ことかの章 香りのないクラスメイト④
晶は浮足立っていた。今日の午後に琴弧が家を訪ねて来るからだ。
制汗スプレーをかけ、日焼け止めも忘れずに塗り、余所行きの服に着替えた晶は、緊張気味でいつもの駅に向かった。『分かりにくい場所に家があるから迷うかもしれない』と言って、琴弧を駅に迎えに行く約束をしていたのだ。
晶は駅に少し早く着いた。普段から利用している駅なのに、何故か改修工事が終了した直後のように新鮮な景色に見えていた。
電車が定刻通りに着き、少し経ってから改札に向かってきた琴弧を見つけて手を振った。琴弧もすぐに晶に気付いて笑顔で手を振り返した。学校で会う琴弧とは少し違う雰囲気を感じ、今日は特別な日なんだと改めて認識した。
駅の喧騒を背にして歩き始めて十分程、昔ながらの商店街と開発が進んでいる住宅街の狭間に古民家風の建物がひっそりと佇んでいる。一階には店舗と作業場、二階には住居の構造だ。
「なんだか小さな工場みたいだね。たけたつこうしゅあん・・・で合ってる?」
「正解!『香りは魂の言葉となる』竹達香守庵へようこそ!」
晶は琴弧を正面にして言った。
「そのキャッチフレーズは晶くんが考えたの?」
「もちろん!」
「文字に起こすのは不得意って聞いてたけど?」
琴弧は晶を覗き込んでニヤリと微笑みながら言った。
「はい、思い付くまでに一週間を費やしました。」
晶はけろっとした表情で答えた後に一緒に笑った。
「立ち話もなんだから、家の中へどうぞ。」
晶は部室に案内した時と同じ文句で琴弧を自室にエスコートした後、やはりカモミールティーでもてなした。
初めて女子を招き入れた晶は、前日に慌てて片付けと部屋の換気を行ったことを照れくさそうに打ち明けると、琴弧の嬉しそうな表情を見て安堵した。
初めて男子の部屋に訪れた琴弧はやたらとキョロキョロしてどうして良いかわからない様子だったが、カモミールティーを一口含んで晶と談笑すると『久しぶりにこんなに笑った気がする』と学校では見せたことがない笑顔を浮かべた。そんな中、先日に部室での一幕を思い出した琴弧が問いかけた。
「そう言えば、部室で言ってた特別な香草はどこにあるの?実はありません・・・てことはないよね?」
「大丈夫、ちゃんと用意してあるよ。一階の秘密の場所にあるんだ。」
「香りは魂の言葉となる、これはただのキャッチフレーズじゃないんだ。実在する。」
「実在する?」
「魂香草・・・古くから一部の家系や流派に伝えられてきた『霊性をもつ香草』の一群で、香りを楽しむ植物とは異なって人の深層心理や魂に触れる力を持っている香草なんだ。」
晶の表情の変化に、笑いの余韻が残っていた軽やかな空気がひんやりとした緊張にすり替わる。琴弧は反射的に背筋を伸ばした。
「人の深層心理や魂に触れる力・・・?何だか急に現実離れした話で怖くなってきた・・・」
琴弧は先程までの笑顔からは打って変わって不安な表情を浮かべていた。
琴弧にとって晶の自宅に招かれることが既に非日常であった。しかしその延長線上に待っていたものが今まで触れたことのない異質な存在とわかり、直感的に身の危険を感じたのだろう。
「過去に辛いことがあったんでしょ。何があったかはわからない。だけど何かあったことだけはわかる。そしてそれを今も引きずっている。」
晶の言葉に虚を突かれた琴弧は、目を丸くしてぽかんと口を開けたまま、時が止まったかのように固まった。
「同じクラスになった時から気になってた。音無さんからは香りがしない。本来であれば誰しもが心の深層から自然と溢れ出てくるはずの香り、『潜香』が。」
琴弧は聞き馴染みのない単語に混乱していたようではあるが、晶には自分の隠したかった部分を知られていると悟ったかのように俯いた。
「何があったかは聞かない。だけど、潜香が感じられない程に自分を抑え込むのは容易ではない。本当の自分に蓋をしただけじゃなく、長い時間、その蓋を目一杯の力で押さえ込んでいたんだ。音無さんは変わりたいと思って沢山の中から僕を頼ってくれた。だから僕が音無さんに寄り添う。最後には心の底から笑ってもらいたいんだ。」
「でもどうやって!」
久しぶりに口を開いた琴弧は目に涙を浮かべ、抗いたくても自分の努力だけではどうしようもない状況を嘆くように強い語気で言った。
「一緒に一階に行こう。そこにとっておきのプレゼントがある。」
晶は落ち着いて持ち前の屈託のない笑顔で優しく話しかけると、普段は誰も立ち入れない一階の奥へと琴弧をエスコートした。