はるまの現在地(3/4)
無理やり眠い目を開けると白い塊が顔の上に乗っていた。
「……ミフユ、おはよう」
ちょうど頬の上のあたりにちょこんと座る白いねずみを視認して、悠真はあくび混じりで手を顔に乗せる。急に手が迫ってきたからか、ミフユはちょろりと飛び降りて逃げてしまったのだが、指はかけたままだった固い眼鏡にぶつかった。
悠真は顔をしかめて眼鏡を外す。指でこめかみを触ると、フレームの跡がついているのが分かる。外さずに寝落ちしてしまうと、顔に跡がついたままになってしまうのだ。職場に行く頃には目立たなくなるが、道で知り合いには会いたくない。
「いま何時だ?」
チュウチュウとミフユが鳴いていたから、もう起きる時間はとうに過ぎているのだろう。時計を見て一瞬、思考が固まったのだが、慌てて飛び起きた。いつの間にか朝食も届けられていたのだろう。朝食はアラーム代わりでもあるから届く時に大きな音も鳴るはずなのだが、全く気づかなかった。
大急ぎで支度をして、全力で走って職場に向かった。
いつもは同じ時間にすれ違う人たちも、とうに職場についているのだろう。誰もいない道をひた走ったのだが、無情にも業務開始時刻を知らせる鐘の音が鳴った。それを目的地のすぐ目の前で聞いたものだから、悠真は思わず立ち止まり、大きくため息を吐いた。どうせ間に合わなかったのなら、とその場に座り込んでしまおうかとも思ったのだが、結局は走って作業室に駆け込んだ。
余裕で歩いていくよりは少しは心象が良いだろう、と思って息を切らしながら入ったのだが、出迎えたのは整備士のこれでもかと言うほどに大きなため息だった。
悠真はすみませんと何度も謝りながらも、内心では首を捻る。
別に悠真が数分遅れたところで、彼に迷惑はかからなかったはずだし、遅刻や欠勤がペナルティになって支給される額面が減らされるのは悠真だけだ。謝る筋合いなどなく、ため息をつきたいのはこちらの方ではある気はするのだが、遅れた上でそれを言える立場でもない。
学生だった頃には年齢に応じて金額が決められていたが、成人すると全員が一律の給料が支給される。だが、そこから遅刻や基準業務ラインの未達などのペナルティで減額されたり、成果に応じたボーナスが加算されたりするため、人によってもらえる額はそれなりに異なるらしい。噂によれば彰良達のように居住区外で働く人間は、ある程度のボーナスが常に加算されている状態らしいから、どの職業でも平等だとする理念は単なる理念でしかないのだろう。
「突っ立って謝る暇があるのなら、さっさと手を動かすことだな」
冷たい言葉がなげられて、すみません、と悠真は床に座り込む。
外に出て人と話したり、色々と作業をするのはそれなりに楽しいのだが、ここで二人で黙々と作業をするのは苦痛でしかない。整備士の彼の方は外に出るのは好きではないらしいから、誰かに呼ばれたら悠真が出向くことになるのは有難いのだが、声がかかるのは何日かに一度と言ったところだ。基本的には不良品が自動でこの作業室に運ばれてくることの方が多いから、ここで夜まで気が遠くなるような一日を過ごすことが大半となる。
これを何年、何十年と続けていくのだ。
それを考えると途方もない気持ちになる。もちろん途中で仕事が変わる人もいるが、変わらない人も多い。他の仕事に変えてほしい、といった希望を出せるわけでもない。ただただ働いて、上からの職場転換の命令があれば、ただただそれに従うだけなのだ。
逃げ道はもはや仮想現実の中にしかないのではないか——と。
そんなことを考えてしまうのは、実際、夜になれば食事もそこそこに各自が部屋に戻ってしまうからだ。仮想現実の中で思い思いの人生を生きていたり、色々な映像コンテンツやフィクションを楽しんだりと、夜の自由時間は大半の人間が自室にこもってしまう。与えられる給料を全て仮想現実の中で使ってしまうという人間もいるくらいだ。生きるために必要なものは全て支給されるため、別にそれでも何も困らない。
悠真もたまに仮想空間内のアイテムに課金したり、有料のメディアコンテンツを購入したりしている。那月と会わない日は、大抵が昨日のように帰宅してから零時までずっと眼鏡越しに見える異世界にいるのだ。
そこでは誰にも束縛されずに自由に生きられる。全てが自分の思い通りになる世界で暮らしていると、那月や彰良とも無理して会わなくても良いような気がしてしまう。
そんなことを考えながら作業をしていると、突如、指に走った衝撃に思わず手が浮いた。
「——痛っ」
遅れてきた痛みと熱さ。回線などを切断する電気工具で、わざわざ自分の指を切り付けてしまっていた。左手の人差し指に出来たばっさりとした傷口からは、みるみる血液が溢れて落ちる。なんとか工具の電源を切って床に置いてから、悠真は慌てて傷口を押さえた。
「なにしてる」
整備士はやはり大きなため息をつきながらそう言って、棚から救急箱を取り出す。彼はこちらに歩いてくると、床や機器に落ちた赤い血を見て眉を上げた。悠真の心配ではなく、機器が汚れたとか壊れるとかを心配しているのかもしれないと思ったのだが、一応、彼はそのことには触れずに隣に片膝をついた。
見せてみろと言われたので、しぶしぶ押さえていた手のひらを離すと、やはり指からは血がどくどくと流れ出した。
「全く何をしたらこんなもので自分の指を切れるんだ?」
すみません、と悠真は呟く。
切れ味の良いその工具は、当初は気をつけていた気がするのだが、怖いと言うことを忘れてしまう程度には作業に慣れてしまっていたのだろう。もしくは単に違うことを考え過ぎていただけか。
男が乱暴に指を取ったので、思わず電気が走ったような痛みにびくりと体を震わせる。だがそれに文句を言う前に、彼は慣れた手つきで透明なバンドのようなものを傷口に巻いてくれた。
「病院にでも行ってこい。今日は遅刻じゃなくて欠勤だな。それじゃ作業は続けられないだろう」
それが優しさなのか嫌味なのかは微妙なところだが、何にせよ整備士はそれだけを言うと自分の定位置に戻っていった。悠真も密かにため息をつきながらも、大人しく頷いた。額の大小はあるものの、どうせペナルティで減額されるなら遅刻も欠勤も同じだという気もしたし、もう仕事をする気分でもない。戻ってこなくても良いというのなら、ありがたく帰らせてもらって、病院に寄った後はまた部屋で昨夜の続きを楽しむのも悪くない。
すみません——と、今日だけで何度言ったかわからない単語を呟いてから、悠真は作業室を出ていった。




