『春峰』壱 - 壱
「……っ」
怪我をした。
指を切った。
思わず、自身の中指、緩やかに盛り上がった小山を見やると、ぷつぷつと哀れに血を吹いている。
「……またか」
ため息を吐き、独り言つ。
「これで何度目だ」
春峰は自身の指先を、憎らしげに睨め付けながら、再び吐き捨てる。
割れた絵皿を片付けるため、それに触れた瞬間、この始末だ。
秋津洲に産まれ、秋津絵画に専心してきた身であるため、壱高などの高校生達と比べると、春峰の両手の、特に指先はところどころ赤みが目立つ。
秋津絵画は絵具を手で溶く。より正確には、岩絵具と溶き膠液を練る際に、指の腹を使う。その日の天候により、前日と同量の絵具と膠液を使用したとしても、粘度や色合いが微妙に異なる。少しでも気に入らなければやり直し、満足が行くまで同様の作業を繰り返した後、ようやく水を加えていく。そこでも、絵皿に注ぐ水の量を仕損じると、春峰は溜息と共に、それを自身の視界から避ける。
毎日毎日繰り返されるそれらの、いささか神経質じみた作業の記憶達は、標のように春峰の指先へ赤く刻み込まれた。
それもあってなのか、ほんのささいな衝撃で、この繊細な指先は赤く染まってしまうのだ。
小さな切り傷の癖に、毎度飽きる事なく大袈裟に赤色を流すものだから、どうにも集中は欠けるし、流れたものが絵皿に混ざるわで毎度散々である。
秋津画専攻者の性と片付けてしまえれば良いのだが、どうにも腹の虫が治らないのは、窓の外で他人事のように奏でられる、鈴虫の羽音のせいだろうか。
鈴虫が五月蝿い。月が雲に隠れているせいで薄暗い。夜風が肌を撫でて気持ちが悪い。そもそも何故――。
一つの事に不満を抱くと、連鎖的にあれもこれもと、重箱の隅を突く様に不満を論うのは、人間の悪い癖だ。
分かってはいるが、腹が立つ。腹が立てば、その大元を断ちたくなる。
春峰は、自身を傷つけた半月型に割れたそれを、手が切れるのも構わず握りしめる。止め処なく流れる生暖かい赤色は、春峰の肘を伝うと、床に滴り落ちた。
「くそっ! こんなもの……っ」
力一杯、窓の外へ放り投げる。
怒声と共に、絵皿は宙に舞う。春峰から流れ出た血液も、宙を舞う。
雲が星と月を隠しているからだろうか。
今日は特別、黒が綺麗な夜だ。まるで、墨を流したような、奇妙な美しい空だ。
だから、全てが静かにゆっくり回っていく。星々が動かないから、時が止まったかの様に。
墨を流した夜に、春峰の赤が、混ざる。
「黒紅……」