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14 ごめんなさい

 王都へ戻る数日前。カルドナ辺境伯である祖父に呼び出された時、セラフィーナはすぐに異変を察した。祖父の傍にはウォレスが、セラフィーナの傍には祖母が付き添ってくれている。セラフィーナを除く全員の表情が、硬く強張っていた。


「セラフィーナ。お前も、真実を知っておく必要があるだろう」

「おじい様……どうなされたのですか?」


 祖父は、苦渋に満ちた表情で深く息をついた。


「あの、エドワードという男――あれはバルトン公国の諜報員だった」

「…………」


(……何? 今、何て言ったの?)


 言葉を発することができないセラフィーナに、執務机の向こうで祖父は、手にあった報告書を静かに差し出した。セラフィーナは震える指先で報告書を受け取ると、視線を落とした。そこに記された文字が、彼女の心を突き刺す。


 痛ましい目をしている祖父に代わり、ウォレスが落ち着いた声で伝えた。


「調査の結果、あの男はバルトン公国の諜報員であり、辺境伯領の情報を意図的に収集していたことが分かりました。ファーンワース博士の紹介状も非常に精緻な偽造であると確認できました。博士は研究で各所を転々としており、確認までに時間を要しました。あの男は、それも見越して偽造したのでしょう」


 セラフィーナの頭の中が真っ白になった。世界から色が消えてゆく。全身の血が引いて、指先がひどく冷たくなっていく。


「…………」


 言葉が出ない。あの笑顔も、あの優しい言葉も、全て計算のうちだった? しかし、いくら記憶をたどっても、あの穏やかな笑顔と声の響きが、偽りだということが信じられなかった。


 だが手元の報告書は、否応なく現実を突きつけてくる。そこに記された文字は、真実を裏付ける冷酷な証拠の羅列だった。潜入経路、偽造された身分証の詳細、複数の偽名、そしてセラフィーナから聞き出した情報のリスト。


 文字が、揺れて見えた。胸の奥で何かがきしんで、世界の輪郭がゆがんでいく。


「……わたくし」


 喉が塞がれたように、言葉がうまく形にならなかった。あの柔らかい声が耳元で響く。


『セラフィーナ様のお話は、どれも心に響くものばかりです。よければセラフィーナ様がご存じのことを、もっと聞かせてください』


 自分が語った何気ない言葉の数々。領地の人々の暮らし、季節の収穫、街道の整備状況、交易の話――その全てが、辺境伯領を危険にさらす材料になった。それを自分が、笑顔で話してしまった。


「わたくしが、全部……」


 足元が崩れていく感覚に襲われた。報告書が手から滑り落ちる。体が重くなり、膝から崩れ落ちそうになった瞬間、祖母が慌ててセラフィーナの肩を支えてくれた。その手のぬくもりすら遠く感じる。祖母の優しさが、かえって自分の罪悪感を際立たせるようだった。


 疑うことなんて、考えもしなかった。けれど今になって思えば、ミリアムもウォレスも、どこかずっと心配そうにしていた。彼らの視線は、常にエドワードに向けられていた。警戒していることを示していたのに、セラフィーナは気づこうとしなかった。その事実が、何よりもセラフィーナを打ちのめした。

 起きてしまった現実は残酷で、覆らない。セラフィーナは、利用されたのだ。


「諜報員の処分は、既に完了いたしました」


 ウォレスの声に、セラフィーナははっとして顔をあげた。


「処分――」


 セラフィーナが声を震わせると、ウォレスは一度目を伏せたが、それから再び毅然とした表情で報告を続けた。


「騎士団の到着とほぼ同時に逃亡を図り、国境に近い渓谷で矢に射られ、崖下へと転落しました。一昼夜にわたり捜索を行い、翌日、谷底で損傷の激しい遺体を発見しました。渓谷に棲む獣に襲われた形跡がありましたが、着衣や体格などの特徴が一致したため、本人と断定されました」


 セラフィーナは、浅い呼吸を繰り返していた。理解が追いつかない。ウォレスが何を言っているのか、頭が理解することを拒否しているようだった。それでも分かる。これは自分が知らなければならない事実だ。


(――エドワードが、死んだ)


 ほんの数日前、言葉を交わした。王都でまた会おうと約束した。それが全て嘘で、さらにはもうこの世にいない?

 裏切りへの怒りよりも、説明のつかない虚無感がセラフィーナを襲った。彼の死は、裏切りという事実をさらに決定的なものとし、セラフィーナの心を打ち砕いた。


 それでも、セラフィーナはかろうじて声を上げた。震える声とともに、堪えきれない涙が、堰を切ったようにこぼれ落ちた。


「……おじい様、おばあ様、ごめんなさい」

「セラフィーナ!」


 祖母が悲痛な声をあげ、セラフィーナをきつく抱きしめた。祖母は泣きそうな顔して、祖父に非難のまなざしを向ける。


「あなた、もう十分でしょう。セラフィーナをこんなに追い詰めて」


 祖母の抗議の声に、祖父は苦しげに答えた。


「……すまない。だが知らせる必要があった。セラフィーナ、我々には領民を守る責任がある。そしてお前もまた、その責任を負うべき一人だ。カルドナ家と、ラトゥリ家の血を受け継ぐものとして」

「ごめんなさい。ごめんなさい――」


 泣くべきではないだろう。けれど、胸の奥からせり上がる熱いものが、どうしても止められない。いつのまにか目元を押さえた手のひらが涙で濡れていく。堪えても堪えても涙を止めることができなかった。エドワードへの感情、自分自身の不甲斐なさ、信頼を裏切られた痛み、そして辺境伯領に危機をもたらしたかもしれないという後悔の涙だった。


「セラフィーナ様、本当に申し訳ありません。私が、お守りすべきでしたのに――」


 いつも冷静なウォレスが、沈痛な声をあげた。セラフィーナは顔を上げずに、かすかに首を横に振った。


「セラフィーナ、すぐに王都へ戻りなさい。あちらには連絡を送っている」


 祖父の声は、悲しみに満ちていた。祖父も祖母も、王立学校の休暇の間、セラフィーナが辺境伯領に滞在するのを毎年楽しみにしていた。セラフィーナもそうだ。優しい祖父母と、この美しい辺境伯領を愛していた。ここで過ごす時間は、セラフィーナにとってかけがえのないものだった。


(もう、ここに来ることはできない――)


 申し訳なくて、苦しくて、セラフィーナは体を震わせて泣いた。


「セラフィーナ、もういいのよ。自分を責めないで」


 背中をさすりながら言う祖母の声は、心からセラフィーナを心配してくれているのだと伝わる。

 ずっと執務机の向こうにいた祖父も、立ち上がってセラフィーナの傍に来ると、セラフィーナと祖母を一緒に腕に抱いた。


「セラフィーナ、すまなかった。分かってくれるだけでいいんだ。あの男は、仲間に接触する前に処分された。危険は未然に防がれ、我が辺境伯領には何の憂慮もない。お前はもう何も心配しなくていい」


 優しい祖父と祖母のぬくもりに包まれて、しかしセラフィーナの心には、冷たい空洞だけが残った。自分自身への信頼が失われ、大切に思っていたこの場所が、自らの過ちで危機にさらされた。


 それでも心に浮かぶのは、エドワードのほほえみだった。甘く、消えない残像となってセラフィーナを追い詰める。胸を引き裂くような後悔が、セラフィーナの心を蝕んでいく。


 そしてセラフィーナは王都に戻り、まもなくして北のラトゥリ侯爵領へ療養に向かうことになった。辺境伯領での出来事から彼女を遠ざけ、心の傷を癒すための配慮だった。


 セラフィーナはそこで、三年を過ごすことになった。

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