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03 愛しているかどうかが問題ですか?

 サハロフ邸の晩餐の席は、深い静寂に覆われていた。


 煌々と輝くシャンデリアの下、精緻な彫刻が施された長いテーブルを囲むのは、わずか三人だけ。サハロフ家の当主である父、その妻である母、そして長男のレナート。まだ十五歳の弟は、この春から王立学校の寄宿舎に入り、今は不在だった。婚約者であるセラフィーナは、今日はラトゥリ侯爵家に戻っていて、屋敷にはまだ帰ってきていない。


 子供たちの成長と共に、食事は各々の時間にとるようになったが、時々はこうして顔を合わせるようにしている。それは誰かの望みというよりも、サハロフ家としての義務だった。


「セラフィーナ嬢は良く学んでいますよ」


 母が口を開く。その声音は柔らかだった。


「……そう思われますか」


 レナートは食事の手を止め、母に視線を向ける。


「ええ。何事にも真面目に取り組んでいます」


 母の口元に、小さな笑みが浮かぶ。母はそれ以上は何も言わなかった。再び沈黙が訪れる。


「レナート」


 父の低い声が響く。


「この婚姻は、我がサハロフ家とラトゥリ家の関係を決定的なものとする。分かっているな」

「……はい」


 そう答えるのは簡単だった。だが胸の奥では、ひどく冷たい何かが疼く。


「婚姻は、個人の幸福を超えた責務だ。次期当主として、その覚悟を持たねばならない。感情に支配されるな」


 何度も聞いた言葉だ。それでも今夜は、いつも以上に鋭く胸を刺す。


「分かっています」


 レナートの返答に、母も小さくうなずいていた。母の表情は、レナートには静かな諦めに見えていた。


 ナイフを動かしながら、レナートは目を伏せる。反抗や嫌悪ではない。ただ、どうしようもない息苦しさが心に広がる。

 自由などない。それはずっと分かっていたことだ。この家に生まれた時から決まっていた未来。それでも夜ごと、その重みは増していく。


 ふとまぶたを閉じたとき、脳裏に浮かんだのはセラフィーナの笑顔だった。


『心が自由になる気がします』


 陽光の下、エメラルドのような瞳を輝かせて笑うセラフィーナ。その姿は、どこまでもまぶしかった。


(……感情的になってはいけない)


 レナートはグラスの赤ワインを傾けながら、かつてのことを思い出していた。



 ◇ ◇ ◇



 まだ十七歳だったあの頃――世界は今よりも柔らかく、もっと温かい場所に思えていた。


 公爵家の令嬢、マリーアンヌ・ヴィルヌーヴを初めて紹介された時、父は「お前の婚約者候補だ」と淡々と告げた。


「はじめまして、サハロフ小公爵様。どうぞマリーアンヌとお呼びください」


 控えめで凛とした立ち姿。澄んだ瞳。彼女は決して多くを語る人ではなかったが、ひとつひとつの言葉に気品とつつましさがあった。そして、レナートを見つめて小さくほほえむ際、その頬はほんのりとバラ色に染まっていた。レナートは、その瞳の奥に、自分だけに向けられる何かがあるような錯覚を覚えたのだ。


 レナートは思っていた。妻となる人を大切にしたい。愛のある関係を築きたいと。


 王立学校、あるいは両親に連れられていく社交の場で顔を合わせるうちに、少しずつ距離は縮まっていった。控えめに交わす言葉のひとつひとつが、確かに未来へ繋がっていくようだと感じていた。


(この人となら、きっと)


 そう信じていた。だが、その未来はあまりにも脆かった。


 隣国レイルローズ王国のアンドリューズ第二王子が、留学のためにグランヴェール王国を訪れた。同盟関係にあるレイルローズ王国は、織物産業を発展させた強い商業ネットワークを持っていて、グランヴェール王国にとっても重要な国だ。


 アンドリューズ王子は生まれながらに人々を惹きつける太陽のような人物だった。最初は気にも留めなかったが、次第にマリーアンヌと親しげに話す姿が増えていった。


(それでも、彼女はきっと――)


 澄んだ瞳でレナートを見つめるマリーアンヌを信じたかった。信じることが愛だと思っていた。


 ――しかし、あの舞踏会の夜が、全てを変えた。


 楽団の旋律が響きわたり、笑い声とグラスの音が交わる中、アンドリューズ王子がマリーアンヌに手を差し出した。


「マリーアンヌ公女。今宵、私と踊っていただけますか?」


 マリーアンヌは小さくうなずき、ほほえみながらその手を取った。


 二人が踊る姿は、まるで物語の一幕のように美しかった。しかし、レナートの胸を裂いたのは、その美しさではない。マリーアンヌがアンドリューズ王子を見つめて浮かべたほほえみだった。微かに潤んだその瞳は、確かに熱を帯びていた。頬はバラ色に染まっている。


(……ああ)


 心臓が軋むように痛んだ。それでも目を逸らすことはできなかった。



 ◇ ◇ ◇



 舞踏会の後、庭園でレナートはマリーアンヌを呼び止めた。


「アンドリューズ王子殿下と、あなたとの噂を耳にしています。信じてはいませんでしたが……」


 マリーアンヌは一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに涼やかなほほえみに戻った。


「アンドリューズ王子殿下は、婚約者をお探しになるためにグランヴェールにいらっしゃいました。わたくし以外にも、幾人かが候補者としておりましたが……。わたくしのことを、気に入っていただけたようです。光栄ですわ。お父様からも、サハロフ公爵様に伝えていただいているはずです」


 にっこりと。その言葉は想像していたどの返事よりも冷たく、レナートの胸を貫いた。


「家門のため。そしてグランヴェールのため。レナート様にも、それが分からないわけではないでしょう?」


 頭では理解していた。だが、心がそれを受け入れることを拒んだ。


「アンドリューズ王子殿下を、愛しているのですか? いったい、いつから?」


 問わずにいられなかった。


「愛?」


 マリーアンヌは驚いたように瞳を見開き、それから小さく笑った。その微笑の奥にあったのは、憐憫に近い光だった。


「愛しているかどうかが問題ですか? サハロフ公爵様がお聞きになったら、失望されるでしょう」


 その瞬間、信じていた未来が、一瞬で崩れ去った。


「さようなら、レナート様。これからも社交の場でお会いすることもあるでしょう。どうぞお元気で」


 マリーアンヌは優雅なしぐさで背を向けた。

 ただ静かに、月明かりの下を歩き去るその背中を、レナートは何も言えずに見送った。


(……何を夢見ていたんだ)


 心よりも家を選ぶ。それが貴族の宿命。愛情など、最初から望むべきものではなかった。



 ◇ ◇ ◇



 その数日後、アンドリューズ王子とマリーアンヌの婚約は正式に発表されることとなった。


 レナートは、父の執務室に呼ばれた。


「マリーアンヌ公女は、アンドリューズ王子殿下と婚約することになった」


 父は淡々と、それだけを告げた。低い声には怒りも戸惑いもなかった。ただ、用件を伝えるというだけの声音だった。


「……そうですか」


 声が震えるのを押し殺しながら、レナートはそう返した。


「お前との婚約がまもなくという状況で、本来なら面目を潰された形だ。だが、隣国の王家が相手で、しかも国同士の同盟強化という大義名分がある。表立って文句など言えるはずがない。我が家としては、ヴィルヌーヴ公爵家の娘が第二王子妃となる栄誉を喜ぶしかない。それが国王陛下の望みでもある。国内でのことは、また別の方法を考える」


 すぐに父は、机の上の文書に目を落とす。レナートの顔をじっと見ることさえもしなかった。まるで当たり前のことのように。そこには息子の心情など微塵も考慮されていない。


「……私の気持ちは、聞いていただけないのですね」


 その言葉は小さく漏れただけだったが、父の耳には届いていたらしい。ちらりと一瞥され、しかし返ってきたのは短い、冷たい答えだった。


「当たり前だ。個人の感情を挟む余地などない」


 思えば、ヴィルヌーヴ公爵もきっと同じだったのだろう。娘が隣国の第二王子妃となる。その栄誉と利益の前では、若い二人の想いなど何の重みもない。そしてマリーアンヌは、それを正しく理解している。


 あきれるほど当たり前の現実に、胸の内がすうっと冷えていくのを感じた。


 父の執務室を出ると、母がレナートを待つようにそこにいた。けれど母もまた、何も言わなかった。ただ、少し哀しそうな瞳を向けたきりだ。レナートは少し頭を下げて、背を向けた。


 胸の奥が、ひどく寒かった。


(誰かを愛することなど、もうしない)


 愛のある関係など幻想だ。家のためにほほえみ、家のために婚姻し、家あるいは国のために力を尽くす。それが当たり前だ。失望するほうがおかしいのだ。


 それ以来、レナートは自らの感情を深く封じ込めた。公爵家に望まれる跡継ぎとして、感情に支配されてはならない。


 そして今、レナートには新しい婚約者であるセラフィーナがいる。


 初めて会ったその日に、「愛することはできない」と告げた自分に、何度でも笑顔を向ける。澄んだ瞳で、まっすぐに見つめてくる。


(愛することは、できない。あの笑顔も、いつかは変わってしまうかもしれない)


 そう心で繰り返すのに。


(……本当に?)


 小さな声が、ずっと胸の奥でくすぶっていた。



 ◇ ◇ ◇



 その後、晩餐を終えたレナートは、ダイニングルームを後にした。

 広い屋敷の静まり返った廊下を進み、自室へ戻るためにホールへとつながった上階の回廊を歩く。


 ふと、玄関ホールの方から楽し気な声が響くのが聞こえた。

 レナートは思わず足を止め、欄干越しに下を見下ろす。

 そこにいたのは、外出先から戻ったばかりのセラフィーナだった。共に出かけていた侍女のミリアムに、何かを楽しそうに話しかけている。


 見つめていると、こちらに気づいたセラフィーナが、ぱっと笑顔を咲かせた。


「レナート様。ただいま戻りました」


 まっすぐで、疑いも曇りもない笑顔。レナートの胸がぐっと詰まる。


「……ああ、おかえり」


 小さく声をかけるのが精一杯だった。

 セラフィーナは首を少しかしげたが、またにこにこと笑ってうなずいた。まるで、ただそれだけで心から嬉しいというように。


 レナートはセラフィーナの笑顔を見つめ、そして顔を逸らした。

 背を向け、静まり返った廊下を歩き出す。足音だけが響く中、胸の奥にはまだ小さな渇きと揺らぎが残っていた。


 それは、かつて少年だった自分が信じたものの名残だった。

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