神装真姫 晶たん③
夕陽が空を紅く染める時間が長くなり、教室にも少しずつ涼しい風が入り込んできた。
文化祭が近づくにつれ、生徒たちが浮足立って行く。中でも群を抜いていたのは澪だ。日に日に緩んでいったその表情は、もはや引き締める術を忘れたかのようだ。いや、そもそも引き締めるつもりなど彼女には最初からなかったのかもしれない。
クラスでは、その澪が驚異的なリーダーシップを発揮しながら着々と変装カフェの設営が進められていた。控え室として使用する隣の空き教室では看板娘?として活躍が期待されている晶と、
シェードモードでひた隠しにしているノートを抱きかかえた澪が、衣装の打ち合わせに精を出している。
「ねぇ委員長、衣装はもう用意できてるの?」
「もちろん!・・・絶対に・・・あき・・・竹達くんに・・・似合う。」
「ほんとかなぁ?変な衣装だったら着ないからね。」
「それは大丈夫!・・・信じて・・・絶対に・・・全部・・・晶たんに似合うから!」
「晶たん?」
「あ・・・」
とにかく「似合う」の一点張りで、結局のところ衣装の詳細は最後まで明かされなかった。それどころか晶には、衣装の他に早急に確認しなければならないことが増えたのだ。
澪が発した聞き慣れない呼び名に急に心がザワつく。変装カフェの裏側に潜む澪の企みを心身の調和の乱れが教えてくれた。頭の頂点に不純物としてこびりつく5文字と、喉から丁度良い漏れ方をした「あ」の声色に確信を得て、晶は頬を膨らませ、ついに澪に詰め寄る。
「委員長、何か企んでるよね!絶対そうだよね!ちゃんと僕に言ってごらん!ねぇ、言ってごらん!」
「そ、そんなことないよ。」
「今、目逸らしたでしょ。ちゃんと僕の目見てもう一回言ってごらん!」
「ああぁぁぁ晶たん・・・!」
「そっちじゃなくて!」
「すごく良い匂いがする・・・!」
「それはなんか恥ずかしい!」
晶は澪を追及した。だが不意に距離を詰めたことで餌を与えてしまったようだ。僥倖とばかりに自分の世界に旅立ってしまった澪と絶妙に話が嚙み合わない。
瞳に宿したきらめく流星とだらしない半開きの口は、もはや澪のいつものセットと言っても過言ではないだろう。晶が離れてもなお、澪の視線は晶が立っていた空間を捉えている。視線の先にあるのは、何の変哲もない無機質な壁。そこをキャンバスとして『澪の世界にいる晶』を脳内に描いているに違いない。
一方、晶は「すごく良い匂い」と言われて恥ずかしいながらもちょっとだけ気分が良くなって、腕やら肩やら匂いをすんすんと確かめるが、自分ではよくわからずに首を傾げている。
衣装の詳細もわからない。澪の企みもわからない。とは言えこれ以上の追及は時間の無駄だ。踵を返す晶が視界に入った澪は現実に引き戻される。せっかくの二人きりの時間を終わらせたくないと抵抗するように、どこか得意気に自白するのだった。
「バレてしまったら・・・仕方ない・・・。」
「バレたのは委員長の落ち度でしょ。僕をどうするつもりなのさ。」
「晶たんは・・・私のために・・・女装してもらうから・・・。」
「そりゃあクラスの催し物だから変装は仕方ないにしても・・・委員長個人のためではないよ。」
「ふふふ・・・その様子だと・・・まだ気付いていないみたいだね・・・晶たん。」
「またそんなこと言って。」
「この変装カフェは・・・クラス委員長である私が・・・仕組んだという事を・・・。」
「えっ・・・どういうこと?」
「クラスの女子全員が・・・誰も何も言わずに・・・変装カフェだけに投票するなんて・・・おかしいと思わない?」
確かに。当時を振り返ると女子全員が変装カフェに挙手していた。女子のやる気に驚いていた晶だったが、不意に部室で聞いた琴弧の声が響く。
『お菓子くれるくらいだもん。』
「・・・お菓子?・・・」
「音無さんから聞いた?・・・そうだよ・・・クラスの女子にお願いしたの・・・私が変装カフェを提案するから・・・それに投票してって・・・。お菓子も添えてね。・・・うちのクラスは35人・・・そして女子は18人・・・めでたく女子の満票を獲得したのでした・・・」
「き、き、汚い!お菓子で釣るなんてやり方がすごく汚い!」
「汚い?・・・それでも良いの・・・私は汚くても・・・晶たんは・・・すごく綺麗だよ・・・。」
指をさして罵る晶をものともせず澪は不敵に笑う。その足元からは、おぞましくひんやり冷たい気配がじわじわと広がり、空間を白く染め上げていく。それはまるで完成された雪原のようで、空からはしんしんと灰が降り積もっていた。変装カフェの裏側に潜んでいた瘴気にやられ、晶が膝をついた瞬間―――地の底から這い出た骨の手がまたも自由を奪う。今度は必死に抵抗する晶をそのまま地の底に引きずり込もうとしていた。
息苦しさの中で脳裏をよぎったのは、琴弧が放つ甘酸っぱい潜香。澪に身体の自由を奪われて初めて理解したのだ。潜香はその人物の本質を現した香り。普段は抑えられていても、欲望の対象を目の前にしたとき、一気に濃縮されて爆散する。そこに善悪の区別は関係ないのだと。
晶が香りに捕らわれたのは初めてだ。このどす灰い世界は澪の欲望そのもの。
澪は危険な人物であると誇示したのだ。これまで漂っていた複雑に融和したスモーキーな渋みとミルキーな甘さはもうどこにもない。今放たれているのは、氷のように冷たく、焼け跡のように焦げ付いた強烈な香りだ。それが晶の鼻の粘膜を刺激し、じわじわと神経を蝕んでいく。香りの感受性が高い晶は圧倒されて呼吸が乱れ、慌てて口から空気を求める。だが今度はとめどなく舞い降りる灰のような粒子が喉に張り付き咳き込んでしまう。
澪の瞳の中には流星のようなキラキラがちらついて、半開きの口からはごにょごにょと呟きが漏れ出ている。これは独り言なのか?それとも晶に向けているのか?―――やはり晶に向けられている。すごく怖い。
「晶たんを一目見てわかりました。普通の男の子じゃないと。晶たんは全て揃っています。私の神様になってください!いやなるべきです!」
「なんかキャラ変わってません⁉。」
「これが真の私です!」
灰色に沈む―――晶がそう感じた瞬間、教室の引き戸がガラリと音を立て現実の空気が2人を遮る。
「あっいたいた。お望ちゃん、こっちは終わったよ~・・・って、えっ晶ちゃん?膝ついて体調悪い?大丈夫?何か2人とも変だよ。」
「お、お、音無さん・・・何でもないよ・・・。」
「琴弧ちゃん、助かった~。もう少しで委員長に吞み込まれるところだった・・・。」
「どういうこと?ていうか変装カフェの打ち合わせの時間だから、こっちの教室に来てよ。お望ちゃんも戻って指示ちょうだい。」
「う、うん・・・。」
琴弧に救われてその場を切り抜けることができた。空き教室を出る間際、晶はふと立ち止まり振り返る。探るような視線の先にいたのは仕方なく牙を収めた澪だ。晶の身体の中で「神様」という言葉が尾を引いている。澪の本心と変装カフェ、その相性が良さそうなコンビネーションに一抹の不安を覚えるのだった。