1話 日常の在り方
人の目の届かぬ闇
誰にも何にも邪魔されずにそこに漂い
陽の光が当たらないだけの時間
それは力無き者に活路を与える
➖20:21➖
夜の公園は静寂が騒がしい。
過ぎた夏を惜しむ様に愛を語る恋人たち、時折擦れ合う木々の葉、出番を待ち侘びていた鈴虫、ジョギングシューズのリズム、身を潜める影。
樺黄小町蜘蛛・日本全土に広く生息、イネ科の葉を丸めて巣を作り、夜になると餌を求め動き出す。噛み付くと同時に牙から神経毒を注入。その毒性は非常に強く在来種の蜘蛛類で最も強く、生物猛毒ランキングに至ってはトップ10入りを果たす程。しかし死亡報告は無く、重症被害も少ない。
これは小さな蜘蛛が人間を咬んだ場合の話で、同じサイズの昆虫ならひとたまりもない。そして夜の公園で身を潜めている影は“稲葉公太”高校1年の青年。
「परिवर्तन」稲葉公太がそう呟くと、Ǣとロゴが入った背中のバックパックから黒いモノが出て全身を包み、青年の影は蜘蛛へと変わってしまった。人間大の蜘蛛は即座にジョギングシューズのリズムを止め、恋人たちの愛を塞いだ。絶命に声をあげさせる間もなく命を3つも奪い「वापसी」今度はそう呟き、蜘蛛から青年へと姿を戻す。ポケットに手を突っ込んで歩く様は、まるでコンビニか塾へでも行った帰り道……
後にした公園には、木々が揺れ葉が擦れ合い鈴虫が求愛をする。
➖翌朝・那知家➖
公園に程近い団地、かつて県営住宅であったその場所は人離れと老朽化の問題を解決する為に幾つかの企業と合同でリノベーション、社員寮として所有しており【有明エンタープライズ】も参加企業の一社。
その一室
タイマーセットしておいた洗濯機が動き出し、睡眠から覚めかけた頭がそれを認識する。
「時刻は07:30になりました。引続き、現地から中継をお伝え致します。」
NEWSでは物騒な事件が数件報道される。この日偶然に重なったのではない、毎日の事なのだ。
朝食の用意をしながら横目でNEWSを視界に入れると溜息をついた。「つーくーん、ごはんできたよー。」会話より少し大きな声が廊下を伝う。溜息をついたのは物騒な報道のせいではない。毎度呼ばねば出て来ぬ我が子の間の悪さ故である。
少し荒い鼻息と共に問題集を閉じる。受験を控えた那知恒久は、母に«つーくん»と呼ばれる事に違和感を抱いている。しかし、母に対してその感情は開示出来ない。申し訳ないのだ。
朝食が用意されたテーブルへ向かい、椅子に手を掛けるついでに横目でNEWSを視界に入れると、物騒な名の付いた事件が報道されている。「いただきます。」そう言いながら席につくと、視線を味噌汁に移し具を確認する。先程の«いただきます»からは想像し難い表情を浮かべ、箸先を碗に落とす。くるくると汁をかきまわしてから一口啜る。吐息が漏れる。中学3年生とは思えぬ光景。それを見逃さない母親の表情もまた、«つーくん»の鼻息を少し荒くさせる。
「今日って雨降る?」
「どぉかしら?降らないんじゃない?」
「え?NEWS見てたんじゃないの?」
「NEWSなんか見てたってあんなのばっかりなんだから、なんにも分かりゃしないわよ。知りたい事は自分で調べなさい。」
「あぁ。そうだね。… ねぇ、なんでNEWS見てんの?」
「時間、教えてくれるじゃない。」
ぶっきらぼうに核心をつく。母親というものがそうなのではなく、この人がそうなのだと、恒久は最近学んだ。
➖有明エンタープライズ➖
〔17:30になりました。残業申請をしていない方は速やかに帰社してください。〕
社員証GPS・顔認証システムに管理されている出退勤、音声ガイダンスが社内に流れるのは毎日の事なのだ。
夕方。残業申請していない社員証のMODEは《OFF》に切り替わる。仕事の時間が管理されていると言う事は、自ずと個人の時間も決まってしまう。スケジュールとNEWSをチェックしながら、横目で帰り際の社員に慌ててお土産を渡す同僚の姿を視界に入れると溜息をついた。「なっさん。いきますよぉ。」相手に伝えるつもりの無い声が口にこもる。溜息をついたのは«なっさん»と呼ばれた落ち着きの無い年上の同僚のせいではない。相変わらず垂れ流されている事件と、スケジュール帳を埋め切れない自身の乏しさ故である。
慌てるという事を全身で表現しながら、だいぶ荒い鼻息と共にスーツケースを閉める、出張を終えた那知悠作は同僚に«なっさん»と呼ばれる事に安堵感を抱いている。しかし、その感情は開示出来ない。戒めなのだ。エレベーターの扉を開けて待っている同僚に向かい、片手で謝りながら乗り込む«なっさん»の鼻息は更に荒くなる。
「お前!俺のこと見て溜息ついたろ!」
「よく見てますね。でも、違いますよ。」
「ん?じゃあ、なんでだ?」
「個人的な事ですよ。それより、家まで乗せてくれって頼んでおいて、よくあんなにバタバタ出来ますね。」
「人生ってのは、予期せぬ出来事が起きるもんさ。」
「……なっさんのそういうの、羨ましくなりますよ。」
ことあるごとに溜息をつく。このタイプの人間が皆そうなのでは無い、それがこの男の癖だと悠作は理解している。悠作が営業から転属して来た時から阿知輪晋也はそうだった。最初は偉そうでいけすかない印象を持ったが、それで損をするのは本人で、段々と《勿体ない男》に印象は変わっていた。
「なっさんに渡したい物があるんですよ。」
帰りの車中、突然の台詞に悠作は眉をしかめる。
「鳩が豆鉄砲……って、そういう顔なんですか?」
「知らねぇよ。突然何だぁ?俺は誕生日でもなんでもねえぞ。」
「なっさんのそういうの、本当、羨ましくなりますよ。」
「お前、また溜息ついたろ。」
「ええ。トランクに積んであるんで部屋までお持ちしますね。」
「お前さぁ!人の話聞いてる?会話になってねえと思うんだけど。」
不機嫌を露にした悠作を無視して阿知輪が話を進める。
「うちの会社の噂、聞いたことありますよね?」
「国絡みで何かヤバい事に手出してるって奴か?あんなの真に受けねぇよ。不知火さんが常駐してからだろ?」
「その不知火さんから直接聞いたんです。」
「はあ?なんで総務係長のお前が文部科学省と?」
「それは私も解りません。ただ“火のない所に煙は立たぬ”って言うじゃないですか。」
有明エンタープライズはVRの世界に画期的な技術を開発させた。脳波とデバイスの相互受信による嗅覚・味覚・触覚の認知である。その素晴らしい技術の可能性は危険性を注視され、文部科学省から不知火凌が規制・調整・制約のパイプ役として出入りしていた。数年の後に国から認可が降り、各業界からの業務提携を受け入れ可能になる。兼ねてより打診のあった他社との共同事業についても不知火の御目通りが逐一必要になる為、常駐という形に納まる。
「そりゃ言うけどお前、国と絡んでやるヤバい事って何だよ?不知火さんから直接聞きましたって?お前どぉした?」
「どぉもしませんよ。うちがヤバい事に手を出してるって知っただけです。」
「だからヤバい事って何だよ。」
「着きましたよ。」
「おい!」
阿知輪は車を降りると、トランクからǢとロゴの入ったアタッシュケースを取り出す。団地の陰には稲葉公太の姿、背中にはǢとロゴの入ったバックパック。そして稲葉は呟く「परिवर्तन」