懐かしい声
「情けない男。私と共に長きを生きるなら、鬼にもあやかしにもなると豪語していたのに。まあいいわ、その女が手に入れば全て上手くいくもの」
彩愛の視線が三葉へと向けられた。
巨大なシエキが牙を剥き、骨の軋む音が倉の闇を震わせた。淀んだ空気が腐臭を孕み、三葉の喉を刺すように重くまとわりつく。
暗がりに潜む眼窩の奥には、冷たい光が揺らめく。
張り詰めた空気の中、弘城が低く唸りシエキの向ける圧を押し返す。三葉はその背に庇われながら、ゆっくりと呼吸を整える。
「そのシエキの力では、私には敵わない。諦めろ」
冷静な弘城の言葉は事実だろう。それは彩愛も理解してるようだが、突如彼女は勝ち誇ったように笑い出す。
「その女に襲いかかったら、お前はどうする? 私を殺すのか? 殺せばいいさ!」
耳の奥を掻きむしられるような不快感を伴っているそれは、怯えも諦めもない。あるのは狂気に裏打ちされた確信だけだった。
(この人、どうして平然としているんだろう?)
三葉の胸にふと嫌な予感がよぎる。なぜ弘城の方が優勢なのに、彩愛は笑っていられるのか。
見えない力の押し合いは弘城の方が明らかに強い。外には蛇頭家の者が彩愛を捕らえるために待機している。
なのに彼女は決して強がっている訳ではないと三葉にも分かる。
「神が穢れれば、墜ちる」
三葉の不安を察したように、帯の中から吹雪の声が響く。
「おそらく、神排の信奉者を集めていると気づかれた時点で、この女は大神家を穢すと決めたのだ」
「……!」
「私が滅んでも構わない。その代わり神を奉る者たちを束ねる大神の当主を堕とせば、人と神との絆に綻びが生じて崩壊する」
巨大なシエキは、元は彩愛の一族が代々奉ってきた蛇の神だ。その魂の残滓が未だに宿っている。
もしこれを殺せば――たとえ正当防衛であっても、神殺しの罪と穢れが弘城に移る。
「三葉、お前の父親の魂は、シエキの中に残る神の残滓を長らえさせるのに役立ったよ。ほら、その穴の中でお前の父親は息絶えたのさ」
声にならない悲鳴を上げて、三葉は耳を覆う。
「三葉さん……っ」
庇うように弘城が振り返った瞬間、シエキの牙が襲いかかる。
僅かに意識が逸れた弘城だが、牙が届く前に咆吼を上げて相手を怯ませた。
「君は先に逃げなさい」
「あら、お優しいのね。これから三葉さんの父親がどんな最期を遂げたのか、丁寧にお話しするつもりだったのに」
「貴様! ――三葉さん、この女の言葉は毒だ。早く倉を出て……」
「あの男、命乞いをしたわ。みっともないわよね。泣きながら私の足に取り縋って「なんでもしますから、命だけは助けて欲しいって」情けなかったわ」
明らかな挑発に弘城は唸る。
(お父さんはそんな人じゃない……)
(そうよ三葉)
どこからか聞こえた声に、三葉ははっとして顔を上げた。
緊迫した空気の中、その声が聞こえたのは三葉だけ家のようだ。
「誰?」
「三葉さん?」
(しっかりなさい、三葉)




