空にかかる渡れない橋(2/3)
朝、目を覚まして端末を確認したが、何もメッセージは来ていなかった。
昨夜の遅くに彰良に一言『誕生日おめでとう』とだけ送ったのだが、当然なのか何なのか、返信はない。悠真は何もない画面をしばらく見てから、白いねずみを撫でる。
「おはよう、ミフユ」
不思議そうにこちらを見上げる赤い瞳は、もしかしたらミフユに起こされる前に悠真が起きたからかもしれない。ミフユが鳴く前に起きるのは奇跡的で、昨日は部屋に戻ってもなかなか寝付けなかったのだが、それでも朝は日が登るとすんなり起きることができた。
悠真にキスをしてきた那月の顔を思い出すと、今でもどくりと心臓がおかしな動きをする。
きらきらに飾り付けられた部屋で、いつもよりも綺麗で大人に見えた那月が、不意に悠真に口付けた。唇が離れた時に見えたその恥ずかしそうな表情が、なんとも言えず扇情的で、悠真はその場で彼女を押し倒したい衝動と闘っていたのだ。
ずっと三人で家族みたいに一緒にいたい——と言っていたはずの彼女が、悠真に自分からキスしてくるというのは、どういう心変わりなのだろう。悠真がキスしてもいいかと聞いても、前のように困った顔をされはしなかった。静かにそれを受け入れてくれた彼女の頬は赤く、恥じらっているようにも幸せそうにも見えて、これ以上ないほど悠真の心臓がうるさく鳴った。これまで見たことのない那月の顔を見て、悠真は舞い上がるような気持ちになったのだが——同時に心の片隅でどこか不安になるような気持ちもあった。
昨日の那月がこれまでの那月でないのだとしたら、彼女はこれまでのように無条件に悠真を慕ってくれ、一緒にいたいと思ってくれるのだろうか。
そして悠真と那月が一緒にいる限り、彰良に会うことはできないのではないか、と。
やはりそんなことを考えてしまう。彰良が那月にしたことは許せないのだが、なんとなく彼は那月以上に傷ついているように見えるのだし、悠真が彰良を友人として好きだというのも変わりはない。昨日も部屋に帰って日付が変わる前に、衝動的に連絡してしまったのだが、もしかしたら起きたら返信が来ているのではないか——と。そんな期待をしたが、やはり返信はなかった。だが、返信があって彼がこれまで通りに接してくれるようになったら、この関係はどうなるのだろう。
二人でキスをしていたことを知れば、彰良はまた去っていくような気がするし、彰良がいれば那月は悠真にキスをすることはなかったような気もする。
色々と考えながら準備をしていたら、いつもより早く起きたにも関わらず、いつものようにぎりぎりの時間になってしまった。行ってくるよ、とミフユに声をかけた瞬間に、腕につけている端末が鳴った。
表示を見てどきりとした。普段は那月から朝に連絡があることなどないのだが、何かあったのだろうか。もしくは昨日のことで何か思うところがあったのか。どきどきとしながらボタンを押すと、興奮したような那月の声がした。
「悠真、外にいる?」
挨拶もなしに告げられた言葉に悠真は離れた相手に首を傾げる。
「まだ部屋だけど」
「早く外に出てみて!」
そんなことを言われて、慌てて部屋の外に出る。建物の外に飛び出すと、すぐに那月の言いたいことは分かった。目の前に広がった光景に思わず息を飲む。
小さな青い空に、鮮やかな色彩の橋が架かっていた。紫色のふちから青色が滲み、緑の淡い色彩を経て黄色や赤が続く。いつも日の出と共に青い空と太陽しか映さない天空盤に、大きな虹が映されているのだ。それは青い空にくっきりと映えていて、驚くほどに綺麗だった。
「……あき」
こんなことが出来るのも、こんなことをやるのも彰良しかいないだろう。
うん、と聞こえて、まだ那月と通信が繋がっていたのだと思い出す。外に出て、と言った他は何も言葉を発していなかった彼女は、ただただひとりで美しい空を見上げていたのだろう。
外に出て空を見上げているのは悠真だけでなく、職場に向かっていた多くの人が足を止めて天を仰いでいるのが見える。綺麗だと思っているのか、恐ろしいと思っているのか、それともただただ困惑してそれを見上げているのか。急に虹がかかった意味が分かるのは、きっと那月や悠真だけだろう。
「誕生日おめでとうって。なつ」
「……そう思う?」
なんだか泣きそうな声で言われて、どきりとする。彼女はそれを悠真に言ってもらいたくて、メッセージだけでなく通話をしてきたのだと思った。
「他にあるか?」
ん、と肯定とも否定ともつかない言葉を彼女が言うと共に、ぱちりと画面が切り替わるように虹が消えた。
もともと消える予定だったのか、それとも制御区の人間に消されたのかは分からないが、もともと短い時間の命だというのは分かっていただろう。花火も夜間であってもすぐに対応されたのだ。
それでまだ就業時間前の朝の時間を狙ったのは、那月や悠真が確実に外にいる時間を狙ったのだろう。もしくは他の同僚のいない時間でやりやすかったのかもしれない。
周りの人々が走り出すのが見えて、もうすぐ就業時間なのだと思い出す。悠真も走り出しながら、遅刻をしないように端末越しに那月の足を促した。




