23 何も心配いらない
グランヴェール王国に、隣国レイルローズ王国のアンドリューズ第二王子夫妻が来訪するという知らせが届いた。その滞在を歓迎すべく、王宮主催の盛大な夜会が催されることが決定した。
そのことをレナートから聞かされた時、セラフィーナは朝食の手を止めた。レナートはいつもと変わらぬ淡々とした様子でその事実を告げたが、セラフィーナの胸の奥には、静かに動揺が広がっていた。
アンドリューズ王子の妻、マリーアンヌ王子妃――かつてレナートが愛し、そして失った女性だ。
かつての愛しい人が、自分とは異なるパートナーとともに、王国の賓客として訪れる。レナートにとっては、つらい状況なのではないか。セラフィーナは心配そうにレナートの様子をうかがう。
しかしレナートは、いつものように落ち着いた涼やかな表情をしていた。
「セラフィーナ、君も好きなドレスを仕立てるといい」
その声には、微塵の動揺も感じられない。それなのに、セラフィーナの心は落ち着かなかった。
(……どうして、こんなにも胸がざわつくの?)
自分の心の奥底で波立つ、説明のつかない感情に、セラフィーナは戸惑いを覚えていた。
◇ ◇ ◇
アンドリューズ王子夫妻を招く準備は日を追うごとに本格化し、王宮は騒がしくなったようだ。普段は静謐な空気が満ちていた回廊にも、慌ただしく行き交う廷臣たちの足音が響き渡り、あちこちで指示の声が交錯しているという。レナートもまた、その多忙の渦に巻き込まれているようだった。連日帰宅が深夜に及んだ。
そのため、セラフィーナはレナートとゆっくり話す時間を持つことができなかった。彼の心境をたずねることもできず、ただ夜会の日が刻一刻と近づいていく。
「お嬢様、どうなされたのですか」
ミリアムの声に、セラフィーナははっと我に返った。目の前のカップには、もう冷めてしまった紅茶が残ったままだ。ミリアムは心配そうに見つめている。随分長い間、ぼうっとしていたようだ。セラフィーナはため息をついた。
「……マリーアンヌ王子妃殿下と会って、レナート様はまた傷ついてしまわないかと思って」
ミリアムは少し考え、それからしっかりとしたまなざしで答える。ミリアムの瞳は、セラフィーナへの揺るぎない信頼に満ちていた。
「心配ないと思います。お嬢様が隣にいらっしゃるのですから」
ミリアムはそう言ってくれたが、セラフィーナは視線を落とし、小さくつぶやいた。
「……世間からすれば、わたくしは最近まで領地から出てこなかった訳ありよ」
自嘲めいた響きに、ミリアムは首を振ってきっぱりと答えた。
「お嬢様は素晴らしい方です。自信をお持ちください」
「……ありがとう」
少しほほえみながらもセラフィーナは、ためらいがちに小さな声で打ち明けた。
「レナート様に、好きだと言われたの」
ミリアムの瞳がわずかに見開かれる。セラフィーナは頬を赤らめた。
「家族として穏やかな生活ができればそれでいいと思っていたのに、わたくし――」
セラフィーナは、ミリアムにすがるようなまなざしを向け、正直な胸のうちを吐露した。
「……お兄様に感じるような――家族としての気持ちと、今は違うの。レナート様が心からわたくしを想ってくださるのが伝わってきて……嬉しいの。苦しいくらいに」
ミリアムはセラフィーナのすぐ隣で、膝をついて目線を合わせた。
「小公爵様はお嬢様の婚約者です。お二人の間に特別な感情が育つのは、とても自然なことです。どうか今のお気持ちを、大切にされてください」
あのつらい日々も、ずっとそばにいてくれたミリアム。セラフィーナにとって、家族と同じように大切な存在だ。そのミリアムが背中を押してくれている。
「……わたくし、これでいいのかしら。大丈夫だと思う?」
「ええ、大丈夫です。何も心配はございません」
ミリアムは力強く肯定してくれた。あたたかい励ましが、セラフィーナを勇気づける。
「……分かったわ。ありがとう、ミリアム」
セラフィーナの答えにうなずいてから、ミリアムは得意げな顔で言った。
「お嬢様の素晴らしさを知って、小公爵様がお嬢様を好きになられるのは、私からすれば当然のことです。むしろ、お伝えになるのが少し遅いくらいだと思います」
「ミリアムったら」
ふふ、とセラフィーナは笑った。その笑みには、どこか吹っ切れたような明るさがあった。
◇ ◇ ◇
そして、夜会当日。ミリアムを筆頭にした侍女たちが、セラフィーナの身支度を整えた。淡い水色のシルクのドレスが優雅に広がり、その生地に施されたエメラルド色の刺繍が繊細な美しさを添える。胸元には、レナートが贈ってくれたネックレスがきらめいていた。髪と化粧は丁寧に整えられ、鏡に映る自分の姿は、まるで別人かと思うほどに華やかだった。
「ありがとう、みんな。とてもきれいにしてくれて」
セラフィーナが侍女たち見渡すと、ミリアムが自信と誇りに満ちた口調で言った。
「お嬢様は、会場内の誰よりもお美しいでしょう」
「……いくらなんでも言い過ぎよ」
セラフィーナは苦笑したが、その言葉は心の奥に小さな自信を与えてくれた。
玄関ホールへ降りると、すでにレナートが待っていた。彼の姿を目にした瞬間、セラフィーナの心臓が小さく跳ねた。正装に身を包み、端正な立ち姿の彼は、息をのむほどの気品と魅力を漂わせている。
セラフィーナの姿を目にしたとき、レナートの瞳がわずかに揺らぎ、そして、普段は引き締められた口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「きれいだ」
その声には、普段の理性的な響きとは異なる、情熱的な温度があった。彼の言葉が、彼のまなざしが、すべてを優しく包み込み、セラフィーナの鼓動が早くなる。
その時、公爵夫妻と、王立学校の寄宿舎から戻っていたシルヴィオが姿を現した。シルヴィオはセラフィーナの姿を見るなり、目を輝かせる。
「セラフィーナ様、今夜は一段とお美しいですね。どうか僕に、エスコートをさせてください」
セラフィーナの前に立ち、芝居がかった仕草であいさつをしたシルヴィオに、レナートが氷のような視線を向ける。
「シルヴィオ」
レナートの低い声に、シルヴィオはわざとらしく肩をすくめた。その表情には、兄をからかうような、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「怖いなあ、兄上」
セラフィーナは、思わず笑みをこぼす。その笑顔につられるようにレナートもほほえみ、優しく手を差し出す。セラフィーナはそっと、その手に自分の手を重ねた。
「レナート様に恥をかかせぬよう、精一杯務めます」
セラフィーナがそう言うと、レナートは小さく首を振る。
「きみは私の誇りだ。何も心配いらない」
その言葉は、セラフィーナにとって何よりも心強いものだった。彼女の胸に残っていた不安の影は、レナートの揺るぎない言葉によって薄れていく。
「二人とも、本当によく似合っているわ」
公爵夫人の優しい声が響く。寡黙で威厳のあるサハロフ公爵もまた、二人の姿に満足そうに小さくうなずくのが見えた。
セラフィーナは、この家族の一員になれることが、心から嬉しかった。




