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はるまのディストピア(3/5)

 

 作り物のように小さなベビーベッドに寝ている赤ちゃんは全部で四つ。


 だいたい一年に三名から五名の子供が生まれるから、多いわけでも少ないわけでもない。二人が男の子で二人が女の子だと聞いていたが、悠真が見ても顔だけでは性別など分からなかった。柔らかそうな真白な布に包まれて、すやすやと平和そうに眠っている赤子達を見下ろしていると、なんとなく自分が異世界に迷い込んでしまったかのような、そんな落ち着かない気分になった。


 ここで生まれた子供たちは、お母さんと呼ばれる子供の世話をする役割の大人や、悠真のように手伝いに来る学生たちに見守られながら大きくなる。五歳まではここの保育所で寝食を共にし、六歳になると十七歳まで昼間は学校や職場、夜間は寮と呼ばれる場所で集団で暮らすのだ。十八歳になれば晴れて仕事を与えられて外に出られるのだが、とは言えそもそも居住区の中でも人が住める区画は四つだけ。寮から別の集合住宅に振り分けられるだけで、さほどの違いもないのではないかと思っている。


 腕につけている時計が小さく震えて、あらかじめ伝えられていた時間を知らせてくれた。三時間おきにミルクを与える必要がある小さな生き物に、温かなミルクを準備する。せっかく気持ち良さそうに眠っているところを起こすのは可哀想な気はしたが、時間通りに与えることが大切なのだと言われている——それが赤子にとって大切なことなのか、大人にとって都合が良いことなのかは分からないが。


 布に包んだままの小さな体をそっと抱き上げると、あまりに軽くてふにゃりと柔らかくて不安になった。


 全く起きる気配もないその顔に哺乳瓶を近づけると、甘い匂いに気づいたのか少し鼻先が動いた。唇に哺乳瓶の先を押し当てても全く反応しなかったが、口の中に入れてやると薄く目を開ける。そしてどこかでスイッチが入ったのか、今まで寝ていたとも思えない勢いで飲み始めた。


 まさしく本能だけで動いている生き物だ。


 いくら見ても飽きないのだが、いくら世話をしていても乳児の世話は慣れなかった。力加減が分からないし、もしも手を滑らせて床に落とそうものなら本気で命に関わる。せめて自分たちで歩けるようになるくらいまで大きくなってもらいたい、と心底思う。というより、そんな年齢になるまで、学生に世話など任せないでほしいのだが。


 そんなことを考えていると、いつの間にか哺乳瓶から漏れたのか、それとも赤子が吐いていたのか、ミルクが首元に溜まっていた。思わず声を出すと、その声で起きてしまったのか、何人かの泣き声が重なって一気に焦る。


「あああ、ごめんごめん」


 とりあえず抱いていた赤子をベッドに戻して、顔と首を濡らしていたミルクを拭いた。着替えさせねばならないだろうが、他の子たちも競うように泣いている。お腹が空いたのだろうか、と隣の子を抱き上げた。ミルクの時間は四人それぞれ少しずつずらされているのだが、もう少しすればこちらの子もミルクの時間なのだ。


 だが、その子は抱き上げられたことでさらに大声で泣き出した。それでまた全員が合唱するように泣き声をあげる。本当に生まれたばかりであれば泣き声も弱々しいらしいが、何週間もすればもう立派な泣き声だ。広くもない部屋で四人の泣き声は何かの警報音のように頭に響く。


「うーん」


 泣かれたところで、焦りはするのだがどうしようもない。一人を抱いて哺乳瓶を持っているから両手は塞がっているし、隣のベッドの赤子になんとか表情で訴えているのだが、それが通じるわけもないのだ。お母さんや他の大人に助けを求めたところで、そのくらい自分でなんとかしろと言われるだけである。


「……何が気にくわないのかは分からないけど、諦めて飲んでくれないかな。俺はたぶんお母さんにはならないと思うから、じきに目の前から消えるよ」


 そんなことを真顔で言ってみたが、口につけた哺乳瓶を拒否したまま、顔を真っ赤にして泣いている子供には聞こえていないだろう。というか聞こえたからといって、理解はできないはずだ。


 学生のうちは大人になるための準備などという名目で、手の足らない職場のヘルプをやらされる。だが一年も経てば、悠真は自身の役割を与えられるのだ。そうなればこんな風に、自分の適性から外れた場所に配置されることはまずない。悠真にとっても赤子にとっても、それがお互いに幸せなはずだ。


 抱いていてもミルクを与えようとしても泣くのなら一緒か、と嘆息してからその子をベッドに戻した。だがその対応は気に入らなかったようで、赤子はさらに泣き叫んだ。


「どうすりゃいいのよ。ごめんって。もう少しだけ待っててくれるか?」


 泣いている子は君だけでもないし、と。そう言って他の子をあやそうとすると、今度ははじめにミルクを飲んでいた子が咽せるような音が聞こえた。布がぐっしょり濡れるほどにミルクを吐いたのが見えて、慌てて駆け寄って抱き上げた。そういえば、ミルクを与えた後にげっぷをさせていなかったのだ、なんてことを思い出す。縦抱きにして背中を叩いてやると、ごほっと吐き出す音が聞こえて悠真の服が濡れる。甘いミルクの匂いがつんと鼻についた。


 色々なことが同時に起きすぎて、何から手をつけて良いのか分からない。思考が停止したまま、誰にか分からないが文句を言った。


「……これをひとりでやれってのがそもそも間違いだと思うんだけどな」


 三時間だけのヘルプではある。泣いている子供がいたら抱いてあやしてあげて、時間になったら四人にそれぞれミルクをやる。必要に応じてオムツを替えて、汚れていたら服も着替えさせる。それだけだと言われればそれだけなのだが、何一つできていないどころか、他の赤子の服を汚さないためにはまず自分の作業服を着替える必要すらある。


 途方に暮れていると、外から足音がした。


 こちらに向かってきているような足音に、期待と不安が入り混じる。あまりに泣き声がうるさくて誰かが様子を見にきたのかもしれないし、苦情を言いにきたのかもしれない。どちらにせよこの惨状を見て呆れられるかもしれないが、仕方がないと手伝ってはくれるかもしれない。


 どきどきしながらドアが開くのを待ったのだが、そこから顔を出したのはなぜか那月だった。ひょこりと顔だけ覗かせた後に、さらりと肩から流れた長い黒髪が揺れる。


「どうしたの? だいじょうぶ?」


 ドアの隙間からぱっちりとした黒い瞳を覗かせ、細い首を傾げた彼女に、悠真は思わず心の底から声を出していた。


「女神さま……!」


 那月はその一言で窮状を把握してくれたらしい。


「大丈夫じゃないみたいね」


 そう楽しそうに笑ってから、部屋に入ってきた。そして悠真の手の中の赤ちゃんを引き取ってくれた。


「あらら、吐いちゃったの。気持ち悪いのね。おいで、ママが着替えさせてあげる」


 彼女はそう言って笑いかけると、愛おしそうに赤子の額に自分の額をつけた。温水で濡らした布で体を拭いて、てきぱきと着替えさせる彼女をぼうっと見てしまってから、悠真は慌てて立ち上がる。


「なつはこんなところに来て大丈夫なのか?」


 二人とも学生とはいえ、十歳も過ぎると実務と研修を兼ねて、日中の大半は色々な職場に送られる。那月がどこかで暇をしていたとは思えず、だからといって困っている悠真のヘルプに行けなどと言う大人がいるとは思えない。


「今日はみんなのご飯を作ってたの。もう下準備は終わったから休憩中」

「さすが」


 那月は基本的になんだって手際が良い。人の二倍くらいの速度でタスクをこなしてしまうのだ。それでよく色々なところをうろついており、今の悠真のように困っている人がいれば助けている。自分に割り振られた仕事以外はしたくないという人間が多い中で、彼女のように積極的に動き回っている人間は少なく、だからこそ彼女は愛されているのだ。


「せっかくだから赤ちゃん見にきたの。ここにいたのが悠真で良かった。抱っこできて嬉しいな」


 悠真でなかったら抱かせてもらえないことがあるのだろうか。そうは思ったが、単に声をかけやすいと言っただけかもしれない。


 いつのまにか那月は片手で違う子を抱いており、着替えが終わった子供の頬をつついてあやしている。悠真が慌てて汚れた作業着を着替えていると、那月が手を伸ばしてきた。促されるままに哺乳瓶を渡してやると、彼女は抱いている子にミルクを飲ませる。さっきは泣きじゃくってまったく飲んでくれなかったのに、那月の腕の中は居心地が良いのか、上機嫌で哺乳瓶を咥えていた。


「うわあ、可愛いな。美味しい? たくさん飲んで大きくなってね」


 そう言ってきらきらの笑顔を向けられた赤子は、丸い瞳をさらに丸くして彼女の顔を見つめていた。


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