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あきらの一歩(5/5)



 聞きなれない音に、彰良の意識は急浮上する。


 目だけを開けて天井を睨んでいると、ふたたび短い音がした。何の音だったかと考えてから、彰良は時計を見る。朝食の時間はとうにすぎており、とっくに始業時間を指していた。目覚ましがわりの朝食の音には気づかなかったらしい。


 そう言えば今日は瑠璃が来るのだったか。部屋に人が訪ねてくることなどほぼなく、来客を知らせるベルの音は彼女が来た時にくらいしか聞けない。


 彰良は仕方なく体を起こして、ベッドから立ち上がる。


 昨夜、というよりも今朝方寝たばかりなのだが、だからと言っていつも目覚めは悪くない。今日は始業時刻を過ぎてから部屋を訪ねてくる医師を待たなければならず、起きるのはゆっくりで良いと思っていたから、寝過ごしたのだろうか。


 ドアを開けると、瑠璃は少しだけ驚いたような顔をした。明らかに寝起きの彰良に驚いたのか、何なのかは分からなかったが、彰良は無言で洗面所に入って顔を洗う。顔を上げて鏡を見ると、目つきの悪い痩せこけた男が睨みつけてきた。


「おはよう」


 背後からそんな言葉をかけられて、彰良も口の中で同じ言葉を返す。


 鏡越しに見る彼女は、しわひとつない真っ白な白衣を着て、髪も顔も隙なく完璧に整えてきており、目に眩しい気さえする。赤く色づく唇が少しだけ笑みの形を作る。


「あんまり出てこないから、中で倒れてるかと思ったわ」


 何度もベルを鳴らしたということだろうか。


「倒れてたらすぐに分かるだろ」

「死んでるとか呼吸が荒いとか痙攣してるとか、そんな分かりやすい倒れ方をしてくれてればね」


 その場合は医師である瑠璃に通知が行くということだ。プライバシーの観点からも個人の部屋まで撮影はされていないとされているが、体調に異変があったらすぐに気づくように特殊なセンサーは設置されている。


「でも彰良くんは部屋で死んでても気づかないかもね、って思ってるんだけど」

「そんな意味のない小細工はしてない」

「そう? 意味はあると思うけど。センサーが切られていれば、朝までゆっくり一緒にいられるもの」


 それはどういうつもりで言ったのだろう。確かにセンサーは安全のために付けられていると同時に、やはり監視の役割もある。二十二時を過ぎても部屋にいないとか、始業時間を過ぎても部屋にいるとかすれば、すぐに通報されるのだ。


 今のところは彰良は瑠璃の頼みは聞いている。意味もなく距離が近かったりもしないから、もう無駄な誘惑をするつもりはないのだろう、と思っていた。ならば時間をとって隠れて話がしたい何があるということか。彼女が前に言っていた『彰良にやってほしいこと』というのは、まだ話すら聞かされてない。


「深読みしないでね」


 心が読めるかのようなタイミングで声がかかる。


「単に好きな女の子でも男の子でも連れ込めていいわね、って言っただけだから」


 そんな言葉にちらりとだけ視線を向けてから、彰良は椅子に座る。返事をする気にもなれなかったが、彼女の方も気にした様子はない。彼女は普段どおりの様子でベッドに腰掛け、鞄を広げて手早く準備していく。


「定期的に体調を崩してくれるのは、私に会いたいから?」

「随分と自分本位な解釈をするな」

「だって船長の命令で、堂々と昼間から密談出来る相手なんて普通はいないわよ」


 たしかに密かに彰良を利用したい瑠璃にとっては、好都合だろう。普通なら、制御区と部屋との往復しかしない彰良に近づく口実などない。


「密談することがあるのか?」

「それを期待して呼んだのなら申し訳ないけど、今日のところは本当に診察に来ただけよ。彰良くんの体調なら船長だけでなく私も気になるもの」


 そんなことを言った医師を、彰良は鼻で笑った。


 彰良は特別だ、と言った船長の言葉を思い出したからだ。彼は彰良以外の人間なら替えがきくと言っていた。実際には彰良以外にも船長にとって替えのきかない人間はいるだろうが、何にせよその他の大多数は彼にとっては体調を気にかける必要もない単なる部品ということだ。


「利用できる相手以外の体調は気にならないのか」

「他人が病気になったところで、自分は痛くも痒くもないと思わない?」


 いかにもと言った台詞ではあるが、彰良は思わず苦笑する。


 たしかに他人が目の前で怪我をしたところで、彰良だって痛くも痒くもないし、聞かれてもそう答えるだろう。ただ、彰良はディスプレイを睨んでいれば良い制御士で、彼女は皆の体調を気にかけるべき医師というのが致命的な違いだ。悠真や那月が医師だったらもっと親身になって診察するだろうし、年下の康太などは医師になるための資格も人格も持っているはずだが、そんな人間に医師などやらせるはずがないのが、船長だったりもする。


「さほど顔色が悪いようには見えないのだけど。船長がわざわざ私を呼ぶくらいだから、もっと死にかけているかと思ったわ」


 だから余計に部屋の中の反応がなくて驚いたのだろうか。


「死んでなくて良かったな」

「本当にね。倒れるなら私のお願いを聞いてからにしてね」


 手早く彰良の体に機器を取り付けながら、彼女はそんなことを言う。つくづく医師には似つかわしくないが、話していて不快になることはない。何の下心もなく彰良の体調を心配する人間など逆に信用出来ないし、そんな上辺だけの言葉をかけられたところで、相手をするのも面倒だ。


「なら早くした方がいい。いつ死ぬかなんて自分では分からないからな」

「そうね。考えておくわ」


 そう言ったが、少なくとも今日ではないということだろう。何も言わずに手元の端末に送られるデータに視線を落とした瑠璃から視線を剥がし、彰良は机の上のミフユを撫でた。さらさらとして手触りの良いねずみ型の機械は、相変わらず電源が落ちたまましばらく起動していない。


 彰良の端末には、部品が届いたからミフユを治しにいっても良いか、という悠真からのメッセージが届いていたが、返信をしていなかった。


 彼に対してどう接して良いのか分からなくなっていたし、自分自身がどうしたいのかも分からないのだ。あの日、彼は食事を食べ終わると、全く口を開こうとしない彰良に困ったような笑みを浮かべながら帰って行った。悠真は自分の気持ちを言ってくれたのだし、彰良も何かしらそれに応える必要があることは分かっていたのだが、どうしても何を言えば良いのか分からなかった。


 今も何を返せば良いのかわからない。


 しばらく放置していたら、彼はまたふらりとやって来るだろうか。それとも今度は彰良が返信をするまで来ないだろうか。自分はどちらを望んでいるのだろう。


「ま、まだ死にはしないと思うけど」


 顔を上げた瑠璃はそんなことを言ったから、さほど悪い数値ではなかったのだろう。


「それは残念だ」

「そう? どうせいつかは死ぬんだから、それまではもっと楽しんでもいいと思うんだけど。たまには気分転換に眼鏡くらい覗いてみてもいいんじゃない?」

「機械が作る白昼夢なんかに興味はない」


 瑠璃は楽しそうに笑う。


「極端よね。適当に息抜きと思えばなかなか楽しいわよ。死にたいなんて考えるよりはずっと、有意義な時間が過ごせるわ」


 たしかに仮想空間は現実逃避のためのものだ。狭くて息苦しく、家族や友達なんてのも存在しないノアを忘れるための空間で、そこを帰る場所にすれば死にたいなんて思わないのかもしれない。


「何も生み出さない現実逃避が有意義か?」


 彰良にとっての現実逃避はきっと仕事で、就業時間以外の時間もほとんど端末に向き合っているし、何かのシステムを生み出し続けている。ただの時間潰しだが、それでも意味もなく時間を浪費するよりマシだという気はするのだ。


「大多数にとってはね。どうしてノアがみんなを何も生み出さない仮想空間に誘導してるか知ってる?」

「ノアに不満を抱かせないためだろ」

「ま、そうなんだけどね。私は時間を浪費させることと、人間関係を希薄にさせるため、っていうのが主だと思ってる」


 視線だけで話を促すと、彼女は続けてくる。


「現実だとどうしてもぶつかって憎み合ったり、組織ができて対立したりしちゃうからね。なるべく個人同士が関わらないようにしてるし、夜にね、徒党を組んで集会なんか開かれると面倒でしょう? だから門限を設けて各自部屋に戻る必要があるようにしてる」


 たしかに三百人もいないこの船の中で、対立だの乱闘だの戦争だの始まってしまうのは致命的だろう。


「だからなるべく自由時間も浪費させてるって?」

「暇があると争う時間にも話し合う時間にもなるし、何か船にとって不都合のあるものを生み出されちゃっても困るしね。大掛かりなテロとか、反乱とか」


 ふうん、と気のない返事だけをする。彼女の考えでいくと、何も生み出さない、ということに意味があると言いたいのだろう。それを聞かされたところで、ならば仮想現実で時間を浪費しようか、という気にはなれないが。


「彰良くんたちもね、似たようなことやってたでしょう?」

「は?」


 想定外の言葉に、思わず声が出る。瑠璃はこちらの反応を楽しむように笑った。


「あの花火はテロ行為みたいなものよね。夜間に制御区を乗っ取って、住民たちにこの小さな箱庭の現実を突きつける。あれが子供の悪戯じゃなく活動家の啓蒙行為だとしたら、確実に処刑されてたわよ」


 フラッシュバックするように、頭の中でうるさいくらいの音が再生される。目の奥に刺さるような閃光と、耳を劈くような爆音。那月の黒い瞳に映る花火の光は見られなかったが、興奮しながら花火の美しさを語る、那月のきらきらとした瞳は、すぐそこにあった。


 それは彼女のどんな笑顔よりも美しく、普段は出歩けない夜の時間に三人で乾杯をしたその記憶が、あまりに鮮明に蘇ってきて、彰良はどくどくと全身の血が脈打つような感覚を覚える。息苦しさに大きく息を吸った時に、冷たいものが首に触れてびくりと体を震わせる。


 彼女はその反応に気づいているだろうが、何食わぬ顔で彰良の首につけられているマーカーを取り外した。モニターされていることをすっかり忘れていた。もしかしたら脈拍数なんかが一気に跳ね上がったのかもしれない、と思うとますます焦る。


「……綺麗だったか?」


 焦りをごまかすためか、咄嗟に聞いていた。


 彰良は綺麗だなんて思えなかったし、船長に聞いた時にも呆れたような顔をされただけだった。瑠璃も同じような回答だろうと思っていたのだが、瑠璃はじっと彰良を見てから、いつになく真面目な顔で言った。


「世界観が変わるような、目が醒めるような光景だったのはたしかね。あれからメンタルの不調を訴えてきた患者さんが何人かいたもの」


 仮想空間ではあの程度の刺激には慣れているはずだと思うのだが、現実で目の当たりにすると受け止め方が違うのだろうか。もしくは花火なんか知らない人間は、単に爆発のように見えただろうから、世界(ノア)の終焉を覗いた気分になったのか。そんなことを考えていると、瑠璃がふふと笑った。


「でも、この間の虹は幻想的で綺麗だったわよ」


 彼女の言葉に、今度は悠真の顔が浮かぶ。


 虹が綺麗だった、というのは最近聞いたばかりの言葉だった。悠真は部屋から出ていく時にそう言ってから、遅くなったけど誕生日おめでとう、と言った。


 誕生日おめでとうというのは悠真からメッセージでもらっていたはずで、本来ならそれを言うべきは彰良の方だった。しかしメッセージを返すことはできず、それでも何かをしなければいけない気がして天空盤に虹を作ったのだ。


「……虹はなつきとはるま用だよ」


 どうでもいいことを口にすると、案の定、瑠璃は楽しそうに笑った。自分でも幼い子供のような言葉だと分かっている。


「彰良くんの口から誰かの名前が出るの初めてね」


 だからなんだというのだろう。

 彰良はなんとなく窓の外の空を見る。青いだけのそこに虹の光景は思い出せなかったが、それでも澄んだ青はいつもディスプレイだけ睨んでいる目には痛いほど眩しい。


 

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