はるまの一歩(5/5)
「瑠璃さんと話をしたんだ」
悠真が言うと、那月は少しだけ首を傾げた。
昨日の瑠璃の部屋と比べれば、那月の部屋はとても落ち着くし居心地が良い——と感じてしまうのはなんなのだろう。瑠璃はとても魅力的だし、話していてとても楽しいのだが、二人きりでいるとどうも女性として緊張してしまう。
本来なら那月とこうして二人きりで密室にいる方が意識しそうなものだが、そこは付き合いが長すぎるということか、単に慣れてしまっただけか。
「瑠璃さん」
悠真の言った名前を繰り返したその反応に、もしかしたら瑠璃という名前を知らなかっただろうか、と思った。瑠璃は単に医師と呼ばれることが多いし、那月もそう呼んでいた気もする。補足のために口を開こうとすると、彼女の方が先に言った。
「離れについて?」
「うん」
「確かに医師である彼女なら、確実に中の様子も知っているわね」
すごい、と感心したような顔で言った那月に、悠真は首を横に振ってみせる。
「でも、中の人間に会えないってことしか分からなかったよ。そんな制度はやはり存在しないらしいし、これまで離れの中にいる誰かに面会が叶ったなんて話は、瑠璃さんも聞いたことはないって」
「なにか特別な事情があれば、って聞いてた気がしたけど」
「ノアが転覆するくらいの特別な事情なのかもな」
悠真はそう言って苦笑する。もしかしたら船長などは会えるのかもしれないが、船長が離れにいる誰かに会いに行くことなど想像もできなかった。もし彰良が何らかの理由で働けなくなり、離れに行かされたところで、もはや興味もないだろう。船のために働くことしか生きている意味がないなどと公言する彼にとっては、離れに行くのは本当に死んでいるのと変わらないはずだ。
「満彦さんについては何か聞けた?」
「いいや。教えられないって」
「そっか」
そう言った那月は、少しだけ悠真を気づかうような顔をした。
彼女に離れのことを聞いたのは一度だけで、話をした時もできるだけ軽い口調で話したつもりだったのだが、優しい那月は悠真のことをとても心配してくれているようだった。一緒に仕事をしていた満彦さんがいなくなったことで、悠真がショックを受けていると思っているのだろう。どうしても会いたいから、その道を探しているのだと思って、彼女も真剣にそれを考えてくれているようだった。
やはり悠真は首を横に振る。
「大丈夫だよ。色々な人に話を聞いてもらえて、ちょっとすっきりしたし」
それは嘘ではない。海斗は時間が解決すると言ったが、本当にその通りだ。
我ながら薄情な人間だとは思うのだが、満彦さんについては一週間もすれば心の整理がついてしまった。瑠璃や海斗の言った通り、確かに離れで幸せに暮らしているのだろう、と思うことが一番楽な気がするのだ。ぽっかりと穴が空いたような気分は変わらないが、何が何でも会ってやろうという気にはならない。
「そっか。すごいね、悠真は。色々な人と仲良しで」
そんなことを言った那月に、悠真は内心で首をかしげる。
那月は寮にいた頃は子供たちからも慕われていたし、色々な職場でも好かれているようだった。寮を出てからも、たまに子供たちと会っているようだったし、食堂で食事をとっている時も、そこで出会う人と親しげに会話を交わしている。
「なつもみんなと仲良しだろ」
「どうかな、最近はあんまり人に会ってないから。たまには悠真みたいに色々な人と話をしないとね」
明るい口調でそう言った那月だが、その瞳はどこか寂しげにも見えて、悠真はどきりとした。
寮を出た直後は彼女が寂しくないように——と色々と考えていた気がするのだが、最近はほとんど考えていなかったように思う。悠真自身がこの生活に慣れてしまっていたし、たまに食事をして一緒にいられるだけで十分だったのだ。彼女と約束をしていない日は、誰かを誘ってご飯を食べるか、仕事が終わってすぐに仮想空間の住人になるか。日々充実しているとは言えないが、特にそこに不満も寂しさもなかった。
だが、寮にいた頃は毎日、当たり前のように色々な年の子供やお母さん達と食事を取れていたのだ。那月は皆で集まれる場所が好きだったようで、開いている時間いっぱい食堂にいて、入ってくる子供たち一人一人に声をかけていた。それと比べれば、たまにしか会えないというのも寂しいのかもしれない。何よりいつも一緒だった彰良に、全く会えなくなったのだ。
何を言えば良いかと逡巡していると、ぴよんとユキが悠真の膝の上に飛び乗ってきた。悠真の顔をまん丸の瞳が見上げてくる。
「なつにはユキがいるもん。寂しくないよね」
そんなことを自信満々な口調で言われて、思わず悠真は目を丸くする。まるで那月の心情を読んで慰めるかのような言葉だ。言葉や声だけを聞けば、彼女が寂しがっていると気づかない気がするのだが、それだけ那月の表情を読み取って学習しているのだろう。
——もしくは、彼女がユキに寂しいと打ち明けているのか。
那月はきっと寂しいと思っていても悠真や彰良には言わないだろう。だが、相手が機械であれば話すかもしれない。
那月はそんな言葉にふわりと笑う。彼女が手を伸ばすと、ユキは悠真の膝から彼女の腕までジャンプした。腕の中にすっぽりとおさまった賢い子犬を那月がぎゅっと抱くと、ユキも那月の頰に鼻を寄せる。
「そうだよね。いつもずっとお話ししてるもん」
「ユキも。ユキもなつがいるからぜんぜん寂しくないよ」
まるで恋人同士、いや、お母さんと子供だろうか。
それを微笑ましく見やりながら、そう言えば那月は子供が大好きだった、と思う。寮にいた頃はよく赤ん坊の世話などもしていたが、寮を出たら会える機会はない。夜に寮に行けばほんの少しの時間なら子供達には面会できるが、寮に入ってもいない小さな子供に会う手段はないのだ。
「悠真はミフユだけで寂しい?」
「寂しいって言ったらユキがうちに遊びに来てくれる?」
悠真の言葉に、ユキは可愛らしく首を動かした。何度も悠真と那月を見比べているのは、悠真の家に行ったら那月が寂しがると思っているからだろうか。ユキは人間の子供のように、困った顔をした。
「どうしよう。ミフユみたいに、ユキがもうふたつあれば良いんだけど」
「ふたつ?」
思わず聞き返してしまった。
もうひとつではなく、もうふたつ。それは当然、悠真と彰良の分なのだろう。ユキはろくに彰良に会ったことはないはずだが、知識としてミフユが三匹お揃いで存在していることを知っているのだろうか。もしくは、やはり那月が彰良のことをユキには話して、会えないのが寂しいといつも打ち明けているのか。
そう考えると、なんとなく切ない気持ちになる。
もしかしたら今は悠真よりもユキの方が、那月にとっては身近で頼りになる存在なのかもしれない。そして、那月はやはり彰良に会いたいのだ、と。それはもしかしたら一緒にいた悠真よりもずっと彰良に会いたいのではないか——なんて考えてしまって、息が苦しくなる。
彰良と会って連絡をとっていることは、那月にはまだ言っていない。悠真とは会ってくれたが、那月に会ってくれるかどうかは分からないし、彼とはまだ那月の話はできていないのだ。下手な期待を持たせたくはないから、彰良が那月と会ってくれると言えば、知らせようと思っている。
のだが、そもそも悠真がいなければ、彰良は那月のところに戻ってくるのではないだろうか。
「たまにはユキも悠真の部屋に遊びに行ってもいいわよ。悠真のミフユにも会いたいって言っていたでしょう?」
困ったような顔のままだったユキに、那月がそんなことを言った。
「大丈夫だよ、寂しくなったら俺はすぐここに来るから」
そう言って悠真は、ユキを抱いている那月ごとぎゅっと抱く。華奢で小さくて柔らかくて温かいその体を抱き込んでいると、二度と離したくないという気になるのだし、その唇や彼女の肌に触れたいという衝動に駆られたのだが、悠真はゆっくりと体を離した。
ユキに似て丸くて黒い瞳が、少し驚いたように悠真を見ている。
彰良が那月を独り占めしたいと思う気持ちも、もちろん分からないわけではない。だが、悠真では彰良の代わりは出来ないのだし、ユキの代わりにすらなれやしない。
「なつと会えなくて寂しいってみんなも思ってるよ」




