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なつきの現在地(2/4)

 

「なつき、おはよう。見て、お外が明るくなったよ」


 頬に鼻を擦り付けるようにして言われた言葉に、那月は瞳を閉じたまま口元を綻ばせる。顔に手をやると、ふわりとした温かな毛並みに触れた。


 ユキは毎朝、色々な言葉や仕草で起こしてくれる。それは同じように繰り返される毎日が、当然だけれど毎日別の日なのだと思わせてくれて、とても気に入っていた。ミフユはあらかじめ教えた方法でしか起こしてくれないから、ユキはやはり賢いのだろう。


 那月とずっと話をしているから、那月のことをよく分かっているのか、それとも彰良があらかじめ情報をインプットしてくれているのか。那月はユキの茶色の体を持ち上げて、ぎゅっと抱きしめる。


「おはよう、ユキちゃん。今日も相変わらず可愛いね」

「なつきも可愛いよ」

「ありがとう。ミフユもね」


 そう言って名前を呼ぶと、ミフユはその場から動かずにキュウと小さく鳴いた。


 先日、船長に会った時に落としてしまったからだろうか。ミフユの動きがどこかぎこちなくて、壊れてしまったのかもしれないと思っていた。悠真に相談して、今夜来て診てもらうことになっている。


 那月は起き上がって朝の支度をする。


 寮にいた頃は毎朝、食堂に行ってみんなと挨拶をしたり、他愛のない話が出来たのだが、いまはひとりぼっちの自室で朝食を食べて、ひとりぼっちの作業室で昼食を食べている。それはとても寂しいのだが、それでも朝はユキが話し相手になってくれるし、昼はこっそりと持ち込んでいるミフユに向かって話しかけることができる。他の人たちよりは寂しくないような気がするのだが、みんなはどうしているのだろう。悠真や職場の同僚に話に聞いたら、眼鏡をかけて映像を見たりゲームをしながら食べていると言っていたので、それで寂しくないのかもしれない。


「今日はミフユもお留守番ね。ユキちゃんと仲良くしててね」

「ユキがミフユと遊んであげるね」

「ありがとう。でもちょっとミフユは弱ってるかもしれないから、そのまま寝かしてあげてて」

「ミフユ病気なの? 大丈夫?」

「大丈夫。今日は悠真が来てきっと治してくれるから」

「はるまが来るの? 嬉しいな」


 そう言ってぴょんと跳ねた仔犬に那月は笑顔を返す。


 ユキは悠真のことが大好きで、懐いている。それは最初からユキが那月のことを認識したように、悠真の情報も予めインプットしているのか、それとも彼が一緒にいる時間が長いから学習しているからかは分からない。ユキを抱いている悠真を見るたびに、ユキに彰良を会わせたいと思うのだが、彰良はいくら連絡をしても返事をくれない。


 ——彰良はもう那月に会ってはくれないのだろうか。


 そんな思いを胸に閉じ込めるように、那月は部屋に残るユキとミフユに笑顔で行ってきますと言った。


 今日は作業室でなく外に出る仕事なので、いつもと全く気分は違う。データを集めて解析するだけなら人工知能にもやれるが、そこから実際に人や場所を訪ねて色々とヒアリングしたり、その人の表情を観察したりするのは人間にしか出来ないことだ。そのため、事前に監査士長や船長の許可を得れば、いろいろな場所に出向いて話をすることができるのだ。


 朝から保育所に向かうと、お母さんや保育所で子供たちの世話をしていた紗南に会うことができた。


 ここに仕事で訪れたのはこれで二度目で、那月のためにお母さんは近くにいた他の子供達も呼んでくれた。寮にいた時はそれなりに厳しかったお母さんも、那月が大人になって対等な立場になったからか、それとも那月が監査士として来ているからか、とても優しくてどこかよそよそしい。それはやはり寂しいことなのだが、子供たちは変わらず接してくれるから救われていた。一時間ほど会話をして保育所から出て行こうとした時に、名前を呼ばれて振り返る。


「那月ちゃん!」


 遠くからそう呼んでくれたのは、学校で授業を受けていたため会えなかった陽菜で、彼女は窓を開けて身を乗り出して叫んでいた。那月が笑って手を振ると、彼女も両手で手を振ってくれる。だが、すぐにぴしゃりと窓が閉められてしまったから、先生が閉めたのだろう。


 陽菜がひどく叱られないと良いと思いながらも、まだ彼女が変わらずにいてくれたことに心が温かくなる。陽菜には約束どおり毎日メッセージを残していたし、彼女からもちゃんと返事がある。だが、それが彼女の負担になっているかもしれないと心配して、そろそろ連絡の頻度を落とすべきかと悩んでいたのだ。


 温かい気分で学校や保育所のある区画を出て、次の訪問先である診療所へと歩いていく。


 事前に行くことを伝えていなかったからか、無人の受付で少し待たされてから、診察室へと通される。中にいたのは若い女性の医師で、彼女は那月が入るとあからさまに迷惑そうな顔をした。


 こちらが用件を告げる前に、冷たい口調で告げられる。


「別に抜き打ちで来てもらっても構わないけれど、出来れば時期と時間は選んでもらえないかしら」


 稼働の統計データなどを確認して、一応は相手方の職業に合わせた時間帯を選んでいるつもりではあるのだが、何か気に入らないことがあったのだろう。そもそも監査というだけで嫌な顔をされるから、別に珍しい反応でもない。


 ごめんなさい、と那月は頭を下げる。


 忙しいのなら出直そうかと言いたいところではあるが、それで何かしらデータを改竄されては困るので、そういうわけにもいかない。それにどうせなら一度で用事を済ませてしまいたいという思いもあった。


 そもそも那月はこの医師が苦手で、出来れば話をしたい相手ではないのだ。


 少し頭が痛いと言ったところで、数値に異常はないのに、とあからさまに面倒そうな顔をしながら薬を放られる。こんな様子では誰も病院に行きたがらないのではないかと思うのだが、それこそがこの医師の狙いなのかも知れないとも思っていた。仮病などを使うこともある面倒な来院患者の相手などしなくとも、ヘルスチェックで数値に異常のある患者だけ診ていれば、それで医師としての役目は十分なのだ。敢えて親しみやすく敷居を低くして、大勢に来てもらう必要などない。


 その傾向は別に彼女だけでなく、他の職業でも同じだ。仕事や役割は各個人に割り当てられているため、なるべく面倒な方向にならないように調整して、仕事量を減らしたいと考える人間は意外に多い。


「で? 何が見たいの? 船長の許可は取っているのでしょうから、全船員のカルテでも診療室内の会話記録でも好きなものを見せてあげるわよ」


 そう言いながらも、忙しそうに端末を操作している彼女は、患者もいないのに何が忙しいのだろう。研究室にも兼務で在籍していると聞くから、研究の方が忙しいのか。


「こちらに申請のない通信機器がありますよね?」


 那月の言葉に、彼女は手を止めた。少し考えるような間を置いてから、くるりと椅子を回転させてこちらを見る。


「どうしてそう思うの?」

「ここの診療情報のデータ履歴を追っていくと、NOA15T-023ACという識別番号を持つ端末が二台存在するように見えます」


 基本的に全ての端末に識別番号を振っており、所在地の位置情報とともに発信している。それは重複することなどないはずなのだが、データの内容を見ていると複数台で作業をしているように見えるのだ。一度、識別番号を振ると変更するなどの偽装は難しいと聞いているが、一度も申請せずに識別番号の振られていない機器であれば、何かしら誤魔化すことは可能なのかも知れない。


 彼女はしばらく黙っていたが、やがて赤く口紅を塗った唇の端を上げた。ほとんど彼女が笑うところなど見たことがなかったので、なぜかどきりとしてしまった。もともと綺麗な女性なのだが、笑うとさらに綺麗で妖艶に見える。


「すごいわね、バレちゃった? このタブレット、本当はこっそり私物を持ち込んでるのよね」


 そう言って彼女は先ほどまで操作していた薄型のデバイスを持ち上げる。口元は笑んでいても、黒い瞳の奥は笑っていないように見えて、那月は首を傾げた。


「なんのために?」

「何かと便利じゃない。部屋に仕事を持ち帰ることもできるし、私的なやりとりを職場に持ち込むこともできる」


 あっけらかんと白状されて、那月は内心でますます首を傾げる。誤魔化すつもりがないのは、別にバレたところで困らないと思っているのか、それともその言葉自体が実は何かの誤魔化しなのか。


「もちろんそれが処罰の対象になることだと、分かっていますよね?」

「もちろん。——といっても、どうせこれが没収されて、減給されるという程度でしょう? その程度なら別に困らないし、なんなら船長に泣きついて許してもらうから大丈夫よ」


 ふっとした笑みを浮かべて黒い瞳を細くした医師は、そういえば船長のお気に入りなのだと思い出す。優秀で事務的で無駄なことを嫌う彼女は、まさに船長に瓜二つだ。そうでなくともこの美しい女性に泣きつかれれば、どんな男もきっと悪い気はするまい。


 那月は何を言おうかしばし迷ってから、言葉を飲み込む。事務的なことのみを告げた。


「ひとまずそちらのタブレットの識別番号を確認させていただいてもよろしいですか? それから念のため、中身についてもコピーさせていただきます」


 どうぞ、と簡単にデバイスを手渡してきた女性に頭を下げる。那月は余計なことを考えずに、目の前の自分の仕事に専念することにした。


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