はるまのディストピア(1/5)
音もなくぽっかりと小さな黒い穴が開いて、そこから水とカプセルが転がり落ちる。生命を維持するために必要な物資だけを排出した穴は、全く音もせずに閉じて、元の白い壁に戻った。前に何度か近寄ってまじまじと観察したことはあるが、目に眩しいほどの純白の壁には、隙間も痕跡もない。閉じてしまえば本当にどこが穴だったのかも分からないのだ。
悠真はちらりと床に転がった異物を見やってから、天井を仰いだ。
悠真のいる小さな部屋は、四方八方を純白の壁に覆われており、他には何もない。本当は先ほどのように物資だけを運ぶ穴や、悠真が出入りする扉があるはずなのだが、のっぺりとした壁に全くそれらは見当たらなかった。上も下も左も右もない。ただただ白い箱だ。
「なあ」
なにもない白に向かって声を出す。
「だれか聞いてるだろ」
自分の声だけが部屋の中にひたすら響く。期待もしていなかったが、やはり何の反応もなかった。
「反省してる。不法侵入も不法アクセスも本当に悪かったと思ってるよ。もう二度とあんな真似はしない。頼むからここから出してくれないか」
那月と彰良と花火を見たのは、何日前のことなのだろう。水や栄養補給のためのカプセルが排出されたのは先ほどで五回目だ。どうも等間隔で届けられている気はしないのだが、それでも一日一度の補給なのだとしたら、ここに閉じ込められてからもう五日目ということか。
「頼むよ、頭がおかしくなりそうだ。こんな部屋にいるのはもう限界だよ。ここから出してくれたら、奉仕活動でも肉体労働でもなんでもする。なんでも言うこと聞くからさ」
ただただ閉鎖的な白い部屋。
別に暴力を振るわれるわけでも、水や食事を与えられないわけでも、睡眠を与えられないわけでもない。暑いわけでも寒いわけでもない。誰かに叱責されるわけでもなく、体を拘束されるわけでもなく、無理やり働かされるわけでもない。
何が限界なんだと聞かれれば、自分でもよくわからないと言うしかない。
それでもこれは懲罰室と呼ばれる場所であり、悠真は現在進行形で罰を受けているのだ。目に眩しいほどの真白い壁は全く落ち着かないし、誰ひとりとして姿も見えなければ話す相手もいない。声を出しても何ら反応はない。ここにあるのは、もしかしたらこの世界に一人きりになってしまったのではないかという、押しつぶされそうな孤独感だけだ。
部屋の隅で膝を抱えるようにしてじっと耐えていたのだが、いちど口を開いてしまえば、今度は口を閉じてまた無音の部屋に戻るのが恐ろしかった。天を見上げて、ひたすらそこにいるはずの誰かに向けて話し続ける。
「いまは何日目だ? あと何日ここにいればいい? どうしたら出してくれるんだ? なあ、誰か何か言ってくれよ。俺はどうしたらいいんだよ。謝ればいいならいくらでも謝るよ。船長にもお母さんにも先生にも警官にも、みんなのところまで謝りに行くから」
こうやって一人でただ謝ったり、怒ったり、泣き言を訴えたりする。途中から世間話をしてみたり、話すこともなくなればひとりで鼻歌を歌ってみたりもする。そうしているうちにぷつりとスイッチが切れたかのように黙り込む——そうしたことを、この数日でもう何回繰り返してきただろうか。
悠真は泣きそうな気分で呟いた。
「なあ、だれか聞いてるだろ」
——その言葉は確認ではなく、悠真の願望だ。
悠真は自らに思い込ませるようにそう言ったのだが、きっと実際には誰にも悠真の声など聞いていないだろう。生きるのに必要なサプリ等は自動的に届けられているし、万が一にも悠真に何かがあればシステムが検知する。閉じ込めた悠真をわざわざ人間が観察している必要などどこにもないのだ。
昼間は皆それぞれの持ち場でそれぞれの役割を果たしているのだし、夜になれば家で美味しい食事でも取りながら自分の好きな仮想現実の世界に浸る。悠真のことを気にかける人間など、この世界のどこにもいないだろう。
もしもいるとすれば、一緒に罰を受けているはずの二人だけだ。
「あきはどうしてる? なつは? 二人ともまだ閉じ込められているのか?」
それも確認ではない。やはり悠真の願望だった。
そうであれば良いと思ってしまった自分は、なんてひどい人間なのだろう。本来なら、彼らが同じように苦しんでいることを心配するのが友人だと思うのに、それでも悠真は彼らと同じ環境にいたいと思ってしまうのだ。
もしかしたら未だにこうして忘れ去られているのは、悠真だけではないだろうか、なんて思ってしまうから余計だ。
那月は皆から愛されているし、彰良のことは長く閉じ込めるわけにはいかないだろう。彼はすでに船になくてはならない人物になっている。住民の中に彰良の代わりができる人間がいない以上、上も彼を長く拘束する判断などしないはずだ。彰良は生まれた日こそ同じだが、もともと悠真とは全く違う次元を生きている。
花火が見てみたいなどという那月の可愛らしい夢も、彼はいとも簡単に叶えてしまうのだ。
制御室にプログラムを仕込むと他の制御士にばれてしまうから、と彼は自室で何かしらの仕込みをして、あとは居住区から制御室につながる数少ないネットワークにそれを流し込むだけだと言った。それをやりたいと言ったのは悠真で、悠真が言い出さなければ彰良が自分でやったのかもしれないし、那月がやったかもしれない。
最初から悠真など、いてもいなくても良かったのだ。
それでもこうした罰を受けることが分かっていても、悠真は三人で同じ罪を犯したかったのだ。自分も彼らと並んで一緒に花火を見たかったのだし、処罰は恐ろしいが、それ以上に二人に置いていかれることの方が何倍も怖かった。
——それでいて、抜け駆けのように那月にキスをしてしまったのは、何故だろう。
彰良がいれば、きっと怒ったはずだ。だが彼女が花火を見上げるその瞳がとても真剣で、黒い瞳の中ではじける色とりどりの花火がきらきらと綺麗で、その瞳の中に自分が映りたいと思ってしまった。
キスをしても良いかと聞くと、那月は驚いたような顔はしたが、そっと触れさせた唇を受け入れてくれた。指先に当たった柔らかな髪と、唇に触れる柔らかさに、悠真はこれまでにないほどどきりとした。彼女に対する愛おしさと、自分の中に生まれた狂おしいような感情があふれ出して、悠真は自制できなくなる前にと慌てて唇を離した。
だが、唇を離して見下ろしたその表情は少し困ったようなもので、悠真は一気に苦い気分になった。
あきのことを考えただろう、と。
そう言うと那月はさらに困ったような顔をして、その顔に悠真はますます落ち込んだ。
彰良はずっと那月のことが好きなのだと言っているし、きっと那月も彰良のことが好きなのだろうと思っていた。それでも那月は悠真のことも大好きよと言ってくれるし、ずっと三人でいることを望んでくれている。が、そうは言ってもやはり二人は悠真を置いて行ってしまうのではないか、と。そんな不安はいつだって拭えない。
あまりに綺麗な花火を見上げて息を飲み、これが単なる映像であるということに、感動と同じだけの虚しさを覚えていた。この世界はあの花火のようにとても綺麗に作られている。那月もとても綺麗だし、とても明るくて優しくて完璧な存在なのだと思う。彰良はまさにこの世界に存在するために生まれた存在で、この世界で不足しているピースにぴたりとはまる。
それに比べるとあまりに小さく、取るにたらない自分は何なのだろう。
きっと誰も悠真をここに閉じ込めていることさえ覚えていない。このまま永遠に生かされていたところで誰のためにもならないし、ここにいたところで誰も困らないのだ。
「なあ……誰でもいいから俺を助けてくれよ!」
悠真は何もない天井を睨み、そこにいるはずの誰かに泣きながら訴えた。