表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/26

04 あなたで良かったと思います

『申し訳ないが、きみを愛することはできないと思う』


 セラフィーナに初対面でそう告げた時、レナートは悲しみに満ちた瞳をしていた。傷ついているのだ、と理解した。

 だからセラフィーナは、その言葉を責める気にはなれなかった。恋を失った気持ちは痛いくらい分かったし、何より、かつての自分のほうがずっとひどかったからだ。


 セラフィーナもかつて恋をし、そして失態を犯した。その痛手から立ち直れず、自分を無意味な存在だと考えて、普通の生活が送れなくなった。今思い出しても、どうしようもない気持ちに襲われる。

 消し去りたい。なかったことにしたい。でもそんなことはできないから、今度こそ間違えないように、前を向いて進むしかない。セラフィーナはもう、自分を憐れむことはやめたのだ。


 レナートの最初の発言が好意的でないことには驚いたが、見方を変えてみれば、とても正直な人物であるともいえた。


(本当は心がないのに、愛していると言われるより――嘘をつかれるよりは、ずっといいわ)


 そうだ、かえって良かったのかもしれない。セラフィーナはそう考えて、レナートの気持ちを受け入れた。

 それに、レナートは愛以外にはセラフィーナに誠実に対応する姿勢を見せてくれた。セラフィーナにとっては幸運ともいえることだった。


 せっかくそう言ってくれるのだから、セラフィーナはできるだけのことをやってみたくなった。


(とりあえず、レナート様は顔色が悪すぎるから……少しずつでも、健康になってほしい)


 そう思ってセラフィーナは、お節介を焼いてみることにした。


 早朝の陽光を浴び、適度な運動をし、十分な食事と睡眠をとる。誰かと会話をすることも、とても重要なことだ。そのことを身をもって知っていたから、セラフィーナは少々強引なことを理解したうえでレナートを誘った。


 約束したとおり、レナートは生真面目にセラフィーナの要求に答えてくれた。

 レナートの困惑は見てとれたが、セラフィーナは鈍感なふりを決め込んで、日々の生活を変えなかった。



 ◇ ◇ ◇



 サハロフ邸で暮らし始めてしばらくが過ぎたある日。

 セラフィーナは朝の乗馬の時間に、ふと小さな白い花々を見つけた。今日はレナートと馬を並べて、ゆっくりと進んでいる。


「レナート様、見てください。あちらに白い花がたくさん!」


 セラフィーナは嬉しさに声を弾ませ、指差した。降り注ぐ光を浴びて、遠目には雪が残っているようにも、あるいは誰かが白い絵の具を散らしたようにも見える。

 レナートはセラフィーナが指した方を見て、少しだけ柔らかい声で言った。


「あれは、キャンディタフトという名の花だ」

「良くご存じなのですね」

「昔、母から教わった」


 言葉は短いけれど、その奥に遠い思い出が感じられる気がして、セラフィーナの胸があたたかくなった。


「すてきですね。私も教えてもらえて嬉しいです」


 セラフィーナの顔に、自然と笑顔がこぼれた。小さな思い出を共有できたということが、心をふわりと軽くする。

 レナートは少し驚いたようにこちらを見たあと、わずかに視線を逸らした。戸惑うように。


 レナートにとって、セラフィーナと過ごす時間は、自ら望んだものではない。それでも、セラフィーナの声に耳を傾けてくれる。それが嬉しかった。


 丘を登りきると、セラフィーナは馬から降り、馬の首筋をなでながらレナートに言った。


「少し休みましょう」

「ああ」


 レナートも馬から降り、立ったまま遠くを眺めている。少しの沈黙も、今は心地よく感じられる。

 セラフィーナはレナートの顔をじっと見つめながら言った。


「レナート様、今朝は少しお顔の色が明るい気がします」

「……そうなのか」

「ええ。初めて会った日よりもずっと」


 確かめるように見つめ続けると、レナートは居心地が悪そうに視線を逸らした。

 ややして、思いがけない言葉を口にした。


「きみが、よく話しかけてくれるからだろう」


 セラフィーナは驚いた。顔が自然にほころぶ。


「それは良かったです。これからも、たくさん話をしますね」


 レナートの頬が、ほんのわずかに緩むのが見えた。その変化が、とても嬉しかった。


 少しの休息の後、再び馬にまたがり、丘を下りながらセラフィーナは楽しげに話を続けた。


「明日は、あの森の方まで行ってみませんか?」

「あそこは少し道が荒れている」

「でも、木漏れ日がとてもきれいだと、厩舎の皆さんから聞きました」

「……分かった。道の状態を確認させておく。それで、大丈夫そうなら」

「本当ですか? 嬉しいです」


 最初は義務で始めたことだったのかもしれない。でも今は、少しずつ何かが変わり始めている。そんな予感がした。

 自分の存在が、レナートの日々を少しずつでも明るくできているのなら――それがとても、幸せだった。



 ◇ ◇ ◇



 レナートと別れた後は、レナートの母である公爵夫人との時間だった。

 昼下がりの執務室には、薄いカーテン越しの柔らかな光が差し込んでいた。


 重厚な机の向こうで、公爵夫人は静かに帳簿に目を落としている。食料品の仕入れ値、使用人たちの給与、そして屋敷の修繕費用。どのような項目が、どのように意味を持っているのか。まだまだ見習いのセラフィーナに帳簿の全てを知らされることはないが、管理の仕方、考え方を公爵夫人は十分に教えてくれた。


 その途中、セラフィーナは少し肩の力を抜き、ペンを休めて公爵夫人に向き直った。


「本当に細やかに記録をされているのですね。驚きました」


 公爵夫人は微かにほほえみ、小さく首を横に振った。


「驚くほどのことではありませんよ。ただ、この家を少しでも穏やかに保てるようにと、昔からしているだけのこと」


 その声には、手放せない願いのようなものが感じられた。


「公爵夫人がこうして見守ってくださっているからこそ、皆が安心して暮らしていけるのだと思います」


 セラフィーナの言葉に、公爵夫人の瞳が一瞬柔らかく細められる。


「ありがとう。そう言ってもらえると、大変な仕事も報われるわね」


 公爵夫人は静かに言葉を続ける。


「……レナートと婚約したのが、あなたで良かったと思います」


 公爵夫人の声は淡々としていたが、その奥には深い想いがにじんでいるようだった。セラフィーナの胸が熱くなる。


「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけるなんて」

「サハロフ家の当主は、感情や主観に左右されず、家門にとって最も良い選択をし続けなければなりません。時には非情に感じるかもしれませんが、家門のために常に重圧に耐えなければならないのです。どうか理解して、支えてあげてもらいたいわ」


 外では風が庭木を揺らし、小鳥の声がかすかに響いている。


(公爵夫人は今、誰を想っていらっしゃるのかしら。レナート様? それとも――)


 そんなことを考えながら、セラフィーナはしっかりとうなずいた。


「はい、もちろんです」


 セラフィーナが答えると、公爵夫人はまた小さくほほえんでくれた。

 心の奥にある、大切な誰かを思う静かな祈りが、午後の光にそっと溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ