なつきの迷い込んだ先は(3/4)
少し歩いていると、見慣れてしまった背中が見えた。
地面にあぐらをかいて座り込んでいるにもかかわらず、どこか背筋は伸びている。那月の足音に驚いたのか、彼は勢いよく振り返ってきた。鋭い瞳に見据えられ、那月は思わず足を止めた。
「ごめんなさい」
集中して作業をしているところを邪魔してしまっただろうか。慌てて謝ると、男はじっと那月を見るようにしてから、ゆっくりと首を横に振った。
「また許可もなく出歩いているのか?」
落ち着いた重低音の声。許可もなく、と言う言葉が今日はいつになく刺さって苦笑する。
当然だが仕事中に出歩くことなんて出来ないし、許可をもらう必要がある。というより、昼間に用事もなく出歩く許可などどう頑張っても出るわけがないから、本来ならどこかに訪問する用事があるに決まっているのだ。
「蒼太さんも?」
「俺は今日は仕事中だ」
言われるまでもなく、彼が仕事中だと言うのは座った彼の周りに散乱している機器を見れば一目でわかる。それでも聞いたのは、彼とはこれまでもたびたび顔を合わせていたからだ。そして、今日は、と彼自身が言ったように、仕事をしているように見えるのは初めてだった。
初めて彼に会ったのは数ヶ月前で、その時の彼はただ座って空を見上げていた。日中に職務についているわけでもなくただぼうっとしているように見える男性を見て、体調でも悪くして動けないのかと思わず声をかけたのだ。
彼の方もそんな中途半端な時間に人がいるとは思っていなかったのか、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに立ち上がった。体格の良い背格好は珍しく、どことなく悠真に似ているが、まとう雰囲気は全く違う。悠真が明るくて柔らかい雰囲気なのに対し、蒼太の方は黒い服装の印象もあったのかもしれないが暗くて硬い。
体調に問題はないから気にしなくて良い、とだけ言うと、彼はそのまま立ち去ってしまった。
この狭い船の中で、顔を知らない人間というのはそうはいない。蒼太はそんな数少ない人間の一人だったが、名乗ってもらうまでもなく彼の名前はすぐに分かった。それだけ彼の首につけられた異質な機械は目を引いたのだ。
数日と空けずに彼とは再会した。
今度はふらりと目的地もなさそうな足取りで歩いていた彼と目があって、那月から声をかけてみた。人を寄せ付けない雰囲気ではあったが、話しかけてみるとちゃんと言葉を返してくれたし、那月が名乗れば彼も名前を教えてくれた。彼の方も、昼間から同じように出歩いている那月が何者なのか気になっていたらしい。何をしているのかと聞かれて散歩だと答えると、彼は奇妙な顔をしたのだが、何をしていたのだと聞くと彼の方も真似をするように散歩だと言った。
それからというもの、散歩中にたびたび顔を合わせるようになった。
「何をしているの?」
「非常区画が動かなくなっているらしい」
だから修理しているということなのだろう。十年以上をかけて基盤区内でレックスの修理をしていたという彼なら、朝飯前の作業のはずだ。数ヶ月前から居住区内で見かけるようになったのも、レックスから手が離れたことで急に時間ができるようになったかららしい。
彼の首につけられた監視装置は、位置はもとより周囲の映像や音声も常時拾っているはずだ。彼が仕事をサボっていることは筒抜けだろうが、それでも何も言われないのは、やはり彼が優秀だからなのだろう。当然ながら彼と話をしている那月の声も筒抜けであり、彼も最初は那月の立場を心配して言葉少なだったようだったが、那月が気にしないと言ったからか、普通に会話してくれるようになった。
「直せそう?」
「とりあえず動かすだけならな」
「動かすだけ?」
「全ての部品が古いからな。本当なら作り直したいところだが、それなりに資材がいるな」
ノアは完全に老朽化しているし、恒常的な資源不足なのだ。人々を乗せたままゆるゆると死んでいっていると言ってもよく、技術レベルや生活レベルは発展しているどころか、二百年前とは比べものにならないほどに低いのではないかと彰良は言っていた。
「そのための資材なら他に回したいわね」
「俺もそう思う。非常区画が動くほどの異常事態に耐えられるほどの体力が、今のノアに残ってるとは思えないからな」
ひやりとするようなことを言う。
ここではノアの状態について公言することはタブーだ。
ノアは単なる船ではなく、那月たちの生きる世界そのものだ。ノアが宇宙船であり新天地を目指して飛行していることは周知の事実だが、それでいて、ここが有限の資源しか持たない狭い船内であるということを口にすることは許されない。もしかしたら明日にでも食料や酸素が尽きるのかもしれないとか、老朽化した船体に穴があくとか、恒星に頭から突っ込む軌道に乗っているとか、そんなことが噂ででも広がれば大パニックになる。そうでなくても将来に悲観して自殺やテロ行為が増える可能性があるから、と個人で情報を収集することも、他人に情報を共有することも許されていないのだ。
「とはいえ、警告が出たまま放置するわけにはいかないらしい。最低限、動かせるようにしてほしいと言うのがリクエストだな」
そう、と那月は呟く。
異常事態に耐えられるほどの体力がない、なんて普通は口が裂けても言えないだろうから、目に見える警告を無視して非常区画を修理しないという選択肢は上には無いのだろう。それでもそこに資源を割くのはもったいないという判断はあり、最低限の修理だけを蒼太に頼んだのだ。そこに本職の担当者を当てなかったのは、蒼太の方が柔軟に対応してくれると思ったからか、単純に手が足りなかっただけだろうか。
「船長から指示を受けているの?」
「ああ」
彼も彰良などと同じで船長のお気に入りなのだろう。普通はその職場や区域の長から指示があるが、船長は目をかけた人間には直接にいろいろな仕事を頼んでいる。蒼太は何年も前に傷害事件を起こして懲役しているのだが、そんなものが気にならないほどに蒼太が優秀で有能なのだろう。
那月自身、彼と話をしていてもさほどに悪い人には思えない、というのが実感だった。大柄な体格と短髪、どこか鋭く人を見るような視線に、初対面では少し恐ろしくも見えるのだが、話してみると穏やかで落ち着いている。表情も声音も単調なのだが、無感情や機械的というわけでなく、こうして昼間から出歩いている那月のことを心配してくれる人なのだ。冤罪でない限り、彼が傷つけた誰かがいることは事実であり、こうして気軽に話しかけて良い相手なのかと迷うことがあるのだが、それでも何か事情があったのではないかと思ってしまう。
事件については秘匿されているし、犯罪者である彼は監査員の監査対象ではなく、直接、船長や研究員の監視下に置かれているから資料を閲覧する機会もない。背景がわからないことは恐ろしい気はするのだが、本人に直接、事件のことを聞けるほどの関係性でもない。だが本当に危険な人物なら、外で監視するのではなく閉じ込めるのではないかと思うから、本気で危険視はされていないのだろう。
「——ついでに言うと、那月に近づくな、という命令も受けてる」
続けられた言葉に那月は思わず視線を上げた。いつもまっすぐにこちらを見てくる黒い瞳は、覗き返しても全く感情は読めない。那月は何度か瞬きをしてから、念のために聞いてみる。
「船長から?」
「ああ」
その答えに、那月はただただ苦い息を吐く。
彰良に近づくなというのは子供の頃から耳にタコができるほど言われていたし、同じだけ彰良も聞いていたはずだ。那月の存在が彰良に悪影響を及ぼすから、という船長の懸念はあながち間違いではなかっただろう。彰良は型に嵌った優等生というタイプではないが、それでも那月と一緒でなければ、何度も懲罰室にいれられるようなことはなかったはずだ。たくさん時間をかけて、一緒にくだらない話をしたり、なんの役にも立たないものを作ってきたが、それも船長に言わせれば彰良の貴重な時間を浪費するなということだ。
奔放に動いている那月が、蒼太に何かしらの悪影響を及ぼすことを考えているのか、それとも那月と話すことでただただ無駄な時間を使うなと言っているのかは分からないが、何にせよ遅かれ早かれ船長が言いそうなことではある。
「那月がどうと言うより、俺が他人に近づくなと言うことだ」
那月の心を読んだかのように、蒼太は言葉を足す。
じっとこちらを見る黒い瞳はやはり感情をうかがわせない。だが、那月側の問題ではないとフォローしてくれたのだろうか。そんなことを考えていると、彼は何故か首に装着された金属に指をかける。
——瞬間、バチン、という大きな音がして彼の手が弾かれた。
痛みか反動か、蒼太の顔は一瞬だけ顰められた。驚いて目を丸くした那月に対して、彼は口元にだけ笑みのようなものを浮かべる。
「俺は罪人だからな」
痺れているのか細かく震える指先を見下ろしてから、蒼太はぎゅっと拳を握り込む。
「他人が一定距離内に近づいても同じように電圧がかかるようになっている。いつ設定を変えられるかも分からないからな。あまり近寄らないでもらえると助かる」
どういう意図でそんなことを言ったのだろう。
那月は未だに驚いてどきどきしている心臓の音を感じながら、ぎゅっと握られた彼の大きな手を見下ろす。電圧に弾かれて痛い思いまでして、わざわざ自分でそこに触れる意味などない。船長に命じられたからもう会えないと言えば良かっただけなのだ。派手な音を出したパフォーマンスは、単純に那月を怯えさせようとしたのか、それとも彼が罪人であることを改めてこちらに示したかったのか。
蒼太はしばらく拳を握っていたが、やがて足元の工具を拾った。
無言で作業に戻った彼の背中を見下ろしながら、那月は何を言えば良いのか迷う。もう会えないのは寂しいと言えば良いのか、彼に迷惑をかけたことを詫びて二度と話しかけないと言えば良いのか。それとも那月のことを気遣って言葉を選んでくれたことに、感謝をして立ち去れば良いのか。
彰良も那月に近づくなとずっと言われていたのだが、それでも一緒にいられたのは、結局は彰良の意に沿わないことを強制できる人間がいなかったということだ。彰良はこの船で代えのきかない貴重な人間であり、なおかつ彰良には確固たる意思がある。報酬や懲罰として仮想空間や時間や金銭を与奪されたところで、彰良が動かないのは船長も知っているだろう。
蒼太も彰良と同じで全く代えのきかない貴重な人物であることは間違いない。だが、蒼太はそこまでして那月に会う必要はないだろうし、船長の命に背く必要もない。そうでなくとも彼は首輪をつけて監視されている身であり、立場も彰良や那月とは全く違うのだ。これまで那月に付き合って話をしてくれていたのも、もしかしたら彼にとっては負担だったかもしれない。
「……うん。許可が出ればまたね」
努めて明るく声をかけてから、那月も彼に背を向ける。
許可など出るはずもないし、彼が振り返ってくることもないだろう、というのは確信があった。彼の元から足早に歩み去りながら、那月は何故だか無性に泣きたくなる。友人というわけでもないし、それほど話ができたわけでもない。もう二度と会えないと言われたところで、特にそれが悲しいわけでもないのだが。
ただただ狭くて小さな世界が息苦しくて、歩きながら青く塗りつぶされた空を仰ぐ。
本物の空はもっと大きくて広いのだろうか。そこには当然だが大きな虹の橋も、覆い被さってくるような花火もない。




