はるまの一歩(4/5)
緊張しながらベルを押すと、すぐにドアが解錠される音がした。
出てきたのは白衣でなく私服を着た瑠璃だった。彼女は悠真を見上げるとにっこりと笑みを浮かべる。
「どうぞ」
促されて悠真は部屋に入る。
部屋は皆、同じ作りになっており、ドアを開けるとすぐ横に配送ボックスと洗面室への扉があり、奥が小さな部屋になっている。そこにあるのは机と椅子とベッドだけで、あとはクローゼットが備え付けてあるだけだ。瑠璃の部屋も当然ながら全く同じで、目に見える場所にものが置いてあるわけでもないから、悠真や那月の部屋とほとんど変わらないのだが、それでも彼女の部屋にいるというだけで妙な落ち着かなさがある。
彼女がベッドに浅く腰をかけたので、悠真は彼女に断ってから椅子に座った。
「部屋に呼んだのは迷惑だった?」
悠真の表情が硬かったからだろうか。瑠璃はどこか楽しそうな顔でそんなことを言ったので、うーん、と悠真は声を出す。
「迷惑というか……自分で言うのもなんだけど、若い男の子を部屋に入れるのは色々と危なくない?」
「別に何かがあっても困らないもの。部屋に入れる相手は選ぶけどね」
そんなことを悪戯っぽく言われて、うーん、とまた悠真は唸る。
そこに選ばれたのを光栄というべきなのか、またからかわれているだけなのかも分からないが、何にせよ悠真の方は色々と危ない気はする。これは彰良が部屋に瑠璃が定期的に訪ねて来ると言ったことを『羨ましい』などど呟いてしまった罰だろうか。すぐ手を伸ばせば彼女に触れられるのだし、少し触れれば簡単にベッドに押し倒せる、というような妄想が嫌でも浮かんでしまって、妙な気分になる。
ベッドに腰をかけた彼女は、先日のような華やかなワンピースではなく、柔らかそうな素材のグレーのセットアップだった。ラフにも見える格好だが、支給される既製服ではない。いつもの白衣は知的で聡明な印象を与えるし、先日のワンピースもとても綺麗で隙がなく見えたが、今日の格好はどこか可愛らしく親近感を覚える。いつものように、唇が真っ赤に染まっていないからかもしれない。
まじまじと見つめてしまってから、彼女の面白そうな視線に気づき、とにかく口を開く。
「夕食を食べてもいい?」
「そうね、とりあえずはお互い食欲を満たしましょうか」
なにやら意味深な言い回しに困惑しながらも、悠真は頷いた。とりあえずは食欲を満たせば、他の欲が引っ込んでくれるかもしれない。そんなことを考えながら、端末を操作している彼女に希望の夕食を伝えようとする。
が、ふと、ここに悠真の分の食事が届くということは、瑠璃と悠真が二人で部屋で食事をとった記録が残るということだと思ってどきりとする。どうせ食堂で食事をとったとしても記録は残るのだが、男女が狭い部屋で二人きり、それもほとんど接点もなさそうな瑠璃と悠真だ。その記録を見た人間がいたとしたら、二人の関係をどう思うだろう。食事を注文しないほうが良いだろうか、とそんなことを考えてしまったが、よく考えれば部屋を訪ねた時点で記録が残るのだ。食事の時間に食事もとらずにいることの方が、何となく不自然な感じもする。
「どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
不思議そうな顔をされて、悠真は首を振って食事の希望を伝えた。彼女が注文を終えるのを見ながら、瑠璃の方は気にならないのだろうか、と内心で首をかしげる。相手は選ぶ、と言っていたが、もしかしたら彼女はこうして誰かと二人きりになることは珍しくないのかもしれない。
「那月ちゃんは悠真くんがここに来ること知ってるの?」
「知らないよ」
「知られたら困る?」
悠真の心を読みでもしたのだろうか。急にそんなことを言われて、どきりとする。
部屋に二人きりでいる記録が残る——と言って、普通であればそれを逐一チェックしている人間などいないのではないか、と悠真は思っている。もしもそれをチェックしている人がいるとすれば、それが監査員と言う役割だろう。那月が監査員としていずれ記録を査閲することがないとは言えない。
「どうかな」
知られるのはあまり嬉しくはない。女性と二人きりだというのも、瑠璃と一緒だということも。彼女は瑠璃のことをあまり好きではないようだったから余計にだ。だが、それでも『話をするなら私の部屋に来ないか』という瑠璃の誘いに乗ったのには、もちろん理由はある。
「その時はその時だよ。話せばわかってくれる」
「随分と信用してるのね」
「というより、なつも知りたがってるからね。離れの中のこと」
そう、と言った瑠璃の感情は読めない。
どうすれば離れの中にいるはずの満彦に会えるのか——と。那月に聞いてみたが、彼女も分からないと言っていた。監査員である彼女は、そこで知り得た情報を他に漏らすことは禁じられている。だが、知らないと言った彼女の様子からも嘘はないと思っていたし、話をしているうちに彼女の方がどうすれば良いのかと本気で考えてくれているようにも見えた。
彰良にも軽くメッセージを送ってみたが、知らない、という一言だけがすぐに返ってきた。だが翌日、彼は制御区内でわざわざ調べてくれたようで、システム上はそれに関するものはなにも存在しない、とメッセージを送ってくれた。
ある意味で情報を広く握っている那月と彰良でも分からないのであれば、お手上げだと思っていたのだが、確実に離れの中のことを知っている人物がいることを思い出したのだ。離れというのが人々が死んでいく場所なのだとすれば、唯一の医師である瑠璃がそこに関わらないわけがない。
そして「離れについて教えて欲しい」と送った悠真に返ってきたのが「部屋に来てくれるなら」というメッセージだったのだ。そもそもノアの中で人に会える場所は食堂か自室くらいしかない。人がいるかもしれない食堂で話せない内容を教えてくれるのではないか、と悠真は少し迷いながらも快諾したのだ。
彼女は相変わらず何を考えているのか分からない表情のまま、口を開いた。
「離れについて、何が聞きたいの?」
「離れの中にいる人に会うことってできないのかな?」
「できないわよ」
「そんな制度はないってこと?」
即答した瑠璃に質問を重ねると、彼女は困ったような微笑を浮かべる。
「そもそも誰が離れの中にいるのかも分からない、でしょう。それなのに、その中の誰かに面会をする、なんて制度があるわけがないわ」
「そう言われるとそうだけど……そもそもなんで誰がいるか教えてくれないんだろう」
「死者を公表したくないからでしょ」
そんなことを言われて、悠真は首を捻る。
「どうして?」
「ここにいる人々に死を意識させないため——だそうよ。死ぬ前に姿を消して、それで終わり」
確かに悠真に死の概念はあまりない。最近まで離れの存在さえ頭になかったくらいだ。
いつの間にかぽんと赤子が増えており、いつの間にかひっそりと老人が消えている。そもそも食事を一緒にとるわけでもなく、職場で人々との交流が多いわけでもない。自分とさほど関係のない人間であれば、誰が存在して、誰がいなくなったのかも曖昧なのだ。目の前で誰かが亡くなるわけではないから、死を意識することはほとんどない。
「そうしたら苦しんでる姿とか、認知や肉体が衰えて弱っていく姿とか見ずに済むでしょう」
「苦しい?」
「まあ、眼鏡をかけてたところで多少は苦しむんじゃない? 私は死んだことないから分からないけど」
離れでは仮想空間に浸りながら静かに安らかな死を迎えるのだ、と。
幼い頃に一度だけ、学校で教えられた記憶がある。そこでは勉強をする必要もなく働く必要もなく、一日中、仮想空間にいられる。とても幸せな時間を過ごせるのだと言われ、離れにいけるのが羨ましいと口にする子供もいた気がする。悠真もそう考えていたし、いずれ自分もそこにいくのだと自然と思っていた。
子供の頃のその想像は、寮で毎日のように子供たち同士やお母さんや先生と顔を会わせる生活の延長線上だったから、近くには当然のように那月がいたし、彰良がいた。だが、今それを想像すると、どうしても懲罰室のような空間しか浮かばない。そこでの自分はひとりきりで、何もない空間で誰にも会うことができないまま死んでいくのだ。
自分がそんな死に方をするのは苦しいし、那月や彰良がそんな死に方をするのはやはり苦しい。
「苦しんでる姿を見ずに済む、より、苦しんでるなら余計にそばにいたいと思う気がするんだけど」
「それは人によるわよね」
悠真の言葉を否定するような言葉に、視線を上げると瑠璃はやはり困ったような顔をしていた。
「人の死を忌避する文化ははるか昔からあるのだしね。私だったら親しくない人間の死は見たくないし、親しい人間の死も見たくない。離れに行った時点で天国に行ったとでも思えれば、それが一番よ」
そう思えれば、確かにそれが一番なのかもしれない。だが、実際には満彦は今でも生きているのだろうし、苦しんで寂しがっているかもしれないのだ。それなのに、どうして会うこともできないのだろう、と悠真はやはり考えてしまう。
「瑠璃さんは離れの中の人に会いたくないの?」
悠真が聞くと、彼女は少しだけ口元を緩めた。
「冷たいと思う?」
「ううん」
苦しんでいる姿を見たくないし、人間の死を見たくないという彼女だが、そんな彼女が医師なのだ。離れの中の人々の死を見守るのは彼女を含めた数少ない人間であり、彼女たちにだけは死を遠ざけるという船の配慮は嫌が応にも適用されないことになる。
「瑠璃さんは医師になりたくなかった?」
職業は選べるものではなく、船長が人員の特性や調整を考慮した上で勝手に任命するものだ。
悠真には優しくて気さくな彼女だが、人によって態度が違うのか医師としての評判は全く良くない。全員と関わるような医師という職業が向いているわけでもないのだろうし、人の死を見たくないというのなら、本当は彼女は医師になどなりたくなかったのではないか、と思ったのだ。
「医師に向いてないって思う?」
「そんなことないけど」
「ま、向いてないのは認めるけどね。でも私は医師になりたかったのよ」
「どうして?」
そう聞いた悠真に、瑠璃はふっと口元に笑みを浮かべる。
「もう少し仲良くなったら教えてあげてもいいけど、いまはまだ早いわね」
「え、俺の方はもうとっくに瑠璃さんと仲良しだと思ってたんだけど」
軽い口調でそんなことを言い返してみると、彼女はベッドに腰をかけたまま、さらりとした白のシーツを撫でる。そして黒い切れ長の瞳に、流すような視線を向けられて、悠真はどきりとした。
「少なくともまだ隣には座ってくれないわけでしょう?」
「うーん」
そう来るのか、と悠真は首を捻る。ならば確かにまだまだ早いだろう。
瑠璃が悠真を誘惑しているように見えるのは、いったい何なのだろう。年下の悠真をからかって反応を楽しんでいるのか、単純に暇つぶしにでも一夜の関係を望んでいるのか。なんにせよ、本気ではないはずだ。瑠璃が悠真に好意を持つ要素など思いつかないし、瑠璃と会うのは悠真が声をかけた時だけだ。彼女の方から連絡がきたことなど一度もない。
食事が届けられた音を聞いて、悠真は慌てて席を立つ。
何かの気まぐれででも、悠真としては良い機会だと乗れば良いだけなのかもしれない。が、瑠璃と関係を持ってしまうと、今度、普通の顔をして那月に会うことができなくなってしまう気がする。
とにかく食事を食べているうちに、聞きたいことだけを聞いて早く部屋に戻ろう——と。悠真は余計な思考に蓋をした。




