はるまの現在地(4/4)
病院に着いてから、しんとした建物の中で受付の機械に向かって用件を喋ると、他に患者もいないのだろう、すぐに診察室に案内された。
小さな部屋の中に座っていたのは瑠璃という、悠真の七つか八つ年上の医師だった。一緒に寮で暮らしていたのはほんの数年だったし、年も離れていたからさほど話したことがあるわけではない。優等生ではあったが、物静かで目立つタイプでもなかったように記憶しているのだが、今は赤く塗られた唇と、片耳に付けられたいくつものピアスが目を引いた。
「こんにちは、瑠璃さん」
にっこりと笑って挨拶をすると、彼女も同じように笑顔を返してくれた。彼女のことを冷たくて近寄り難いという人も多いのだが、悠真はあまりそれを感じたことはない。なんとなく小さな子供の頃から、瑠璃からは気に入られているような気がしていた。実際、那月などは彼女が笑うところなど想像もできないと言うが、悠真はそれを何度も見たことがある。
「こんにちは。素敵な髪の色ね」
「本当? そう言ってくれる人は貴重だから嬉しいな」
悠真はいつものように髪に手をやろうとしてから、痛みに顔を顰める。その指を怪我をしてここにいるのだ、と言うことを一瞬すっかり忘れていた。瑠璃もそれに気付いたようで、楽しそうに笑う。
「聞かなくてもどこを怪我したかわかったわね。みせてみて」
彼女の目の前の椅子に座ってから、怪我をした左手を差し出す。
彼女は痛み止めだと言ってバンドで巻いた指の付け根に小さな針を刺した。少し待っててね、と言ったのは痛み止めが効くまでの時間だろうか。瑠璃は傷に巻いたバンドを外そうとはせずに、なぜか悠真の頭に手を伸ばしてきた。淡い銀色の髪に触れられて、悠真はその手を見上げる。
「髪の毛が気に入った?」
「ええ。綺麗に染まってる。瞳の色もとても綺麗。悠真に似合うわね」
すぐ近くから瞳を覗き込まれてどきりとした。瑠璃の瞳は那月と同じように黒くて綺麗だが、ぱっちりとして明るい印象の那月に比べて、彼女の方は切長の目が涼しげでとても大人びて見える。
「私にも似合うかしら?」
「似合うと思うけど、みんなびっくりするんじゃないかな」
すっかり慣れてしまっているが、未だに悠真のことを変な顔で見つめてくる人はいる。彼女は艶やかな黒髪で、それがとても似合っているから、急に悠真のような目立つ色に変えると驚かれるだろう。
瑠璃は何も言わずに笑ったが、手は悠真の髪の先を弄ぶように触れたままだ。
「瑠璃さんはそのピアスが素敵だね」
「取ってつけたように褒めてくれなくても大丈夫よ」
そんなことを言って笑った瑠璃は、悠真の頭に乗せていた手を彼女の耳に持っていく。彼女が何気ない様子で耳たぶに触れると、三つ並んだ小さな石がきらきらと光った。何の素材で出来ているのかクリスタルのようなそれは、揺れると色々な光の波長を反射して虹色に煌めく。
髪の色を褒められた代わりに言ったと思われたのだろうか。
だがここでは装飾品を身につけている人はあまりいないし、中でもピアスをつけているのは彼女以外に見たことがない。
「でも本当に似合っているから。本当に穴が開いてるの?」
「ええ」
「痛くない?」
「最初だけね。でも痛いのがいいんでしょう。こんなところでも、ちゃんと生きてるって分かるもの」
そんなことを言って悠真の怪我をした手を見下ろされて、悠真は苦笑する。透明なバンドの下は真っ赤に染まっていて、たしかに仮想空間内の世界でなく、生身の人間なのだと思わされはする。
「出来ればもう少し痛くない方法で、生きてるって実感できるといいんだけど」
「そんなの、いくらでもあると思うけど」
そんなことを言った瑠璃の指先が、悠真の唇にそっと触れて、思わず目を瞬かせた。自意識が過剰なのかとも思っていたが、どうも先ほどから距離感が近い気がする。
「……瑠璃さん、もしかして俺のこと誘惑してる?」
「そう思う?」
赤い唇がふっとした笑みを作る。涼やかな瞳に見つめられて、鼓動が速くなった。
「どうかな……俺の妄想かもしれない。最近、白衣の女医さんに迫られる大人向けのコンテンツを見たばかりなんだよな」
敢えて軽い口調でそんなことを言うと、彼女は楽しそうに笑ってくれた。
「白衣の下が下着なんでしょう」
「見たことある?」
「ないけど、いまの私がそうだもの」
「は?」
ぽかんとしたところを、そんなわけないでしょうと笑われて、揶揄われているのだろうと思う。完全に頭の中に浮かんでしまった下着姿を振り払うように頭を振って、悠真は苦笑した。
「お姉さん、子供をもてあそばないでくれる?」
「そんな立派な体をして、まだ子供のつもりなの?」
「心はまだ純粋な少年なんだ」
そんな悠真の言葉に楽しそうに笑う瑠璃を見ながら、彼女は暇なのかもしれないと思った。そもそも人が少なく栄養や健康も管理された中で、医師の仕事などさほどないはずだ。久しぶりに訪ねてきた患者が嬉しいのだろうか、などと考えていると、彼女がそっと悠真の手を取ったのでどきりとした。
だが、瑠璃は怪我をした箇所に巻いている応急処置のバンドを外し始めたので、悠真はやはり良からぬ妄想をしてしまった自分を恥じる。当然だがここは病院で、治療をしてくれる場所なのだ。すでに痛み止めが効いているのか、バンドを外されてもさほどの痛みはなかった。話をしてくれていたのも、痛み止めが効くまでの時間を楽しく過ごすための配慮だったのかもしれない。
「随分と思いきり良く切ったわね。指は動かせる?」
思いきり切ったつもりはなかったが、そもそもが上の空すぎてどうやって切ったのかも思い出せない。
すっかり痛みも和らいでいたので指を曲げてみたが、問題なく動かせる。瑠璃はそれを見て頷いてから、医療用のスプレーなどで傷口を処置していった。痛みはないが、傷口を見ていても気分の良いものではない。痛み止めが切れればまた痛むのだろう、と思いながらも視線を上げた。真剣な表情でてきぱきと処置を進めている瑠璃を見ながら、那月以外の人間と楽しく会話をしたのは久しぶりだと思う。学生の頃には毎日食堂で子供たちに囲まれていたが、今では誰とも会わずに部屋で眼鏡をかけたまま夕飯を食べることも多い。
「しばらくは痛むと思うから、痛み止めを出しておくわね」
指を綺麗に固定しながら言われて、ありがとう、と言った。思いついて聞いてみる。
「仕事は出来る?」
「整備士の仕事内容なんて私に分かるわけないけれど、別に指が一本くらい使えなくても出来ることはあるんじゃない?」
当たり前のことを言われて悠真は笑う。
「残念だな」
「サボりたいなら、診断書を書いてあげるわよ。どんどん欠勤のペナルティは加算されると思うけど」
「まあ、そうだよね」
お金なんて貰えなくとも、働かずにずっとここにいたいくらいだが、そういうわけにもいかない。遅刻や病気や怪我の欠勤くらいなら減給で済むが、理由もなく仕事をしなければ懲罰室に入れられるなどの罰則があるし、最悪は処刑された例すらあると聞く。
知らずため息をついていた悠真を見て、彼女は大人のような顔をして笑う。
「明日も仕事がんばってね」
「ありがとう」
悠真はそう言ってから、立ち上がる。出て行こうとしたが、何かを言いたくて足を止めた。
「社交辞令として聞き流してもらってもいいんだけど、今度一緒に夕食を食べてくれる?」
「私のこと誘惑してるの?」
「そんなつもりはないんだけど。俺には好きな子がいるんだよね」
そんな悠真の言葉に、瑠璃は本当に楽しそうに笑った。
「好きな子、なんて言葉はじめて聞いたわ。本当に純粋な少年なのね。——それなら、とりあえず社交辞令として聞いておくわ。また話がしたかったら、その傷の具合を診せにきてね。連絡くれれば職場に話を通してあげるから」
また来ても良いと言うことだろうか。
ばいばいと手を振る瑠璃に、ありがとう、と伝える。来た時よりも随分と明るい気持ちで外に出ることが出来たし、まだ日が高い。こんな時間から部屋に帰れることなどあり得ないことで、部屋に帰って何をしようかと心が躍った。
——とりあえず、本当に先日見たばかりの女医さんが出てくるコンテンツをもう一度見たい衝動に駆られてはいるのだが、それを見たら二度とここに来ない方がいいような気はしている。




