轢かれて死んで来世は楽しむぞ!と思ったらただの狐だった。 ep.4
視界を覆い尽くす白い雪煙。
荒い呼吸の音だけが、耳元でやけに大きく響く。
『……狼は? どこ!?』
耳をそばだて、全神経を集中させる。
あの一斉射撃をどうにか凌ぎきったものの、状況は最悪だ。こっちはただ避けるだけで精一杯、あっちにはまだ「弾丸」を作る余裕がある。
(……来る!)
雪煙の向こう側、わずかな「影」が動いた。
また氷の槍か。そう身構えた私の鼻先を、槍ではなく狼の巨体がかすめていった。
「ガルァッ!」
『っ、直接来た!?』
狙い撃ちが当たらないと見て、戦法を変えてきたらしい。
氷の槍の弾幕を煙幕代わりに使い、一気に距離を詰めての肉弾戦。
――あ、これ、動物としての格が違いすぎる!
ドサッ! と雪を蹴る音。
狼は着地と同時に、しなやかなバネのような動きで反転。今度は逃がさないと言わんばかりに、大きく顎を開いて飛びかかってくる。
『……やるしかないっ!』
私は逃げるのをやめた。
今さら背中を見せても、あのスピードからは逃げられない。
私は銜えていた短刀の柄を、折れんばかりの力で噛みしめる。
狙うは一点。
相手が飛び込んできた、その勢いを利用する。
「ガァッ!」
狼の鋭い牙が、私の鼻先に迫る。
獣の生臭い息が、はっきりと感じられるほどの至近距離。
私は、あえてその懐へ滑り込むように体を低く沈めた。
前世の剣道で学んだ、「相打ち」に近い踏み込み。
そのまま、銜えた短刀の刃を、勢いよく上方へ――狼の喉元へと突き出した。
――ガキンッ!
鈍い手応え。
けれど、切っ先が肉を裂く感触はない。
狼が空中で咄嗟に首をひねり、牙で短刀の刀身を受け止めたのだ。
『嘘、噛んで止めた!?』
火花が散る。
短刀を銜えた私と、その刃を噛む狼。
互いに首を固定したまま、至近距離で視線がぶつかり合う。
相手の濁った瞳に、自分の真っ白な毛並みが映り込んでいるのが見えた。
『……っ、はな、せっ!!』
私は全力で首を振り、短刀を強引に引き抜こうとする。
けれど、パワーの差は歴然だった。
狼がグイッと首を持ち上げただけで、私の小さな体は軽々と宙に浮き、そのまま雪原へと叩きつけられた。
「キャンッ!?」
雪がクッションになったおかげでダメージは少ない。
けれど、衝撃で短刀を離してしまった。
数メートル先に転がる、銀色の刃。
『やば……っ!』
私が着地するのに対しすでに狼はその口元に再び不吉な光を灯している。
二度、三度と死線を潜ったことで、今の私にははっきりと見えた。
『魔、力? …あれが魔力なら、見て学べるはず!』
ヘルプウィンドウの説明が脳裏をよぎる。
【魔法とはイメージによる具現化】
あいつができるなら、私にだってできるはずだ。
私は逃げることをやめ、全神経を狼の口元に一点集中させた。
あそこにどうやって力が集まっている?
体内のどこから、どんな「感覚」で引き出している?
見ろ、感じろ、私。
狼の喉の奥で、魔力の渦が急速に凝縮されていく。
それは、まるで冷たい液体が凍りついていくような、キィィィンと耳鳴りのするような、独特の「圧力」を伴っていた。
(……あ。わかった。お腹の奥……丹田のあたりにある、熱い塊だ!)
剣道で意識していた重心のあたり。そこに、私の「それ」はあった。
私はその熱を無理やり引きずり出し、狼の真似をして口元へと誘導する。
熱いはずの力が、経路を通るたびに鋭い冷気へと変質していく。
体中の毛が逆立ち、視界が青白く染まっていく感覚。
(氷。冷たくて、鋭くて、どんな盾も貫くような、絶対的な硬さ――!)
狼の口元で、一本の巨大な「氷の槍」が完成する。
同時に、私の鼻先でも、空気中の水分が悲鳴を上げながら結晶化を始めた。
「グルアッ!!」
狼が槍を放つ。
回避不能な、必殺の弾丸。
『いっ……けぇぇぇぇぇ!!!』
私はぶっつけ本番のイメージを、そのまま正面へと解き放った。
――ガキィィィィィィィィンッッ!!
空中で、二つの「氷の槍」が正面から衝突した。
衝撃波が雪原をなぎ払い、砕け散った氷の破片が、キラキラと残酷なまでに美しく宙に舞う。
「……ガ、ル……?」
狼が呆然としたように動きを止めた。
まさか、獲物であるはずの小さな白狐が、自分と全く同じ魔法を、しかも初見で相殺してくるなんて思ってもみなかったのだろう。
『はぁ……はぁ……、やった、のか?』
魔法を相殺した瞬間、私の体から「何か」が根こそぎ奪い去られたような感覚に陥った。
指先一本動かすのにも、泥沼の中を泳ぐような凄まじい重さが伴う。
(これが……魔力消費の倦怠感……。冗談じゃない、一発撃っただけでこれなの!?)
膝……というか、前足がガクガクと震えて止まらない。
視界の端にはチカチカと火花が散り、意識が遠のきそうになるのを、奥歯を噛み締めて繋ぎ止める。
けれど、現実は無情だった。
砕け散った氷の破片が雪原に降り注ぐ中、ゆっくりと霧が晴れていく。
「グルルル……」
そこには、相殺の衝撃をものともせず、低く構える狼の姿があった。
毛並み一つ乱れていない。ダメージなど、ひとかけらも与えられていなかった。
(……狼自体は、無傷。だよね、ただの相殺だもん。攻撃が当たったわけじゃない)
絶望が、冷たい汗となって背中を伝う。
今の私には、もう二発目を撃つ魔力なんて残っていない。足がをもつれて、逃げることすらままならない。
対する狼は、先ほどの私の反撃に、むしろ明確な「警戒」と「怒り」を強めていた。
獲物として舐めていた相手が、自分と同じ力を振るった。それが、この森の捕食者のプライドを逆撫でしたらしい。
狼の瞳が、さらに深く、暗く沈む。
今度は遊びも観察もなしだ。一撃で確実に息の根を止めに来る。
(動け、動け、私の体……! このままじゃ、今度こそ食べられちゃう!)
狼が地を蹴った。
魔法ではない。魔力による「身体強化」を伴った、弾丸のような突進。
あまりの速さに、今の私の動体視力では影を追うのが精一杯だった。
その時だ。
「……ア、アァ……」
背後から聞こえてきた、人ならざる掠れた声。
「……ア、……アァァ……」
背後から響く、凍りつくような呻き声。
振り返る余裕なんてない。けれど、私の鼻先をかすめたのは、生きた人間のものではない、鼻を突くような強烈な死臭だった。
「ガ、グルァッ!?」
突進してきていた狼が、空中で無理やり軌道を変えた。
標的は私じゃない。私のすぐ後ろで、ゆらりと立ち上がった「それ」――先ほどの男性の遺体だった。
(アンデッド……本当に、動き出したんだ……!)
ヘルプウィンドウが言っていた通りだ。火葬されなかった死体が、漏れ出た魔力を吸って器となった。
知能を失った肉の塊は、目の前にいた狼に向かって、生前ではありえない速度でその腕を振り下ろした。
――ドォォン!!
「ギャンッ!」
雪煙が舞い、狼の悲鳴が上がる。
狼もすぐさま応戦し、アンデッドの肩口を食いちぎる。けれど、死体には痛みも恐怖もない。肉が削げようが骨が砕けようが、執拗に狼へと組み付いていく。
『……今だっ!!』
理屈じゃない。本能が「今しかない」と叫んだ。
狼とアンデッドが血反吐をぶちまけ合いながら取っ組み合っている隙に、私は震える四肢に鞭を打った。
『動け、動け……動けぇぇぇ!!』
倦怠感で鉛のように重い体。けれど、ここで止まればあいつらの「ついで」に殺される。
私は短刀を回収することすら諦め、ひたすら反対方向――森の奥へと向かって駆け出した。
(ごめんなさい、助けられなかったおじさん……。でも、せめてこの隙を無駄にはしない!)
背後からは、肉が裂ける嫌な音と、狼の狂ったような遠吠えが聞こえてくる。
一歩、また一歩と、雪を蹴るたびに心臓が壊れそうなほど脈打つ。
肺が冷たい空気を吸い込んで痛い。視界は相変わらずチカチカしているけれど、とにかく距離を稼ぐことだけを考えた。
どのくらい走っただろうか。
やがて、争い合う獣たちの声が遠ざかり、周囲に再び静寂が戻ってきた。
『はぁ……、はぁ、……っ、げほっ!』
ついに足がもつれ、私は雪の中に顔から突っ込んだ。
もう、指先一つ動かせない。魔力も体力も、完全に底をついた。
『……死ぬかと、思った……。あんなの、聞いてないよ……っ』
ぐぅ〜〜。
こんな時でも、お腹は空く。
私は真っ白な雪の上に倒れ伏したまま、ぼんやりと高くそびえる木々を見上げた。
九死に一生を得たけれど、ここは人類未踏の極寒の地。
武器もなく、魔力もなく、ボロボロの小さな白い狐。
『……これから、どうしよう……』
私の第二の狐生は、まだ始まったばかりだというのに。




