3話 非日常の訪れ方
前回までのあらすじ
那知悠作は青年が蜘蛛の化物となって人を襲う動画を見せられる。それが自社の技術の結晶である事を阿知輪晋也から告げられ、唯一の対抗策である【グリア】を託される、息子・那知恒久へのプレゼンターとして。
塾から帰った恒久は、食事の支度ができた事を告げに父の部屋へ、そこには倒れた父と蜘蛛の化け物。恐怖に固まる中、蜘蛛に押さえつけられベルトを装着されグリアに変身した恒久。
訳の分からぬまま、躰は自然に動き、蜘蛛の思惑通りに戦闘に。
空中から降下するグリアの攻撃が決まったと思ったその時
【犀】が現われその場は一旦収まるが……
恒久は1人、カレーを温め直して朝食をとる。母親は昨夜から病院、悠作は意識を回復したが全身に麻痺が残り入院した為だ。
電話で父の容態を説明する母親は冷静を装っていた。心配をかけまいとしてくれていたが、恒久にはそれが痛々しい。昨夜の事は、父に起きた事は知っている。それが化物の仕業だという事も。
マニュアルを読んでベルトを巻いた。全体的に金属質だが柔軟性がある。ベルトの差し込みを前側に装着。内側にエアーが入ると、きつ目のフィット感が調度良い。背中側パーツのロックが外れているので両手で左右から前にスライドさせ差し込み口をカバーする様に合わせる。どんな仕組みかは解らないが、あっと言う間に変身した姿は黒いマネキンの様だった。解除はカバーを外すだけ、何回か試したがちゃんと人間に戻れる。
ーあの蜘蛛も犀も、そうなのだろうかー
何もかもが身に入らぬまま、放課後の時間を迎えてしまう。
「那知、ちょっと。」
担任に手招きされる恒久。ガヤガヤと賑わう流れに逆らい、教卓に辿り着くと「職員室までいいか。」そう言うと、流れに逆らい廊下を歩く担任、恒久は人の波が分けられた廊下を、歩き辛いと感じた。
「お父さんの事、大変だったな。お母さんも色々大変だろうから、三者面談は延期して落ち着いてから都合の良い時にやろう。」
都合の良い時とは、いつなのだろう。お医者さんは“父の健康状態”を疑った、蜘蛛の化物に咬まれたとは診断しない。する訳無い。実際に対峙した自分でさえ、まだ夢から覚めないのだと、信じたく無い気持が強い。
「お母さんには先生から電話するけど、ちゃんと伝言しといてな。」
前向きな雰囲気が腹立たしい、父は病気じゃない、蜘蛛の化物に、喋る……犀が公太と呼んだ何かに襲われたのだ。
そして自分も、何かになっていた。
「那知、大丈夫か?迎えが来てるから駐車場に寄るんだぞ。」
「!?」
それまで担任の会話に、全て伏目がちに“はい”と応え、黒く黒く塗り重なってゆく心を、頭と一緒にいっぺんに真っ白に塗り変えた。
ー迎え?誰が?ー
下駄箱まで来ると応えは直ぐに出た、だが答えになって無い。
「やぁ恒久君。色々あって疲れたろう?」
無駄に爽やかな大人が笑顔で自分の名を呼んでいる。恒久は靴に手を伸ばしフリーズした。
ー誰?ー
「突然声を掛けて驚かせてしまったね。私、有明エンタープライズ総務係長の阿知輪晋也と申します。お父さんとは一緒に仕事をする仲間なんだけど聞いた事ないかな?」
一息で言い切ると笑顔で〆る。無駄に爽やかな長台詞の兄ちゃん。母親が昨日言っていた厚かましい人に違い無い。
「あ、いえ、すいません。」
何故この人が?そうも思った矢先
「グリアの事はお父さんから聞いてる?」
とんでもない事を言い出した。グリアの名は蜘蛛から聞いた、マニュアルの存在は犀から、この人がどちらかなのだろうか?靴を履きながら逃げ出す事も考える。
「お父さん、蜘蛛に襲われたんだろ?稲葉公太に。」
またしてもとんでもない。公太は犀から出た名前、おそらく蜘蛛の本名。この人は犀なのか。
恒久の警戒心と訝しげな表情に阿知輪が溜息をつく。
「なっさん、何も言ってなかったんだ。」
スルスルと近寄り恒久の肩を組み車へ促す。恐いほど馴れ馴れしい、けれど少し有難い。この男は隙間に入るのが上手い。
「結果から話した方が良いかな、蜘蛛を倒して欲しい。彼は稲葉公太、有明エンタープライズの技術の結晶を悪用している。対抗手段は恒久君のグリアだけ。さて、何が聞きたい?」
女性をエスコートするかの様なドアサービス。何よりも不可解なのは阿知輪の存在そのものだが、恒久は理不尽な被害について訊ねた。
「何でお父さんは襲われたんですか。」
「稲葉は相当な数の人を襲ってる。場所はU駅・M駅・A駅を中心とした半径1.5キロ以内の3箇所・時刻は、18:30〜21:30に限られていて被害者の共通点は無し。中には亡くなった人もいる。」
「何であんな物が家にあったんですか。」
「恒久君に渡して貰う為に私が持って来た。なっさん、あぁ、お父さんから渡して欲しくてね、お邪魔したんだ。」
「あいつはグリアの事を知ってました。闘いたがってた。」
「グリアの事は限られた人間しか知らない。情報の漏洩など考えにくいが、調べる必要がありそうだね。」
「治るんですか。」
「それは、お医者様に聞くしかない。」
車中に暫しの沈黙が産まれる。漫画やゲームの世界なら“悪”を倒せば被害者は助かる。しかし蜘蛛を倒す事と父が助かる事はリンクしない。的確に核心を得ない答えに質問する気が失せていった。
車は県立大学附属病院へ着いた。だが阿知輪の向かった先は悠作の病室ではない。バイタルサインが静寂を奏でる重症患者のモニタリングルーム、そこに映る4割が蜘蛛に襲われた人である。神経毒による意識障害、錐体外路症状、固縮・無動。それを背に阿知輪が頭を下げる。
「色々と話せない事が多い。けど、これ以上被害を増やさない為にも恒久君にお願いするしかないんだ。」
「やめてください」
「私が頭を上げる時は、恒久君が約束してくれた時だ。」
「だから、やめてください。やるしかないんですよね。」
すぐさま顔を上げ、恒久の表情を確認すると、しっかりと両肩を掴む阿知輪。その表情は実に対照的だった。
「ありがとう。会社が全面的にバックアップするから安心して。理論上グリアの性能の方が高いから万が一にも負ける心配は無い。大丈夫、一緒に頑張ろう。」
肩から離れた手が力強く握手を求めてくる、嬉々とした表情につられること無く恒久は応えた。
「なっさん、あぁ、お父さんに会いに行こう。」
病院の廊下を阿知輪と歩く、学校よりも広い、静かな廊下を。
恒久の心には小さな感覚が生まれていた。それが何なのか、まだ本人にも解らない小さな違和感。
案内された病室は二人部屋だが名札は那知悠作の1枚だけ、昼過ぎに帰宅している母親とはすれ違いで面会だが、揺れるカーテンに人影が映る。金属質なバックパックを背負う青年は下手な笑顔を浮かべる。
「稲葉!」
阿知輪が叫ぶ。
「不知火さんの犬か、お前に用はない。グリア、第2ラウンドだ始めようぜ。」
稲葉と呼ばれた青年はベルトを投げる。受け取った恒久は家にある筈のベルトを装着。不安・怒り・嫌な予感・思考・感情・が渦巻いている、それでも目の前の青年と闘う事は優先事項だと、倒すべき相手であると認識できた。
「何で……何でぇ!!」
叫びと共に背面パーツを前面にスライド『syn apse』恒久以外の望む姿【グリア】がそこに現れる。
「俺が正面から戦えるって事を証明するんだ、来いよ。“परिवर्तन”」
左拳を突き出し挑発をする稲葉は蜘蛛に姿を変える。左にステップ、グリアの右足が真っ直ぐに飛んでくる。その姿勢はハードル走、左足の振り抜きが上体の捻りを加え蜘蛛を捕らえるが右腕でしっかりブロック、着地の反動を利用してグリアがタックル、前脚と両手でタックルを切ると、蜘蛛はバックステップで窓枠へ。
「あっちでやろうぜ。」
飛び去る蜘蛛。グリアは病床の父を一瞥し追いかける。病室に残された阿知輪は窓へ向かう。
「なっさん、恒久君が頑張ってくれてますよ。」
戦いの場を屋上へ移し一進一退の攻防。間合いを詰めてくる蜘蛛に対し、距離をとり一撃離脱を繰り返すグリアだがカウンターを貰ってしまう。
ー性能はグリアの方が高いって言ってたのにー
「素人の割には良いステップインだけど、タイミングがとりやすいんだ。来ると分かってれば落とせるんだよ!」
離れたグリアに追撃のステップイン、右足に体重を乗せ替えた身体の回転と共に振り抜かれる右の拳はグリアの顔面を捕らえた。
渾身の一撃、ステップインからの見事な流れ、手に残る感覚と足元に倒れている相手に蜘蛛は歓喜した。
「立てよ!まだやれるだろ?」
ファイティングポーズをとる蜘蛛に違和感を覚える。立ち上がったグリアに2本の足で間合いを詰めてくる、左ジャブ、左ステップ、左ボディが2発、右のフック。これをブロックするとブロックの上から右のフックがもう一発、反動で左のフック、構えてワンツー。
ー脚を使って無い?ー
1連の動きを防御に徹して観察した。
間合いを詰めてくる後脚、肩を押さえつけてくる前脚が、たたまれて背中に隠れている。
「どうした!打ってこい!」
足を止めて上体を揺らす蜘蛛にグリアが間合いを詰める。
ーさっきの動きは見えてた、イメージできる!ー
左ジャブ、左ステップ、左ボディが2発、
「こいつ!」
右のフック、これを躱されるが1回転して右のフックをもう一発、ブロックの反動で左のフック、構えてワンツー。
「やれるじゃねえか。」
ワンツーを額で受け止めた蜘蛛は、グリアのがら空きの顔面に渾身の右フック。
ー来た!ー
拳を引きながら大きくバックステップ、空振りで体制を崩す蜘蛛に向かい足を高く上げ飛ぶ、はさみ跳びの様な姿勢から降り下ろされた踵は蜘蛛の背中を砕いた。
「!!」
『Aiziet』恒久は人の姿に戻る。
断末魔は無く、人の姿にも戻りきれず、屋上に倒れた異物は、阿知輪の指揮のもと大人達が回収していった。
その時何故か、廊下の流れに逆らう担任の後ろを歩きづらいと感じた事を思い出していた。