32話 カラーバス効果と引き寄せの法則:複雑怪奇な優柔不断が産み出すアンビバレントフラット
前回のあらすじ
受験生と講師として出会い、連絡先を交換した那知恒久と越猪崇。恒久をグリアと知って近づいた越猪は恒久を知る為、良好な関係を築く為、メッセージでのやりとりを大切にしていた。スマホを嬉しそうに覗く恒久に母:暢子は「彼女でも出来た?」と誂い、恒久からのメッセージに笑顔を零す越猪に「彼女でも出来た?」と松浦彩花が誂う。
季節はバレンタインデー。執念を燃やす時任咲也は日隠あすかを自宅に招き一緒にお菓子を作る約束を取付けた。恒久はその日、母親とリハビリ施設に行く予定ということで別行動。
久しぶりに咲也の母が作るお菓子の味を思い出しテンションの上がる日隠あすかと、日隠あすかの手作りお菓子がバレンタインデーに食べられる期待にテンションの上がる時任咲也、その両名に不安を抱く恒久であった。
「将来の夢はありません。高校生活ではその後の進路の為に、選択の幅を狭くしない様に、勉強したいと思っています。」
越猪との会話によって、自分の気持ちを確かなものとし、今は優柔不断なままで良いと腹が座ったお陰で面接は堂々と喋る事が出来た。
恒久の心を映すかの様な空の下、帰り路に、やたらと視界に入ってくるのは洋菓子店。Xmasやバレンタイン、ホワイトデーは派手に宣伝するので当り前なのだが……
ープロって凄いなぁ。咲也のお母さん、お願いします、どうか2人に手出しさせないで下さい。ー
恒久は素人が作るお菓子を信用していない。口に運ぶ前から匂い立つ多量のバニラエッセンス、フォークの侵入を拒む程しっかりと実の詰まったスポンジ、舌に広がる薄力粉のダマが演出する素材感。幼い頃に母の凡ミスが招いたトラウマである。
つまり、時任咲也と日隠あすかが張り切って作るお菓子に恐怖しているのだ。そのストレスが街中の洋菓子に反応してしまう。
傍から見るとショーウインドウに柏手を打つ恒久の姿は、バレンタインにチョコが貰える様に必死に願う少年として映ってしまうのが、実に痛々しい。
そんな恒久の心配をよそに、日隠あすかはゴムベラ片手にチョコレートと格闘中。
「ボールの縁からしっかり混ぜないと、温度ムラが出来ちゃうから気をつけてね。」
ミルクチョコレートの他、ホワイトチョコレートと苺チョコレートのガナッシュを作って丸く成型。咲也の母を先生に迎え《さっくん・あーちゃんのお菓子バンザイ!!》は、楽しく順調に進んでいた。
「意外と簡単なんだね。」
「難しいの作って失敗したくないでしょ?」
3色の丸いガナッシュを、ココアパウダー・粉糖・抹茶で仕上げている最中、日隠あすかは、時任親子の会話に何かを思った。
「……難しいのも、あるんですか?」
嫉妬・対抗心・反骨精神、興味・向上心・チャレンジ精神。どれか1つに当て嵌まるものではなく、どれも存在し、かと言って複雑な心情という訳でもなく、その台詞は日隠あすかにとって《澱》であり《猫の吐き出す毛玉》であった。
聞いた事の無い、あーちゃんらしからぬ声色に、時任親子は目を丸くするが、日隠家で日本舞踊を習っている母は、何かを察した。
「おばさんも上手に出来るか分からないけど、折角だから、やってみようか。」
優しく微笑む時任の母が、弱々しく頷く日隠の手を取り、滑らかに抱き寄せる。
ーあ、あったかい。ー
手に触れた体温は、布団にくるまるソレとは違って、直ぐに全身を覆う。安心感・優しさ・ぬくもり、伝わって来るものは他にもあって、日隠の目には、勝手に涙が溜まった。
《テンパリング》、
カカオバターの結晶を安定化させる事で、滑らかな口溶けと艶を出し、適度な硬さと食感を手に入れ、指で触れても溶けなくさせる。
50℃まで温めたチョコレートを20℃まで冷まし、再び30℃まで温める。水分の混入はNG、温度管理を失敗したら最初からやり直し、繊細な作業に緊張が走る。
完成した《生チョコトリュフ》は、形こそ手作り感が満載だが、その仕上がりは見事だった。
テンパリングしたチョコレートでコーティングした事により得られる艶が輝きを放ち、指で摘んでも汚れず、殻を割る様な食感が全体の口溶けをより柔らかく演出する。
時任咲也は今日ほど母に感謝した日はない。大好きな《あーちゃん》の手作りチョコの味、一緒に作った喜び、そして何よりも、いつもの溌剌とした笑顔とは違うその柔らかな表情に、より一層心を溶かされるのだった。
➖那知家➖
那知暢子はめげない人である。久しぶりのお菓子作りにテンションは高い。好きな音楽をヘッドフォンで愉しみながら《フォンダンショコラ レシピ》を検索。
幾つかのレシピを吟味して良い所どり。先ずはセルクルと型紙を準備しているとインターホンの気配。
ーなんやろー
宅配や郵便が届く予定は無い。ヘッドフォンを首にかけモニターに目をやると、冬の日差に映える涼しい顔がなんとも嫌味な男が玄関口に立っている。
ーほんまになんやねんー
出逢い方が違っていれば素敵な異性に見えたであろう。だが、現れるタイミングが邪魔くさい。溜息を推進力に暢子は玄関へ向かう。
「奥様ご無沙汰しております。有明エンタープライズ総務係長の阿知輪晋也で御座います。此の度は御主人の体調の回復に伴い、リハビリ用アシストロボ【NEURON】最新版のモニターとして協力頂きたく、同意書にサインをお願いしたいのですが宜しいですか?ああ!勿論、なっさん。あ、失礼。ご主人には既に説明させて頂き、御理解と御納得を頂いた上で了承頂いております。」
玄関ドアを開けるなり再生される阿知輪の長台詞は、鼻から大きく息を吸い込み胸を張った姿勢と笑顔で〆られる。暢子の眼前にのっそり出されたクリアファイル。そこに収まった薄っぺらい紙には、那知悠作のサインが記されていた。
那知暢子にはそれが、人の命を軽々しく扱っている様に見えて腹がたった。
「悠作さんは優しいから、何でもええよって言わはるけど、会社は何を考えとんねん!そもそも過労で倒れてんねんで!それをこれ幸いと仕事にしくさって、死人に鞭打つ様な真似すなや!」
「奥さんの仰る事は御尤も。ですが、会社としては最新の医療で1日でも早く元気になって貰う事が償いだと考えています。これも、ご主人の為なんです。御家族の同意が無ければならないのはあくまでも事務的な問題なので、出来れば奥様には快くサインをして頂きたいのですが……そうですね……休暇を約束しますよ。【NEURON】のモニターとしてリハビリが終われば、長期休暇を取って旅行にでも行かれると良い。」
眉間にシワを寄せ、整った顔を崩し凄む那知暢子に対し、眉を上げ、鼻から息を吸い込んで笑顔を見せる阿知輪晋也。いちいち堂々とした姿勢が憎々しいが、リハビリ施設でのモニターを断る理由は無い。那知暢子もそんな事は分かっていた。言いたい事は言ってやった、オマケも付いた。
“凄く良い所だったよ。今度一緒に行きたいね!”
出張から帰った悠作がそんな事を何回か言った事がある。現実的にどうかは別として、可能性を大いに感じる。夫婦水入らずで旅に出掛ける想像をして、少し落ち着きを取り戻す。
サインは感情の起伏の無い状態で記された。
ー参ったね、どうも、那知家の皆様は理想の家族だ、素晴らしいサンプルですよ、なっさん。ー
同意書を受け取る瞬間、阿知輪晋也の笑顔は見事に歪んでいたが、まだそれを晒す程油断はしていない。あと少し、阿知輪晋也の【एकीकरण】は完成する。