11 お前にはその責任がある
『昔、好きな人がいました』
セラフィーナのその言葉は、レナートの心の奥底に深く沈んでいった。静かな声からにじみ出る哀しみが、レナートの心を震わせる。その言葉は何度も何度も、レナートの中で反響していた。
翌日、王宮での仕事を終え、レナートはいつになく急いでサハロフ邸に戻った。迷うことなく父の執務室へ向かう。
サハロフ邸の奥深くに位置するその部屋は、いつ訪れても静謐で、張り詰めた空気が漂っていた。重厚な扉をノックすると、中から低い、威厳のある声で入室を促す声が聞こえる。
「父上。今、お時間をいただけますか」
父は机に広げられた分厚い書類の山から顔を上げ、冷徹なアイスブルーの瞳をレナートに向けた。視線が鋭くレナートを射抜く。まるで、その内心までも見透かすように。
「何だ」
「セラフィーナのことです」
表面上は冷静を装いながらも、レナートは口を開いた。
「彼女が領地で療養していた件について、ご存じのことを、教えていただきたいのです」
沈黙。室内の空気が凍りついたようだった。
「――ようやくか」
父の言葉が静まり返った執務室に響き渡った。レナートは、その一言に含まれた、父の期待と批判を痛感した。レナートの問いを、父は待っていたのだ。
父のまなざしは厳しく、揺らがない。冷ややかな声が、セラフィーナの過去を淡々と語り出した。
「セラフィーナ嬢は、過去に一度、深い心の傷を負っている。理由は広くは知られていまい。成績不振や体調不良をきっかけに、学生が精神のバランスを崩すことは、ままあることだ。だが実際には、原因は辺境伯領で起きた事件による」
「……事件?」
「ラトゥリ侯爵夫人の出身であるカルドナ辺境伯領に滞在中、彼女はある男と出会った。エドワードという名の男だ。偽名だが、便宜上そう呼ぶ。その男は、バルトン公国の諜報員だった」
レナートの背筋に、冷たいものが走った。バルトン公国は、グランヴェール王国と長年対立する因縁の隣国だ。そのバルトン公国の諜報員がセラフィーナに、それもカルドナ辺境伯領――国境付近で近づいたという事実に、レナートの思考は加速する。
「男は、まだ年若いセラフィーナ嬢を利用した。彼女の信頼を巧みに得て、辺境伯領の情報を吸い上げていた。無論、彼女が意図的に加担したとは思っていない」
レナートは息をのんだ。セラフィーナが、利用された。彼女の純粋さが、踏みにじられたということだ。そう考えただけで、体が震えるくらいの怒りを覚えた。
そしてその結末を、父は冷静に告げた。
「カルドナ騎士団の働きで、その男は処分された。だが、彼女の傷は深かっただろう。ラトゥリ侯爵領での療養は、それが理由だ。その後、セラフィーナ嬢の回復を確認したラトゥリ侯爵から、この婚姻の申し出があった」
そこで父は一旦息をつき、執務机の上で両手を組んだ。
「これまでラトゥリ家は、政治的な中立を保ち続けてきた。王家と最も近い我がサハロフ家と縁を持つことに、家門の中で反対もあっただろう。だが、ラトゥリ侯爵は娘の安全を最優先にした。サハロフ家は、国内での大きな協力者を得る代わりに、彼女を守る盾となる必要がある。お前にはその責任がある」
父は、すっと目を細めた。
「ラトゥリ家の選択の意味を、お前は考えたことがあったか? いつまでもこの婚姻の意義を考えないようならば、後継者から外そうと思っていた」
その言葉は、レナートの胸を鋭く刺した。父は本気だ。甘えは許されない。それがサハロフ家当主としての、父が己に課してきた責務でもある。そして父は、レナートにもそれを求めている。
「言ったはずだ。この婚姻は、我がサハロフ家とラトゥリ家の関係を決定的なものとすると」
「……私は」
レナートは自らを恥じるように、唇を小さく噛んだ。
「彼女と初めて会った際に……愛することは、できないと告げました」
「何だと」
父の声に、怒りがこもったのが分かった。
「それ以外は希望に沿うようにするから、理解してほしいと」
父は、わずかに眉を動かし、あきれたような息をついた。
「あの様子では、セラフィーナ嬢は不満も言わず、それを受け入れたということか」
「……そうです」
「お前に比べて、はるかに聡明だな」
「……はい」
父の言葉は鋭く、容赦がなかった。だが、それが正論であることを、レナートは痛いほど理解していた。
「なぜ、一義的にしか考えられない」
「…………」
言葉もなかった。レナートは視線を落とす。胸の奥に突き刺さるような悔しさは、自らの浅はかさへの怒りだった。
レナートは、静かにほほえむ母の姿を思い返した。常に控えめで、父に寄り添っている母。その表情には、静かな諦めが浮かんでいるように見えていた。
けれどセラフィーナは言った。表面だけでは、見えていないことがたくさんあると。レナートが勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。母の心に、どれほどの想いがあったのか。見ようとしなかったのは、レナートのほうだ。
「……申し訳ありません」
「謝罪をするべき相手を間違えるな」
レナートの瞳を射抜くように見つめた父の言葉は、厳しく、重かった。
「サハロフ家の後継者として、婚約者として、彼女に常に敬意を払うように」
レナートは視線を上げた。まっすぐに父の瞳を見る。
「はい、必ず」
「分かればいい。話は終わりだ」
レナートはその言葉に深くうなずき、父の部屋から離れた。
謝罪をするべき相手――セラフィーナへのレナート自身の罪悪感と、彼女が負わされた深い傷への怒りが、胸の中で混ざり合った。
(――必ず、彼女を守る)
それは、もはや父の命令でも、義務感でもない。レナートの中に確かに芽生えた、レナート自身の意志だった。
第一章 完




