15 きみが眠るまでそばにいる
暗闇と静寂の中、セラフィーナはゆっくりと意識を取り戻した。全身を包み込むのは、泥沼に沈んだかのような、重い倦怠感。頭の奥では、鈍く重い痛みが断続的に響き、思考を曇らせていた。まるで夢と現実の境界線をさまよっているようだ。
やがて、重たく感じていたまぶたがようやく動き、ゆっくりと開かれた。視界の中に、ぼんやりと柔らかな光が差し込んでくる。最初はただの光の塊にしか思えなかったが、次第に輪郭がはっきりしてきて、それが見慣れた天井の装飾であることに気がついた。
(ここは――)
サハロフ家で用意された、セラフィーナの部屋だった。豪奢ながらも落ち着いた内装も、体を包むリネンの感触も、微かなラベンダーの香りも、確かに記憶の中のものと同じだった。
そこは静寂に包まれていて、耳に届くのは自分の浅い呼吸の音だけだ。
「……セラフィーナ?」
低く、けれど確かな声が、すぐ傍から響いた。ゆるゆると視線を向けると、そこにはレナートがいた。
ベッドサイドの椅子に腰かけ、心配そうにセラフィーナの顔を見つめている。レナートの表情からは深い安堵と、かすかな緊張が入り混じった複雑な感情が読み取れた。
「レナート様……」
乾いた喉から、かすれた声が漏れた。セラフィーナはゆっくりと上体を起こした。口の中がひどく乾いている。
レナートは素早く、ベッドサイドのテーブルに置かれた水差しからグラスに水を注ぎ、セラフィーナの口元へと差し出した。冷たい水が喉を通り過ぎるたびに、セラフィーナの意識が少しずつ鮮明になっていく。
「……ありがとうございます」
「大丈夫か?」
その問いかけに、舞踏会での記憶が一気にセラフィーナに押し寄せた。きらびやかな光、楽団の奏でる優雅な音楽、人々のざわめき。そして――。
エドワードの姿を思い出した途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。夢ではない。あの人は、確かにそこにいた。
「大丈夫です」
セラフィーナは記憶を振り切るように顔を上げると、レナートに小さな笑みを見せた。
「ごめんなさい。連れて帰ってくださったのですね」
セラフィーナの瞳をじっと見つめたまま、レナートは静かにうなずいた。
「もう心配ない。ここは安全だから、安心していい」
レナートは、セラフィーナから水を飲み終えたグラスを受け取る。
セラフィーナはレナートがグラスをサイドテーブルに戻すのを黙って見た後、ややして口を開いた。
「……エドワードのことは、何か分かりましたか?」
名前を口にする際、声が震えてしまわないように、セラフィーナは両手をきゅっと握り合わせていた。
レナートは一瞬だけ目を伏せ、すぐに冷静な声で答えた。
「確認した限りでは、あの男は現在、セイモア伯爵の後援を得て、商人としてグランヴェールに入国していた。舞踏会に同行したのもセイモア伯爵だ。あの男は身分を変えていて、あの場で捕らえるだけの証拠がそろっていなかった。すでにセイモア伯爵と王宮を離れた。追跡はさせているが、今はそれ以上動けない」
淡々とした説明の中に、微かに怒りの気配がにじんでいた。氷のように冷たいまなざしの奥で、あの時に見せた憤りの炎がまだくすぶっている。
「そうですか……。わたくしが、気を失わなければ――」
自らの脆弱さを恥じ、セラフィーナは視線を落とした。あの舞踏会場で、エドワードの姿を見た瞬間の動揺と、彼に手を引かれて踊った時の心臓のきしむ感覚が、鮮明によみがえる。あの時、冷静さを保つことができていれば、事態は変わっていたかもしれない。そんな後悔が、胸の中で渦巻いた。
「きみが気にすることではない。誰だって動揺する」
そう言ってからレナートは、どこか戸惑いがちに言葉を継いだ。普段の彼の冷静な声とはかけ離れた、力のない声だった。
「……あの男のことを、まだ想っているのか?」
セラフィーナは目を見開いた。その視線をレナートに向けると、首を横に振る。
「いいえ。生きていたとして、もう過去のことです」
そこにははっきりとした意志があった。
レナートはしばらくセラフィーナを見つめていたが、ふっと息を吐くように小さくうなずいた。
「……それなら、良かった」
その言葉は、セラフィーナの胸にそっと染み込んでいった。それは、彼の本心から出た言葉のように思えた。
ふと、レナートの顔に疲労の色が浮かんでいるように見え、セラフィーナは申し訳ない気持ちになった。気を失った自分を連れ帰り、その後の状況整理で休む間もなかったのだろう。
「レナート様、わたくしはもう大丈夫ですから、お部屋でお休みください。レナート様のお体に障ります」
セラフィーナの言葉に、レナートは眉をひそめた。
どうやら反論しようとしている様子だったが、それに先回りして、セラフィーナはほほえんだ。
「お部屋で休んでくださらないと、わたくしも心配で眠れません」
セラフィーナがわざとそう言うと、レナートは少しだけ目を見開いた。そして、肩から力を抜くように深く息をついた。彼の眉間の皺が少しだけ緩み、表情にわずかな柔らかさが戻る。
「眠れそうなのか?」
「はい。ミリアムを呼んで、着替えを済ませます」
「分かった。では私も一度、部屋に戻る」
立ち上がるレナートの姿を見ながら、セラフィーナは忘れずに言った。
「目が覚めて、レナート様がそばにいてくださったから、ほっとしました」
その言葉に、レナートは動きを止め、再びセラフィーナを見つめた。その視線には、言葉にはできない何かが込められていた。
しばしの沈黙の後、レナートは静かに口を開いた。
「きみが着替えを済ませた頃に、また来る」
「え?」
「きみが眠るまでそばにいる」
「でも、それでは、レナート様が――」
「きみが眠ったら、私も休む」
レナートはセラフィーナに否と言わせなかったが、その表情は優しかった。
最後にレナートはそっとほほえんで、部屋を出て行ってしまった。彼の姿がドアの向こうに消えていくまで、セラフィーナはただその背中を見つめていた。
ドアが静かに閉じる音とともに、再び部屋に静寂が戻る。しかし、それは先程までの緊張をはらんだ静けさとは異なり、どこかぬくもりを帯びていた。
セラフィーナはもう一度ベッドに横たわり、王宮でレナートが言った言葉を反芻する。
『大丈夫だ。きみのことは、私が守る』
動揺したセラフィーナに、誓いのように告げられた言葉。セラフィーナは両手を胸の上でそっと重ねた。目を閉じ、静かに息を吸い込んでつぶやく。
「――大丈夫。わたくしは、一人じゃない」
その後、レナートは本当に、再びセラフィーナの部屋を訪れた。ベッドの傍で、彼は黙って椅子に腰かける。
まどろみの中で、セラフィーナは彼の手が自分の手をそっと握ってくれたのを感じた。そのぬくもりに包まれて、セラフィーナは深く安らかな眠りへと落ちていった。




