯爵家の次男である彼では、到底受け止めきれないだろう。


「失礼にあたりましたら、お詫び申し上げます」

「そうか。では、今後はこのような誤解を生むことのないよう、言動には十分注意するといい」


 レナートはそう言って、アルトゥールを一瞥した。その視線に、アルトゥールは慌てた様子で深々と頭を下げ、流れるようにその場を去っていった。


 ロランは立ち止まったまま、レナートの姿を見つめた。感情をほとんど表に出さない彼が、妹に対してこのような行動を取ることは、予想を上回るものだった。

 レナートはアルトゥールが去った後も、しばらくの間、鋭い視線を庭園の隅々に走らせていた。セラフィーナの安全を確かめているかのように。

 やがて、レナートはセラフィーナに向き直ると、その視線の厳しさはわずかに和らいでいた。


「大丈夫か?」


 短く問われた言葉には、先ほどまでの冷徹さはなく、はっきりと心配の色がにじんでいた。セラフィーナはにこやかに答えた。


「はい、レナート様がいらしてくださったので、大丈夫です」


 二人の間に流れる空気に、ロランは確かにレナートの変化を感じた。それは、単純な婚約者という関係性だけでは説明できない、微かな、しかし確かな繋がりだった。


(……案外、心配する必要はないのか?)


 ロランは静かにほほえんで、心の中で、妹の未来をそっと祈った。

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