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10 もう一度立ちあがりたいって思ったんです

 その後、仕事を終えたレナートは、セラフィーナのもとへ向かった。図書室で読書をしていたセラフィーナは、姿を現したレナートを見てほほえんだ。


「お仕事は終わりましたか?」


 レナートは小さくうなずいた。疲労感はあったものの、セラフィーナの明るい笑顔が、その日の重荷をわずかに軽くするのを感じた。


「今日は、まだきみと過ごしていなかった」

「でも、お疲れでしょう? 大丈夫ですか?」

「構わない。さすがに乗馬は無理だが」


 レナートの答えに、セラフィーナはくすりと笑った。


「では、一緒に星を見たいです。今日は空が澄んでいるから、とても良く見えますよ」


 それに応じて、一緒に応接間に向かう。半円形に張り出したバルコニーからは、遮るもののない広大な夜空が望める。天空には無数の星々が瞬き、まるで濃紺のビロードに散りばめられた宝石のようだった。セラフィーナはにこにことレナートを振り仰いだ。


「ほら、今日はとてもきれいです」


 空が澄んでいると、星がこうも輝きを増すものかと、レナートは感心した。満天の星空を眺める機会など、レナートのこれまでの人生で、ほとんどなかったことだ。


 セラフィーナの瞳が星の光を映しているのを見て、なぜかレナートは、胸の奥が締め付けられるような苦しさを感じた。

 ふいに、シルヴィオの言葉を思い出す。


『セラフィーナ様には、ちゃんと優しくしてくださいね。兄上にあんな顔をさせる、貴重な方ですよ』


 弟の助言が、レナートの背中を押した。レナートはセラフィーナと視線を合わせ、真剣なまなざしを向ける。


「ひとつ聞かせてほしい」

「はい?」

「きみが、領地で療養していたということ。良ければ何があったか、聞かせてほしい」


 きょとんとしているセラフィーナに、レナートは一呼吸置いて、正直に述べた。


「これまでは詳しく知ろうともしなかった。きみとの婚約が、サハロフ家にとって利がある話であれば、それで十分だと考えていた」


 レナートはセラフィーナがあきれた表情を浮かべるだろうかと、内心で覚悟した。

 ところが彼女は予想に反して、嬉しそうに声を弾ませたのだ。


「まあ、レナート様。ということは、わたくしに興味を持ってくださったのですね」


 花がほころぶようにセラフィーナが笑えば、逆にレナートは、ますます苦しい気持ちになった。


「……今からでも、教えてもらえるだろうか」


 そう問えば、セラフィーナは笑みを浮かべたまま、バルコニーの手すりにそっと片手を置いて星空を仰いだ。


「三年程前のわたくしは、こうやってバルコニーに出て、星空を見上げることなんてできませんでした。わたくしの部屋の窓は、中から開けられないように、板が打ちつけられていましたから」

「……板が、打ちつけられていた?」


 穏やかでない、むしろ異常な状況を想像してレナートは眉を寄せた。彼女の過去に何があったのか。一気に不穏な影が差し込んだ気がした。

 セラフィーナはレナートに向き直ると、困ったような、自嘲するような笑みを浮かべた。


「でないとわたくしが、身を投げてしまう恐れがあったからです」


 レナートは思わず言葉を失っていた。彼の知る、明るく溌剌としたセラフィーナと、彼女が語った過去のセラフィーナが、どうやっても結びつかなかった。あまりにもかけ離れた二つの姿は、彼の頭の中で混乱を引き起こした。

 

 ややしてセラフィーナは、伏し目がちに話し始めた。その時彼女にそっと暗い影が差すのを、レナートは見逃さなかった。


「昔、好きな人がいました」

「…………」


 レナートは一瞬、胸が痛くなるほどの息苦しさを覚えた。彼女に、特別な誰かがいたという事実。頭を殴られたような衝撃を受けた。


「少しの間一緒に過ごして、結局――」


 セラフィーナは手すりに置いていた手をぎゅっと握った。


「亡くなりました」

「…………」

「……詳しい経緯は、公爵様の耳には入っていると思います」


 セラフィーナの様子を見て、レナートはそれ以上踏み込めなかった。


「分かった。それ以上は、話さなくて大丈夫だ」


 セラフィーナは小さな笑みを見せてうなずくと、先を続けた。


「ただの恋ではありませんでした。わたくしは失態を犯し、そのことが苦しくて、受け止められませんでした。こんなにつらいのに生きていかなければならないことが理解できなくて。きっと、おかしくなっていたのだと思います。ものも食べずに泣いて、まともな生活は送れませんでした。医師の処方してくれた薬をまとめて喉に流し込んだこともありました。いつも目が離せず、家族は気が気ではなかったと思います」


 そこで彼女は、おそらく動揺で揺れているレナートの瞳を、まっすぐに見つめた。


「それでも、家族はわたくしを見捨てませんでした。どんなにひどいわたくしでも、諦めずに寄り添ってくれました。根気強く食事をすすめてくれ、一歩ずつでも部屋から出るように誘ってくれて。二年経てば外に出ることができて、兄に教えられて馬に乗れるようになっていました。落馬もしました。痛くて痛くて、土で汚れてしまって、でも空が青くて。ああ、わたくしは生きていて、こんな風に何かを感じることができているって、気がつきました。それからまた時間をかけて元気になって、両親から婚約の話を聞かされた時には、素直にうなずくことができました」


 セラフィーナは再びほほえんだ。その表情は、夜空の星々が淡い光を零れ落とすかのように、清らかで、そして力強かった。


「何もかも失ったと思いました。でもそうじゃない。わたくしは生きている。だから、もう一度立ちあがりたいって思ったんです」


 かつて彼女のことを、鈍感なのかと考えたことがあった。しかし違っていた。そうではなくて、彼女にあったのは、正面から向き合うと腹を決めた強さだった。彼女は悲しみを、癒えぬ傷の痛みを知っている。


「本当は、誰にも話したくない、嫌な過去です。忘れたいし、消し去りたい。でもそんなことはできません。だから今度こそ間違えないように、前を向いて進むしかありません。だから今は、あの苦しかった時間も、わたくしにとっては必要だったと思えるようになりました。こうしてレナート様とも出会えましたから」


 レナートは思わず顔をしかめ、小さく首を横に振った。


「私は、きみを愛さないと言った男だぞ」


 自責の念に襲われた。胸が痛くて苦しかった。レナートは知らないうちに、拳を握りしめていた。

 ところがセラフィーナは、ふわりと笑って朗らかな口調で答えるのだ。


「家族に見守られながら、いろいろ考えて、ようやく分かったことがあります。わたくしたちはきっと、完璧でないことのほうが多いんです。だからこそ、ありのままに受け止めて、そこから学ぶ必要があると思いました。きっとわたくしたちは、認め合い、補い合い、助け合うことができるはずですから。燃えるような恋愛関係ではなくても、レナート様はわたくしの希望を尊重してくださる。それだけでも十分にわたくしは、嬉しいです」


 それからセラフィーナは自分の上半身に手を当てて、胸を張った。


「わたくしのほうも、今ではすっかり健康で、めったに風邪もひきません。家族、友人、金銭面にも深刻な問題はありません。好き嫌いもないし、乗馬だってなかなかでしょう? いかがですか、レナート様。家族として、良い関係を築いていけそうだとは思いませんか?」


 セラフィーナの笑顔はどこまでもまぶしかった。

 過去の痛みを受け入れて、立ち上がって前を向いて進む。簡単じゃない。だからこそ、彼女は優しいのだろう。


「……私もきみとは、良い関係を築きたい」


 レナートは彼女に向かって、手のひらを差し出した。夜風がバルコニーを吹き抜け、二人の間に漂う空気を、一層澄み切ったものにする。


「話してくれて、ありがとう」


 セラフィーナは嬉しそうに、差し出された手に自分の指先をそっと重ねた。


「夜風が冷たくなってきた。今日はもう、休もう」

「はい、レナート様」


 セラフィーナのあたたかな声に、レナートの口から自然に声がこぼれた。


「セラフィーナ」


 一瞬目を丸くしてセラフィーナが、くすぐったそうにふふっと笑う。


「名前を呼ばれたのは、初めてです」

「……そうだったか?」

「ええ、そうです」

「嫌ではないか?」

「もちろん、嬉しいですよ」


 セラフィーナの笑顔に、レナートの胸が熱を帯びる。あたたかく、それでいてどこか胸を締め付けるような、初めての感情だった。

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