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19 ご存じだったのですか?

 空はどこまでも高く、澄んだ青が広がる。グランヴェール王国を吹き抜ける風は、夏の熱をすっかり手放し、秋の気配を運んできていた。柔らかくなった陽光の下、木々の葉は鮮やかな黄色や赤へ変化を始めている。


 エドワードを乗せた船が水平線の彼方へ消えてから、セラフィーナの生活は再び平穏を取り戻していた。

 最近、セラフィーナとレナートがともに過ごす時間は、以前よりもずっと長くなっていた。朝食だけでなく、夕食もともにすることが常となっていたのだ。広いダイニングルームに響くのは、カトラリーの軽やかな音と、途切れのない穏やかな会話。時にはサハロフ公爵夫妻と同席し、まるで本当の家族のような時間が流れていた。


(――わたくしたちは、きっと良いタイミングで出会えたのだわ)


 もしお互いが傷ついた直後であれば、歩み寄ることはできなかっただろう。相手に何かをしたいとは思えなかっただろうし、またそれを受け入れることもできなかっただろう。

 互いに、必要な時間が経過していた。それはある意味では運命だったとすら思う。


 そんなことを考えるようになった、ある日の晩。

 就寝前、あたたかいラベンダーティーを一緒に飲んでいる時、ティーカップをソーサーに戻したレナートがふいに口を開いた。


「セラフィーナ、何か必要なものは?」


 いつもの落ち着いた響きの声に、微かな気遣いの色が混じっているように感じられた。セラフィーナもティーカップから手を離しながら、少し考えてみた。


「そうですね……。温室があったら良いと思います」


 最近は、公爵夫人から屋敷の管理に関する意見を求められることが多くなっていた。だから、レナートの質問も、当然のように屋敷のことだと考えたのだ。


「少し前に取り寄せた鉢植えが、寒さには弱いようです。これから寒くなっていきますし、冬がくる前に温室に入れた方が良いと思うんです。日当たりの良い場所に、ガラス張りの温室があったらすてきですよね」


 そこまで言ってセラフィーナは、レナートが何か言いたげな表情を浮かべているのに気がついた。


「……どうしました?」


 セラフィーナが尋ねると、レナートは少し困ったような表情で答えた。


「いや、必要なものというのは、きみ自身にとっての、という意味だ。屋敷にではなく」


 セラフィーナは瞬きを数回繰り返した。レナートの言葉が、すぐには理解できなかったのだ。セラフィーナは首をかしげた。


「もちろん、わたくしにとっても温室は必要ですよ?」


 あっさりとそう答えると、レナートはわずかに表情を曇らせた。それは不満というよりも、予想外の返答に困惑しているといった様子だった。


「……そうではなくて。ドレスや宝石、そういうもので何か、個人的に必要なものはないのか?」

「特にありません」

「…………」


 きっぱりと言い切ったセラフィーナに、レナートは完全に沈黙した。まるで贈り物を断られた子どものように、途方に暮れている。

 不思議に思ってセラフィーナが再度小首をかしげると、やがてレナートは観念したように、小さな息をついた。


「きみの誕生日に贈りたい」

「…………」


 たっぷりと沈黙が流れた。

 しばらくの後、ようやくセラフィーナは息をのむような小さな声で問い返す。


「……わたくしの誕生日を、ご存じだったのですか?」


 思わずまじまじとレナートの顔を見つめてしまう。レナートは気まずそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。


「ロランに聞いた。今年は、この家で祝いたいと思っている」

「本当ですか?」


 その言葉に、セラフィーナは見る間に顔を輝かせた。


「嬉しい! 今から楽しみです」


 弾むようなセラフィーナの声に、レナートはなぜか戸惑ったように視線をそらした。彼の耳元が、ほんのわずかに赤くなっているように見えた。レナートはソファから立ちあがる。


「設計士を呼んでおく。きみの希望を伝えておいてくれ」

「設計士? 温室を建設しても良いのですか?」

「ああ。きみに任せる」

「でも、誕生日の贈り物にしては、高価すぎます。わたくし、そのようなつもりで言ったのでは――」

「構わない。それくらいの予算はある。他に欲しいものがないのなら、それで」


 言いながらレナートは、セラフィーナに背中を向けてしまう。

 セラフィーナが礼を言う間もなく、彼は部屋を出ていってしまった。


 残されたセラフィーナは少し呆然として、ややして静かに笑みをこぼした。彼の不器用な優しさが、胸の奥をじんわりとあたためていく。

 部屋には、残り少ないラベンダーティーの香りが、優しく漂っていた。



 ◇ ◇ ◇



 それから、サハロフ邸では温室の建設準備と、セラフィーナの誕生日を祝う晩餐会の準備が同時に進められた。


 誕生日を数日後に控えた午後、レナートはセラフィーナを呼び、美しい装飾が施された宝飾箱を差し出した。


「これをきみに」

「わたくしに?」

「事前に渡しておきたかった。開けてみてくれないか」


 セラフィーナは、ゆっくりと宝飾箱を開ける。ベルベットのクッションの上に、きらびやかなネックレスが置かれていた。

 それは、いくつもの雨の雫がさらさらと落ちるような造形をしたネックレスで、ダイヤモンドが数多くちりばめられていた。中央には透明度の高い美しいエメラルドが連なってある。セラフィーナの瞳と、同じ色だ。


「きれい……」


 セラフィーナは息をのんだ。レナートは穏やかな声で言う。


「誕生日の贈り物に」


 その言葉に、ネックレスに視線を奪われていたセラフィーナは驚いて顔を上げる。


「でも、温室を作っていただいているのに――」


 セラフィーナが見ていると、レナートは少し照れたように視線を逸らした。


「構わない。温室は温室で、必要なものだろう」

「レナート様……ありがとうございます」


 心から感謝しながらそう言うと、レナートはもう一度セラフィーナに視線を合わせた。そして、今度は控えめな声色で言った。


「今年のきみの誕生日には、これを着けてくれるだろうか」


 その言葉に、セラフィーナはぱっと明るい笑みを見せた。


「はい、もちろんです。今、準備しているドレスにもきっとよく合います」


 そうするとレナートは、正直に白状した。


「きみがラトゥリ侯爵夫人と新しいドレスを選んでいると言っていたから、ロランに調べてもらった。ドレスの色やデザインを」

「まあ。レナート様は、お兄様とすっかり仲良くなりましたね」


 くすりと笑ってから、セラフィーナの顔には、自然と笑みがあふれ出していた。

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