04 あなたで良かったと思います
『申し訳ないが、きみを愛することはできないと思う』
セラフィーナに初対面でそう告げた時、レナートは悲しみに満ちた瞳をしていた。傷ついているのだ、と理解した。
だからセラフィーナは、その言葉を責める気にはなれなかった。恋を失った気持ちは痛いくらい分かったし、何より、かつての自分のほうがずっとひどかったからだ。
セラフィーナもかつて恋をし、そして失態を犯した。その痛手から立ち直れず、自分を無意味な存在だと考えて、普通の生活が送れなくなった。今思い出しても、どうしようもない気持ちに襲われる。
消し去りたい。なかったことにしたい。でもそんなことはできないから、今度こそ間違えないように、前を向いて進むしかない。セラフィーナはもう、自分を憐れむことはやめたのだ。
レナートの最初の発言が好意的でないことには驚いたが、見方を変えてみれば、とても正直な人物であるともいえた。
(本当は心がないのに、愛していると言われるより――嘘をつかれるよりは、ずっといいわ)
そうだ、かえって良かったのかもしれない。セラフィーナはそう考えて、レナートの気持ちを受け入れた。
それに、レナートは愛以外にはセラフィーナに誠実に対応する姿勢を見せてくれた。セラフィーナにとっては幸運ともいえることだった。
せっかくそう言ってくれるのだから、セラフィーナはできるだけのことをやってみたくなった。
(とりあえず、レナート様は顔色が悪すぎるから……少しずつでも、健康になってほしい)
そう思ってセラフィーナは、お節介を焼いてみることにした。
早朝の陽光を浴び、適度な運動をし、十分な食事と睡眠をとる。誰かと会話をすることも、とても重要なことだ。そのことを身をもって知っていたから、セラフィーナは少々強引なことを理解したうえでレナートを誘った。
約束したとおり、レナートは生真面目にセラフィーナの要求に答えてくれた。
レナートの困惑は見てとれたが、セラフィーナは鈍感なふりを決め込んで、日々の生活を変えなかった。
◇ ◇ ◇
サハロフ邸で暮らし始めてしばらくが過ぎたある日。
セラフィーナは朝の乗馬の時間に、ふと小さな白い花々を見つけた。今日はレナートと馬を並べて、ゆっくりと進んでいる。
「レナート様、見てください。あちらに白い花がたくさん!」
セラフィーナは嬉しさに声を弾ませ、指差した。降り注ぐ光を浴びて、遠目には雪が残っているようにも、あるいは誰かが白い絵の具を散らしたようにも見える。
レナートはセラフィーナが指した方を見て、少しだけ柔らかい声で言った。
「あれは、キャンディタフトという名の花だ」
「良くご存じなのですね」
「昔、母から教わった」
言葉は短いけれど、その奥に遠い思い出が感じられる気がして、セラフィーナの胸があたたかくなった。
「すてきですね。私も教えてもらえて嬉しいです」
セラフィーナの顔に、自然と笑顔がこぼれた。小さな思い出を共有できたということが、心をふわりと軽くする。
レナートは少し驚いたようにこちらを見たあと、わずかに視線を逸らした。戸惑うように。
レナートにとって、セラフィーナと過ごす時間は、自ら望んだものではない。それでも、セラフィーナの声に耳を傾けてくれる。それが嬉しかった。
丘を登りきると、セラフィーナは馬から降り、馬の首筋をなでながらレナートに言った。
「少し休みましょう」
「ああ」
レナートも馬から降り、立ったまま遠くを眺めている。少しの沈黙も、今は心地よく感じられる。
セラフィーナはレナートの顔をじっと見つめながら言った。
「レナート様、今朝は少しお顔の色が明るい気がします」
「……そうなのか」
「ええ。初めて会った日よりもずっと」
確かめるように見つめ続けると、レナートは居心地が悪そうに視線を逸らした。
ややして、思いがけない言葉を口にした。
「きみが、よく話しかけてくれるからだろう」
セラフィーナは驚いた。顔が自然にほころぶ。
「それは良かったです。これからも、たくさん話をしますね」
レナートの頬が、ほんのわずかに緩むのが見えた。その変化が、とても嬉しかった。
少しの休息の後、再び馬にまたがり、丘を下りながらセラフィーナは楽しげに話を続けた。
「明日は、あの森の方まで行ってみませんか?」
「あそこは少し道が荒れている」
「でも、木漏れ日がとてもきれいだと、厩舎の皆さんから聞きました」
「……分かった。道の状態を確認させておく。それで、大丈夫そうなら」
「本当ですか? 嬉しいです」
最初は義務で始めたことだったのかもしれない。でも今は、少しずつ何かが変わり始めている。そんな予感がした。
自分の存在が、レナートの日々を少しずつでも明るくできているのなら――それがとても、幸せだった。
◇ ◇ ◇
レナートと別れた後は、レナートの母である公爵夫人との時間だった。
昼下がりの執務室には、薄いカーテン越しの柔らかな光が差し込んでいた。
重厚な机の向こうで、公爵夫人は静かに帳簿に目を落としている。食料品の仕入れ値、使用人たちの給与、そして屋敷の修繕費用。どのような項目が、どのように意味を持っているのか。まだまだ見習いのセラフィーナに帳簿の全てを知らされることはないが、管理の仕方、考え方を公爵夫人は十分に教えてくれた。
その途中、セラフィーナは少し肩の力を抜き、ペンを休めて公爵夫人に向き直った。
「本当に細やかに記録をされているのですね。驚きました」
公爵夫人は微かにほほえみ、小さく首を横に振った。
「驚くほどのことではありませんよ。ただ、この家を少しでも穏やかに保てるようにと、昔からしているだけのこと」
その声には、手放せない願いのようなものが感じられた。
「公爵夫人がこうして見守ってくださっているからこそ、皆が安心して暮らしていけるのだと思います」
セラフィーナの言葉に、公爵夫人の瞳が一瞬柔らかく細められる。
「ありがとう。そう言ってもらえると、大変な仕事も報われるわね」
公爵夫人は静かに言葉を続ける。
「……レナートと婚約したのが、あなたで良かったと思います」
公爵夫人の声は淡々としていたが、その奥には深い想いがにじんでいるようだった。セラフィーナの胸が熱くなる。
「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけるなんて」
「サハロフ家の当主は、感情や主観に左右されず、家門にとって最も良い選択をし続けなければなりません。時には非情に感じるかもしれませんが、家門のために常に重圧に耐えなければならないのです。どうか理解して、支えてあげてもらいたいわ」
外では風が庭木を揺らし、小鳥の声がかすかに響いている。
(公爵夫人は今、誰を想っていらっしゃるのかしら。レナート様? それとも――)
そんなことを考えながら、セラフィーナはしっかりとうなずいた。
「はい、もちろんです」
セラフィーナが答えると、公爵夫人はまた小さくほほえんでくれた。
心の奥にある、大切な誰かを思う静かな祈りが、午後の光にそっと溶けていった。




