01 きみを愛することはできないと思う
「申し訳ないが」
そう前置きをして、レナート・サハロフは偽ることのできない己の気持ちを告げることにした。
さらりと癖のない漆黒の髪に縁どられた肌は色素が薄く、レナートはしばしば血の通わない人形のようだと噂されていた。その印象を一段と冷ややかにするアイスブルーの瞳で、目の前の女性をまっすぐに見つめる。
「きみを愛することはできないと思う」
「…………」
レナートの言葉を受け、正面に立っていたセラフィーナ・ラトゥリは、大きなエメラルドグリーンの瞳を大きく瞬きさせた。
驚いた様子でレナートを見上げる彼女こそ、王都にあるサハロフ邸で紹介されたばかりのレナートの婚約者だった。互いの家族の前で正式な顔合わせを済ませ、その後、初めて二人きりになったところだ。
レナートはあえて、淡々と言葉を続けた。
「それ以外のことは、何でもきみの希望に沿うよう努力する」
セラフィーナは沈黙していた。いや、言葉を失っているのだろう。
彼女のその様子を、当然の反応だとレナートは受け止めた。自分でも非情なことを言っている自覚はあった。けれどレナートには、できもしないことをできると言うことはできなかった。
(……泣かせてしまうだろうか。それとも、怒らせてしまうだろうか)
レナートはそう思いながらも、無表情を崩さなかった。
二人は、このグランヴェール王国で爵位を授けられた貴族の家に生まれた。公爵家の嫡男であるレナートは二十二歳。侯爵家の二女であるセラフィーナは二十歳。この婚約は両家にとっての大切な契約だ。破談は、父が許さないだろう。レナートとしては、彼女に頼むしかない。
「どうか、理解してもらえないだろうか」
しばしの沈黙ののち、じっとレナートを見つめていたセラフィーナが、ようやく口を開いた。
「レナート様は、マリーアンヌ王子妃殿下のことが忘れられないのですね」
その瞬間、レナートの人形のような輪郭がこわばった。
セラフィーナの言葉は、見事にレナートの急所を突き刺していた。心の奥底に沈めたはずの、苦い思いがよみがえる。
グランヴェール王国の王族貴族の子女たちは、王立学校を十八歳で卒業した後、本格的に社交界に出るのが通例だ。そして多くは、家の意向で婚約者が決められる。彼らは、それを当たり前と受け入れるよう教育されている。
五年前、レナートの婚約者候補であった女性。それがマリーアンヌだった。
レナートは、マリーアンヌと共に未来を歩むのだろうと考えていた。だが、彼女は違う道を選んだ。マリーアンヌは、隣国レイルローズ王国の第二王子妃となった。
『さようなら、レナート様』
マリーアンヌにそう告げられ、レナートは、もう誰かを愛することなどしないと、心に誓ったのだ。
「……それを、誰から?」
「婚約が決まった時に、兄から聞かされました。兄はレナート様と同学年ですので。わたくしを心配してのことでしょう」
「そうか……」
レナートは小さくため息をついた。
特に親しい間柄ではなかったが、セラフィーナの兄ロラン・ラトゥリは、確かにレナート、そしてマリーアンヌと同学年で、王立学校に在籍していた。
でなくとも、婚約者となるのだから、ラトゥリ家はレナートのことを調べ尽くしていただろう。
傷の痛みに耐えるように、レナートが沈黙していると、セラフィーナはにっこりとほほえんだ。
「分かりました。レナート様のお気持ちは、理解しておきます」
セラフィーナは、驚くほど澄んだ瞳をしていた。そこには嫉妬も責める色もない。ただ、相手を理解しようとする優しさだけがあった。
「わたくしの事情については、レナート様はお聞きになっていますか?」
恐れるでもなく、隠すでもなく、セラフィーナは真正面から問いかけてきた。
セラフィーナの事情――王立学校を卒業する直前で心を病み、それから数年間、ラトゥリ家の領地から出られなかったと聞いている。本来なら社交界に出るべき時期にも、その姿は見られなかったという。
そのため、ラトゥリ侯爵夫人が療養中の娘を支えるために領地で暮らし、ラトゥリ侯爵は領地と王都を往来、嫡男であるロランが王都に留まっていると聞いていた。
この婚約を機に、ラトゥリ侯爵夫妻も王都へ拠点を戻したという。
「少しだけ。数年ほど、領地で療養していたと」
レナートは正直に答えた。それ以上は知らず、また、詳しく調べようとも思わなかった。どのような理由であれ、両親が認めたのなら異を唱えることはない。相手が誰であっても、愛することはできないのだから。そう考えていた。
「わたくしのような事情のある者を受け入れていただいたのですから、全てを望むのは分不相応というものです」
爽やかに言いきったセラフィーナを見て、レナートはわずかに表情を変えた。
セラフィーナは、話から想像される人物像とはまるで違っていた。
濃いハニーブロンドの豊かな髪。みずみずしい肌。エメラルドグリーンの瞳は明るく澄んでいる。整った顔立ちだが、無機質なレナートとは対照的に、生気を宿した健康的な美しさだ。夜会に出れば、きっと人々の視線を集めるだろう。
(これが本当に、長く領地に閉じこもっていた人間の表情なのか……?)
そんな疑問がレナートの胸に浮かんでいた。
「ところで、レナート様。それ以外のことは何でもわたくしの希望に沿うよう努力してくださる、というのは本当ですか?」
セラフィーナは顔を上げ、少しいたずらっぽく笑った。無邪気で、人間味あふれる表情だった。
「ああ、約束する」
「ではふたつ、お願いがあります」
期待に輝く瞳を向けられ、レナートは無表情の奥でわずかな動揺を覚えつつも、落ち着いた声で応じた。
「言ってくれ」
セラフィーナは嬉しそうにほほえんだ。
「ひとつめは、これから、朝食は必ず一緒にとっていただきたいのです」
「朝食を?」
あまりにもささやかな願いに、思わず反復してしまう。
「ええ。たとえ昼も夜も別々になってしまったとしても、せめて一日の始まりくらいは顔を合わせたいのです」
「……もうひとつは?」
レナートが問うと、セラフィーナは穏やかな表情で続けた。
「朝食の時間以外に、一日に一度で構いませんので、わたくしと過ごす時間を作っていただきたいのです。ほんの短い時間でも構いません。もちろん、お仕事でどうしても無理な場合は別ですが」
彼女は婚約者として、これからサハロフ邸で暮らすことになっている。この数年間離れていた王都での暮らしに慣れ、社交界への復帰や結婚の準備を行うためだ。あるいはサハロフ家の伝統や作法を学ぶ意味もあった。
これから共に暮らす相手としては、特別無理のある願いでもない。レナートはうなずいた。
「分かった」
「良かった! ありがとうございます」
セラフィーナは声を弾ませ、まるで春の光のような笑顔を見せた。
「明日からが楽しみです」
エメラルドのような瞳が輝きを増し、その無邪気な喜びが空気の温度を変えていく。
レナートは戸惑いを隠せなかった。
告げたはずだった。愛することはできないと。
なのに彼女は朗らかに笑っている。レナートの胸に、ずきりと痛みが走った。
それでもレナートは動けない。彼はまだ、信じることの痛みに囚われたままだった。