2話 日常の壊れ方
前回までのあらすじ
問題集を解き、母に呼ばれ、NEWSを眺め、朝食を摂る。受験を控えた一般的な家庭の風景。主人公・那知恒久は高校受験を控えた中学3年生。
父の那知悠作は出張からの帰り同僚の阿知輪晋也に車で送って貰うのだが、車中で社内の黒い噂が真実だと告げられる。
到着後、自社 有明エンタープライズのロゴマーク・Ǣが入ったアタッシュケースを持ち、阿知輪は那知家へ。
だがそこには同じ Ǣ が入った金属質なバックパックを背負う稲葉公太の影が……
薄い月明かりに照らされた稲葉公太は既に人の形をしていない。団地の壁を音も無く、上へ上へと移動して行く。
アタッシュケースを手にした阿知輪は、その団地の302号室へ向かう。
「なあ。」
「何ですか。」
「お前、何で俺ん家知ってんの?」
「さっき国が絡んでるって言ったじゃないですか。」
悠作の質問をサラリとかわして302号室の横に立ち、玄関扉を開けるよう促す。阿知輪のペースに呑まれているのは分かっているが、嫌がるのも癪なので要求には従った。歳下の同僚への妙なプライドでしかない。
「ただいま。」
「おかえり〜 あら?お客さん?」
「あぁ、同じ」
悠作がそこまで言いかけると、後から滑るように阿知輪が間に入って来る。
「奥様はじめまして、有明エンタープライズ総務係長の阿知輪晋也と申します。突然お邪魔して申し訳ありません。直ぐにお暇しますので、どうぞお構いなく。」
一息で言い切ると笑顔で〆る。悠作をエスコートして奥へと進む阿知輪に思わず「なんやの、あれ」と漏らす奥様。
上着をクローゼットに掛けてベッドに腰掛けると、デスクとは別注のお気に入りのゲーミングチェアに既に収まっている阿知輪に 「で?」 と溜息まじりの悠作。ハイハイといった表情で軽く溜息をついた阿知輪は、ノートパソコンにUSBを刺すとゲーミングチェアを滑らせ、お得意の促す手つき。
「見た方が早いですよ、防犯カメラの映像です。」
薄暗い部屋にネクタイを緩めたままの悠作は、鮮明にスロー再生された防犯カメラの映像を疑った。それは昆虫の資料映像の様だった。
「何だよコレ」
百聞は一見に如かず、だが一見しただけでは受入れられる訳も無い。
「先日公園で起きた事です。ジョギング中に倒れた方がいましたが事故ではありません。画面端の男女も死因は同じく急激な血圧上昇による心不全。勿論、原因はこの蜘蛛の毒です。そして青年が蜘蛛に姿を変えた技術こそ、有明エンタープライズの技術の結晶であり、それが噂の真相です。」
不可解と混乱は、不思議と阿知輪の声で静まっていく。
「噂以上……か」
「この1年で相当な重症被害が出ています。死亡も希に。」
わざとらしく時計を見る仕草をとると、ゲーミングチェアから静に降りて窓辺から外を見る。
「そろそろ恒久君が塾から帰って来る時間ですね。」
「恒久に何の関係がある。」
愚問だった。それでも口をついて出た。
自分が予測している仮定を否定する為に。
「今の所アレに対抗できる唯一の手段です。」
阿知輪が振り向くと、Ǣとロゴの入ったケースが、ゆっくり突き出された。
蜘蛛に姿を変えたのは青年だった。青年のバックパックと阿知輪のケースにはǢのロゴマークが入っている。そして不自然に出された息子の名前。
悠作は自分に拒否権が無い事を理解していた。
「一応聞いとくが、俺には使えんのか。」
「詳しい事は話せませんが、大人には対応しません。」
「何で恒久を選んだ。」
「色々と理由はありますが、話せません。」
ケースをデスクの上に置き阿知輪が帰る素振りを見せる。
「その中に、ベルトと簡単なマニュアルが入っています。強制はしませんが、渡してあげた方が良いと思いますよ。」
悠作はベッドに仰向けになる。
「どぉしてこうなった。」
「正直 “お気の毒” としか言いようが無いですけど、誰かが何とかしないと被害は増すだけです。恒久君の事は会社と国が全面的にバックアップします。」
「答えになってねえよ。」
「話せませんからね、知らない事も多いですし。」
302号室を後にした阿知輪、車に乗り込み塾帰りの恒久を待つ。前を通り過ぎるのを確認してから静かに車は滑り出す。
ー頑張ってね、恒久君ー
「ただいま。」
「おかえり〜 」
会話より少し大きな声«おかえり»は母親の声。玄関に悠作の靴はあるが声は無く、廊下の先に見える居間にも姿は無い。
「つーくん、お父さん呼んできて、ごはん出来るから。」
「ん〜」
カレーの匂いに誘われて台所へ行くと、母親はヘッドフォンで音楽を聞いている。口をパクパクしている«つーくん»を見て、笑顔でヘッドフォンを外した。
「ん?呼んで来てくれた?」
「いや、まだだけど……よく分かったね。」
「何が?」
「え?俺が帰って来たの。“ただいま”って言ったの聞こえて無いでしょ?」
「玄関が開いた閉まったくらい分かるわよ。廊下の振動で歩き方も分かるし。」
「凄いね。ってか何でソレ?」
ヘッドフォンを指差す恒久の手を即座に払い落とす母親。
「お父さんが無駄に爽やかな長台詞の兄ちゃんと帰って来てね。これが嫌いな周波数だったのよ、もぉ帰ったけど。帰りも何か色々言っとったけどコレしてたから何や分からんかったわ。」
悠作は誰かを連れて来るタイプではない、厚かましいタイプの人間を断り切れなかった結果だと母子は思った。
「お父さん奥に居ると思うから呼んで来て。」
「うん。」
恒久の部屋とは廊下を挟んで対面にある寝室。小さい頃は一緒に寝ていたが、今では壁の様に認識している。
ドアをノックする、ただそれだけなのに、不思議な高揚感。
「お父さーん、ごはんだよー」
寝てしまったのか部屋からは物音がしない。2回目のノックには何の感動も無かった。静にドアを開けると静寂が騒がしく犇めき合っていた。踏み慣れない部屋・揺れるカーテン・青白い光を浮かべるノートパソコン・忍び寄る影。
「お父さん?ごはーん」
声を掛けながら揺れるカーテンの方へ進むと、ベッドの影に倒れている父の姿を見る。すると、後ろのドアが静に閉まる。ざわめきに変わった恒久の高揚感は、その瞬間に凍り付く。
「お前が【グリア】だな。俺と闘え」
頭で理解などしていない、後ろからの声に感情が反応し、振り向きざまに本能が体を硬直させる。
確かに人の声だった、だが目の前に立つのは限りなく蜘蛛に近い姿をしている。
「有能の証明の為だ、新型なんだろ?」
お前は誰だ!お父さんに何をした!何の話をしている!そこをどけ! 全部声にならない。目まぐるしく変わる感情は《恐い》で止まってしまった。
硬直している恒久に苛ついた蜘蛛は、デスクを足蹴にケースを手に、残す脚で恒久を壁に押さえ付けるとケースからベルトを取り出し恒久の腰へ巻き付けた。「仕方無い、デビュー戦のバンテージは巻いて貰うもんだからな。」台所からの足音に気付き、蜘蛛はドアに鍵をかけ恒久を窓へ引きづる。「来い!」そのまま窓から外へ、3階から落ちる浮遊感に固まっていた心が融ける。
走り高跳び1m85cm。春の大会は5位。悔しさよりも緊張感と自己ベストを出せた達成感と浮遊感を忘れない。今それを超える浮遊覚に、状況とは無関係に感動を覚えた。
『syn apse』腰回りからの音声に我に返る。落下地点にマットは無い。《着地》思考と同時、恒久にはそれより早く行動が完了した様に思えた。
「新型はシンプルだな。」
蜘蛛は、片膝両手を地面に着けた人型の【グリア】を蹴り上げるが、交差した両腕で防がれた。驚きは恒久にある。《危険》これも思考より早く体が対処している。そしてその両腕は、薄い月明かりに黒く妖しく光る。
ー何これー
「闘いに集中しろ!」
横からの衝撃に恒久は体制を崩す。理解はとうに超えていた、現実を受け入れる事に気持ちを切り替える。鼓動と呼吸をうるさく感じる程に緊張感を高める。
「オヤジは今は動け無いだけだが、もうひと咬みで殺せるぜ?」
長い後脚で地面を蹴ると間を詰めて前脚で【グリア】の両肩を押さえる。左拳を脇腹へ、膝でブロックされる。もう一度拳を振りかぶると前脚を払われた。肩が自由になった【グリア】は距離をとる。放たれる蜘蛛の拳は空を切るが、左の前脚と後脚が伸びてくる。“避ける”思考の直後、蜘蛛の頭上に弧を描くと、落下と遠心力が攻撃を後押しする。
ーいけるー
足に伝わる衝撃は広く分厚い。
頭上に気を取られた蜘蛛に横から突進して来た何か、それは【犀】の姿に限りなく近い。
「“今日はそこ迄にしろ” ってさ。」
グリアの踏みつけるような背面跳びオーバヘッドキックは犀の肩で防がれていた。
助けられた蜘蛛は、舌打ちをして暗がりへ消えて行く。
「部屋へ戻ってマニュアルを読んだほうが良い、直ぐに救急車が来る。公太が小心者で助かったな。」
犀も暗がりへ消えて行く、遠くからサイレンが聞こえて来る。
部屋へ戻ると母親がドアをしきりに叩く音が響いていた。
『Aiziet』マニュアルを見ながら変身を解く、鏡に映る姿は人間で間違い無い。救急隊の到着、母親の叫び声が、内鍵を開けるとなだれ込んで来る。立ち尽くしている間に父は運ばれ、母親も連れられる様に行った。誰も居なくなった家にカレーの香りが漂う。