なつきの現在地(3/4)
「はるま、おかえり」
そんなことを言って出迎えたユキに、悠真は楽しそうに笑った。
「ユキの中で俺の家はここになっているのか?」
「ううん。そうなればいいなって思ってるだけ。そうすればユキもなつきも、毎日はるまに会えるもん」
悠真はやはり笑って、足元に擦り寄っていたユキの体を抱き上げる。
なんとなく、それを見て那月は羨ましいと思ってしまった。毎日会いたいなんて、那月は思っていても口には出せない。相変わらず那月の前ではいつも楽しそうに笑っているが、やはり悠真も仕事をするようになってから疲れているように見えるのだ。
前に彼は、同室で作業をしている整備士が黙々と作業をしているから、休む時間もないよと言ったことがあった。それを考えると、勝手に休憩をとって勝手に出歩く那月は、やはり我儘なのだろう。そんな那月が、彼の休息の時間を度々奪ってしまって良いのかと考えてしまうことがある。しかも彼はいつも那月の部屋まで歩いてきてくれて、部屋のロックされる二十二時ぎりぎりに走って帰ってくれるのだ。
悠真は那月と会っていない時は、ずっと寝転んで眼鏡の中の世界にいると言っている。良く眼鏡をかけたまま寝てしまったとも言っているから、それだけ疲れているのか、それともそれだけその世界の中が充実していて楽しめるのか。
もしかしたら那月のところに会いにきてくれるのは、寂しがっている那月のためで、優しい彼はそれを義務のように思っているのかもしれない——と。最近、そんなことを考えてしまうのは、前ほどに会話が続かなくなってしまったからだろう。居心地が悪い沈黙というわけではないが、次は何を話そうか、と話題を考えこんでいるタイミングがある。悠真もそれは同じなのか、二人きりでいてもぼうっと宙を見ているような時間があるし、唐突に話題を変えてくることも多い。
「ユキは元気そうだけど、ミフユは元気かな」
悠真はそう言って、ユキの小さな体を抱いたまま、指先で黒いミフユの背を撫でた。ミフユはキュウと鳴いたが、いつものように楽しそうに走り回ったりはしない。
「落としちゃったすぐ後はちゃんと動いてたんだけど、だんだん動かなくなっちゃって」
悠真は抱いていたユキを那月に渡すと、ミフユを手のひらに乗せた。そして那月に、ミフユの電源を落とすよ、と許可を取る。
「うん。治るかな?」
「どうかな、見てみるよ」
そう言って椅子に座ってミフユの体を慣れた手つきで分解し始める。
前に悠真のミフユが動かなくなった時とは違い、随分と手慣れた様子だ。整備士という仕事はそれが本職なのだろうから、当然といえば当然なのだろうが、那月は思わず見入ってしまう。見ているうちに、左手の人差し指は怪我をしているのだろうか、と気づく。目立たない色だがバンドが巻いてあるように見えるし、他の指と違ってあまり動かしていない。
「怪我をしたの?」
「ああ、これ?」
彼は人差し指をかざして見せる。
「作業中にうっかり自分の指を切りつけちゃったよ」
「え、大丈夫? 病院に行った?」
「ああ。うまく処置してもらったからか、大して痛みもしないよ。痛み止めを貰ったけど飲んでもない」
病院に行くほどの怪我だったのかと思うと痛々しいし、あの医師が痛み止めをわざわざ処方したというのなら、やはりひどい怪我なのだろう。
「ごめんなさい。怪我をしてるのに、仕事でもないことをお願いしちゃって」
那月の言葉に、悠真は首を傾げる。
「なに言ってるんだよ? 那月のミフユの調子が悪いなんて聞いたら、仕事を放り出してでも飛んでくるよ——まあ、定時刻まで働いてから来たけどさ」
そんな風に笑いながら言われて、ありがとう、と笑顔を返す。
実際、彼は仕事が終わったらすぐに来てくれたのだ。ふと夕飯を食べていなかったと思い出し、彼も食事も取らずに来てくれたのだということに思い当たる。
「ご飯を頼みましょうか?」
「何か片手で食べられそうなもの頼んでくれるか?」
「私が食べさせてあげても良いけれど」
両手がふさがっているのなら、と思って言った言葉だったのだが、悠真はこちらを見て何度か瞬きをする。それから楽しそうに笑った。
「離乳食みたいに?」
「赤ちゃんに食べさせるのは得意よ」
「それはそれで楽しそうではあるけど、また今度な。指を切るくらいならいいけど、うっかりミフユを壊しちゃいそうだ」
集中しないと、ということなのだろう。
そもそも限られた時間の中で、修理が完了するようにと急いで来てくれたのだ。無言で作業に戻った悠真を見ながら、那月は食べやすそうなものを選んで部屋まで届けてもらえるように注文する。
黙々と作業をしている悠真を見ながら、なんだか訳もなく寂しくなった。
前に悠真のミフユが壊れてしまった時には彰良がいて、二人は色々と話をしながら修理をしていた。それを那月は見守っていたのだが、そんな那月に彰良は彼のミフユを貸してくれたのだし、悠真も彰良や那月に色々と説明をしながら作業を進めてくれていたのだ。
彰良が会いに来てくれないのは、きっと那月に会いたくないためだろう、と思っていた。
彼は那月のことが好きだと言ってくれていたが、結局、那月は何も言えないまま寮をでた。彰良と悠真のどちらが好きなのだと聞かれても、どちらも好きなのだとしか答えられないのだ。そんな那月に愛想を尽かしたのか、それとも寮を離れて那月たちと会わないでいるうちに、もう那月などに興味を無くしてしまったのか。なんにせよ、彼は那月に会いたくなくなってしまったのだろう。
だが彼は那月とだけでなく、悠真とも会っていないようだった。悠真は彰良のことを好きなのだし、彰良も悠真と一緒にいてとても楽しそうだった。もしも那月のせいで二人が会えないのだとしたら、それは本当に悲しいことだと思うし、申し訳がない気持ちにもなる。
彼は時おり食事を口に入れながら、ほとんど視線は手元から動かさない。那月が黙って悠真の横顔と、彼の手元を眺めていると、急に仰向けになったままミフユの手足がバタバタと元気に動いた。思わず立ち上がって悠真の横からミフユを見下ろす。
「うごいた?」
「動くようになったみたいだな」
彼はそう言うと、ミフユの体を丁寧に閉じてから、那月に渡してくれた。手の中に入れた小さな黒いねずみは、キュウと鳴いて那月を見上げる。
「ミフユ、元気になった?」
そう言うと、手のひらの中でくるくると元気に回る。
「ありがとう!」
座ったままの悠真にぎゅっと抱きつくと、彼は笑って那月の背を撫でてくれる。そして悠真は机の上に置いた時計をちらりと見てから、もうこんな時間か、と言った。いつの間にか時間は二十一時を指している。
「遅くまでありがとう」
「ん。仕事が役に立ったな。整備士の同僚には、こんなこともできないのかと呆れられてばっかりだけどな」
「そうなの? こんなことが出来るのに?」
那月が目を丸くすると、悠真は楽しそうに笑ってから、伸びをするように立ち上がった。
「ミフユも元気になったし、部屋に戻ろうかな?」
「……うん、本当にありがとう」
那月は笑顔でそう言いながらも、複雑な気分になってしまって、そんな自分をひどい人間だと反省した。ほとんど何も話ができず、いつもよりも少し早く部屋に戻る悠真に対して、寂しいと思ってしまったのだ。疲れているところをわざわざ那月のために来てもらって、食事もそこそこにずっと作業をしてもらったのに、だ。
「またね」
那月が言うと、彼は「ああ」とにっこりと笑ってから、ユキを抱き上げる。
「ユキもまた。なつを頼むな」
ぎゅっとユキの小さな体を抱きしめてから、彼は部屋を出て行った。那月は外まで彼を見送ってから、彼が抱きしめたユキの温かい体をぎゅうと抱いた。




