16 二度と触れさせはしない
翌日の午後、サハロフ邸に一通の書状が届けられた。差出人は、セイモア伯爵が後援している新興の商人、ニール・ライルズ。
サハロフ公爵の呼びかけで、サハロフ邸で緊急の会議が開かれた。
父の前にはレナート、そしてラトゥリ侯爵とロランが顔をそろえ、会議室は緊張感に包まれていた。
全員が席に着くと、父の補佐官がラトゥリ侯爵の前に書状を置いた。父が口を開く。
「ニール・ライルズ。あるいはエドワード・ノーウッドからだ。この書状には、セイモア伯爵がバルトン公国との間で交わした密約の一部が同封されていた」
レナートは既に内容を把握していた。ラトゥリ侯爵とロランが、厳しい顔で書状を確認している。
「自分の命の保証と引き換えに、全ての証拠を差し出す、ということらしい」
父の言葉に、ロランが顔を上げて憤りをあらわにした。
「しかしながら公爵閣下、この男の言葉など到底信用できません」
ラトゥリ侯爵は何も言わなかったが、表情からはロランと同じ気持ちであると読み取れた。彼らにとって、エドワードはセラフィーナに深い傷を負わせた、許しがたい存在だろう。
レナートの脳裏に、仮面舞踏会でのエドワードの姿がよぎった。
『また、改めてお目にかかります。サハロフ小公爵様』
あの時、既に計画していたということか。エドワードがセラフィーナに接触した目的は、サハロフ家に取引を持ちかけることだったのだろうか。
(セラフィーナを傷つけた男だ。許すことなどできない)
レナート自身も、心の底からそう考えていた。抑えきれない怒りがにじむ。
「今回送られてきたものだ」
父の言葉を受けて、補佐官が書類を数枚、ラトゥリ侯爵とロランの前に置いた。
「セイモア伯爵とバルトン公国の間で交わされた、カルドナ辺境伯領併合に関する秘密協定の一部だ。そして、伯爵が王国の周辺貴族たちを扇動するために作成した書状の一部も含まれている」
「これは……」
ラトゥリ侯爵の声には、驚きと、深い憤りが混じっていた。危機感が色濃く浮かぶ。父は淡々と続ける。
「セイモア伯爵が、かねてよりカルドナ辺境伯領を狙っていたことは調べがついていた。我々が追っていた情報と完全に一致する。いや、それ以上の詳細な情報が記されている」
「養父が高齢となり、隙があるとでも思ったのでしょうか。愚かな。いや――」
ラトゥリ侯爵はそこまで言って、耐えがたいように唇を強く噛んだ。
「セラフィーナの件があります。一度は潜入に成功したバルトン公国と組めば、勝機があると考えたのでしょう」
「一部ではなく、完全な証拠がそろえば、伯爵を確実に失脚させることができる」
父の目は冷静だった。そこに迷いは微塵も感じられない。だが父は、ラトゥリ侯爵の判断を待とうとしている。セラフィーナへの配慮に他ならない。
ラトゥリ侯爵は天を仰ぎ、深く息を吐き出した。心の中では、王国への忠心と娘を思う気持ちがせめぎ合っているのだろう。
やがてラトゥリ侯爵は静かに姿勢を正し、重い口を開いた。
「……我々の調査だけでは、解決までに時間を要するでしょう。カルドナ辺境伯領に、ひいては我が国に迫る危機を考えれば、取引に応じるほうが良いと考えます」
「父上!」
「ロラン、黙るんだ」
「しかし、セラフィーナが……」
言いかけて口をつぐみ、ロランはすがるようなまなざしをレナートに向けた。
レナートは小さく唇を噛んで沈黙していた。辺境伯領の未来。王国の危機。そして、セラフィーナ。
エドワードの命を助けることは、セラフィーナの平穏を脅かすことになるのではないか。気づけば、レナートの手は硬く握り締められていた。
やがて、レナートは胸の奥で自身の感情を無理やり押し込めると、父に視線を向けた。
「父上。この件は、セラフィーナにも深く関係しています。彼女の意見を聞くべきではないでしょうか」
父は、レナートの言葉にわずかに眉を上げた。
「お願いします。私に、セラフィーナと話をさせてください」
レナートの真剣なまなざしに、父は少し考えていたが、最終的にはうなずいてくれた。
「しばらく待つ」
レナートは父の理解に感謝し、立ち上がって一礼すると、会議室を後にした。
◇ ◇ ◇
セラフィーナの部屋を訪ねると、彼女は不安げな面持ちでレナートを迎えた。
昨夜のエドワードとの邂逅、そして予定になかったラトゥリ侯爵とロランの訪問。その一連の出来事が、彼女の心からずっと離れなかったのだろう。
レナートはセラフィーナに向き合うと、自身の感情を押し殺し、努めて冷静な声で話し始めた。
「あの男が、取引を申し出てきた」
「……エドワードが、ですか?」
「そうだ。今は別の名前を名乗っている。堂々と、サハロフ家に書状を寄越した」
「取引、とは……」
セラフィーナの顔に、戸惑いが浮かんでいる。
「セイモア伯爵とバルトン公国の密約の証拠を提出することを条件に、自分の命の保証を求めてきた」
「命の保証? 死を偽装してまで逃げていたのに、今さらどうして……」
彼女の疑問は当然だった。完璧に身を隠せていたはずなのに、なぜあえて接触してきたのか。その真意は全く読めなかった。
「理由は分からない。だがあの男が、これから先も生きているということは、きみにとってつらいことだということは分かる。それでも、今はセイモア伯爵を失脚させることのほうが先だ、と思う」
レナートは苦渋の思いで、目を閉じてセラフィーナに頭を下げた。心の中では、セラフィーナへの罪悪感と、王国を守るという使命感とが、複雑に絡み合っていた。
「本当に、すまない」
「レナート様、顔を上げてください」
慌てたようなセラフィーナの声に、ゆっくりと視線を上げると、彼女は小さくほほえんでくれた。
「わたくしは大丈夫です。守ってくれる家族がいるのですから。ですのでどうぞ、冷静なご判断をお願いします」
「セラフィーナ……」
彼女の健気な強さが、レナートの胸に深く響く。レナートは、迷いを断ち切るように彼女の手を取り、しっかりと握りしめながら誓った。
「信じてほしい。きみのことは必ず守る。あの男に、二度と触れさせはしない」
「レナート様……」
セラフィーナはレナートの手を握り返し、柔らかくほほえんだ。そして、まっすぐにレナートを見つめながら、しっかりとうなずいた。
◇ ◇ ◇
レナートはセラフィーナを伴って、会議室に戻った。重い空気が、セラフィーナの落ち着いた表情によって少しだけ和らいだように感じられる。
レナートとセラフィーナは、隣り合って立っていた。互いを支え合うように。
心配そうにセラフィーナを見つめるラトゥリ侯爵とロランに、彼女は大丈夫だと告げるように、小さな笑みを向けた。
そしてセラフィーナは、前を向いてしっかりとした口調で言った。
「お話はレナート様から伺いました。ご心配をおかけいたしましたが、わたくしは大丈夫です」
彼女の発言の後に、レナートは父を見つめてはっきりと告げた。
「取引に応じ、命の保証をすることには同意します。ですが、条件を付してください」
「内容は」
「生涯にわたりグランヴェール王国への入国を禁じる。万が一、王国の地で姿が確認された場合は、理由の如何を問わず即刻処分する」
レナートの目に宿る、揺るぎない決意を感じたのだろうか。父はうなずいた。
「いいだろう。あとの対応はお前に任せる」
「はい」
「侯爵、異論は?」
「ございません」
「では書状にある場所へ使いを出せ」
補佐官が動き出したのを見て、セラフィーナが少し緊張したのが伝わった。レナートは彼女を安心させるように、そっと手を握った。セラフィーナを守ると誓ったその決意を、改めて心に強く刻み込みながら。




