《黒紅》序 - 弍
「自然科学室植物史書物庫種子植物大棚、第弐班の黒紅だな。階級は、『薄黄』」
黒紅の混乱を他所に、声はその距離を保ったまま続ける。高くもなく、それでいて低くもない、ただ単調で無機質な調子が響く。にも関わらず、氷菓子を思わせる、甘く透明な湿度を含んでいる。矛盾した美しい音色が、耳から身体へ入り込むのが心地良い。
「黒紅だな? 間違いない。たぶん、きっと。それで、返事は」
「話聞けよ」
「うるさい」
黒紅の訴えは、哀れにも軽くいなされる。
「……黒紅は、確かに俺だけど……」
そして、少々の逡巡の後、口を開く。
「さすがに近すぎる」
「は?」
「距離感がおかしい」
鼻先から下に、むずむずとした感触が走っているのは、反対側から超至近距離で覗き込んでいる、この傍迷惑な人物の前髪が撫でているからなのだろう。
言うか言わまいか、思わず迷ってしまったのは、あまりにも相手が堂々としているからであった。一般的な意思疎通の場面において、この物理と心理の両面から鑑みた距離感は、果たして適切なのだろうか。恐らく初対面である、という条件付きで。
――否、である。
寝台で仰向けになった姿勢のまま、黒紅は両手を持ち上げる。そして、女型か男型か分からないが、無礼な事だけは分かるその人物の頭をがしりと掴んで引き離す。反撃に出られるとは微塵にも思っていなかったのか、びくりと身体が跳ねた気配がした。
「無礼な奴め」
そう大仰に顔を顰め、吐き捨てる気配が背後で聞こえた。