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12 お元気そうで何よりです

 豊穣の祈りを捧げ、盛夏を祝う、グランヴェール王国最大の祭典(カーニヴァル)。その開幕を飾る仮面舞踏会が、王宮最大の舞踏会場で華やかに開催された。


 磨き上げられた大理石の床に、水晶のシャンデリアが幾重にも光を落とし、仮面をまとった人々の影が幻想的に揺らめいていた。楽団が奏でる優雅な旋律と、宝石を散りばめた衣装のきらめきが、夜を非日常へと誘う。そこにいる誰もが現実を忘れ、仮面の裏に本音と秘密を隠しているようだった。


 エメラルドをあしらった仮面を着けたセラフィーナの視線の先には、王族と言葉を交わすレナートの姿があった。レナートは、月を思わせる銀色の仮面を着けている。

 レナートの隣で笑みを絶やさずにいたセラフィーナも、さすがに気を張る王族との会話に、少しだけ息をつきたくなった。セラフィーナは、化粧直しをしたいとレナートに耳打ちをしてから、その場を離れた。


 婦人用の控室に行けば、待機していたミリアムが、髪型と口紅を丁寧に直してくれた。思わずほっと息が漏れる。ほんの数分の休憩だったが、それで十分だった。


 舞踏会場に戻ると、再びきらびやかな光と熱気が彼女を包む。視線でレナートの姿を探した。すぐに見つけることができ、彼の元へ向かおうと人波を縫って歩き出した。


 その時、低く、柔らかな声が背後から響いた。


「お久しぶりですね」

「――え?」


 セラフィーナはゆっくりと振り返った。皆が談笑している人混みの中で、まるで時間から切り離されたかのように、漆黒の仮面を着けた男が静かに立っていた。


 目が合った瞬間、セラフィーナの時が止まった。話し声も音楽も遠のいていく。全身の皮膚が粟立ち、呼吸が止まったような感覚に襲われた。


(そんな、はずが――)


 セラフィーナは、仮面の下で顔色を失っていた。


 男の瞳は、かつて一度も疑うことなく見つめ、信じてしまったあの瞳と、同じ色をしていた。深い海のような濃紺の瞳。木漏れ日のような明るい金色の髪。


「セラフィーナ様、お元気そうで何よりです」

「……エド、ワード?」


 口から漏れたその名は、消え入りそうなほど小さかった。男はほほえんだ。その優しげな口元はまさしく、彼のものだった。


「あなたは、死んだと……聞いて……」


 セラフィーナの声は震えた。信じられない現実が目の前にあり、その事実をどう受け止めればいいのか分からなかった。


「ええ。そういうふうに、しましたから」


 苦笑するように言う声は優しかった。だからこそ、セラフィーナは身震いした。


「どうして……」


 セラフィーナは震える手で胸元を押さえる。彼の気配が、声が、セラフィーナを当時の記憶の中に引きずり込んでいく。

 エドワードは自然な足取りで、セラフィーナに近づいた。


「仮面舞踏会は良いですね。誰が誰かも分かりません。でも、あなたのことはすぐに分かりました」


 セラフィーナが後ずさろうとした瞬間、エドワードの手が素早く伸び、彼女の指先を逃さず絡めとった。


「――!」

「せっかくですし、踊りましょう」


 セラフィーナは即座に首を振った。拒絶の意思を込めて、必死に。けれど、エドワードのまなざしは、拒絶をも飲み込むほどに強かった。彼の瞳には、かつての魅力と、今は危険な輝きが宿っていた。


「再会の記念に」


 楽団の曲が次のワルツへと移り変わる。周囲の人々が一斉に踊り始めた。セラフィーナは、彼の手によって強引に舞踏の中心へと導かれる。人々のざわめきと音楽が、セラフィーナを飲み込んでいく。


(声を、出して。レナート様に――)


 頭ではそう思っているのに、心と体が鎖で縛られたかのように動かない。エドワードのリードは流れるように自然で、まるで何年も共に踊ってきたかのようだった。

 音楽に合わせて一歩ずつ足を進めるたび、セラフィーナの心臓は悲鳴をあげていた。彼の香りが、吐息が、すぐ近くに感じられて、セラフィーナの思考を奪う。


 こわばったセラフィーナを無視して、エドワードは実に楽しそうに言った。


「セラフィーナ様、相変わらず、あなたの瞳は美しいですね。前だって、本当にそう思っていました」


 セラフィーナは目を見開いた。かつての記憶が鮮明によみがえる。


「やめて……」


 セラフィーナは呼吸を乱しながら、必死に言葉を絞り出していた。エドワードのステップが止まることはない。


 やがてワルツが終わり、ようやくエドワードが動きを止めても、セラフィーナの呼吸は整わなかった。まるで激しい嵐に襲われたかのように、心臓が大きく震えている。

 セラフィーナの脚がふらついた。エドワードが咄嗟に支えたが、その腕の中に収まるのが、何よりも苦しかった。


 ――その瞬間。


「手を放せ」


 鋭い声が、空気を裂いた。銀色の仮面がセラフィーナの視界に飛び込んでくる。それはまるで、嵐の海に差し込んだ一筋の光のようだった。


「嫌がっている。離れろ」


 間に入ったレナートの表情は仮面で隠されていたが、いつもは冷たいアイスブルーの瞳が怒りに燃え、エドワードを鋭くにらみつけている。その手は、奪うようにセラフィーナを引き寄せた。


「これは失礼いたしました。――また、改めてお目にかかります。サハロフ小公爵様」


 にこりと笑ってエドワードは、すぐに人波に消えていった。

 セラフィーナの心臓はまだ早鐘のように鳴り続けている。足元がおぼつかず、立っているのがやっとだった。


「セラフィーナ」


 名を呼ばれ、はっと顔を上げる。仮面越しでも分かる。レナートはセラフィーナを心配そうに、まっすぐに見つめている。


「……っ」


 口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。声を出した瞬間、何かが崩れてしまいそうで、セラフィーナは唇を強く噛んだ。感情の波が押し寄せ、涙があふれそうになるのを必死で耐えた。


(だめ。この場所で取り乱しては――)


 その気持ちを察してくれたのだろうか、レナートはセラフィーナを導くように、人のいないバルコニーへと連れて行ってくれた。

 ひっそりとしたバルコニーには、舞踏会場の華やかさとは対照的に、静寂が訪れていた。夜気は熱気を帯び、王都の祭典を彩る灯りが周囲を明るくしている。


「大丈夫か? どうした?」


 レナートの声には、普段の落ち着きが揺らいでいるのが感じられた。セラフィーナは小さく震えながらも、勇気を振り絞って答える。


「……エドワード、でした」

「――!」


 レナートは絶句していた。


「死んだと……そう、聞いていました。でも、生きて――」

「セラフィーナ」


 レナートの声がセラフィーナを呼ぶ。その声には、強い意志が込められていた。


「大丈夫だ。きみのことは、私が守る」


 低く、けれど確かに届く声。彼の言葉は、まるで誓いのようにも聞こえた。

 レナートの言葉が、セラフィーナの心に安堵をもたらし、抑えきれなくなった感情が堰を切ったようにあふれ出す。仮面の下から涙がとめどなくこぼれ落ちた。


 ぷつりと、緊張の糸が切れた。

 

「セラフィーナ!」


 レナートの言葉を最後に、セラフィーナは気を失った。彼の腕の中に倒れ込みながら、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。

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