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ゾンビはレベルが上がった!  作者: 竹内緋色
6/12

巣食う町

6 巣食う町


 部屋を出てしばらく廊下らしきものを歩くと、そのうち、大きく開けた場所に出た。そこはちょっとした酒場のような場所で、いくらかの丸いテーブルの周りに、椅子が並べてある。俺たちが出てきたのは、ステージからだった。

「なんや、これ。」

 ステージの上から眺めて、俺は吐き気を催す。出るものがなくとも、吐き気はあるのか、などと感心してしまった。

「ウチがやった。」

 感情を押し殺した声でラシアは答える。

 その場は、地獄絵図だった。ステージには腐敗した死体。目の周りは落ちくぼみ、蠅がたかっている。服装から察するに、女性だろう。ラシアのような、ひらひらとした服を着ている。その死体を見て、ああ、俺もこうなる運命だったのだ、と思い何故かホッとする。酒場の中には蠅がぶんぶんと所せましに飛んでいる。口に入ってきそうで、思わず口と鼻を手で覆う。中に入ってこられたら、蛆を産まれそうだったからだ。

 ラシアは何事も無いように、酒場の出口を目指す。俺もついていく。ラシアについていくのは危ないとは思うものの、こんな場所にいたくはない。

 椅子にうつ伏せになるように転げている男がいた。その背中がピクリと動いたので、もしやと思って駆け寄った。体を揺さぶる。男の体は地面に落ち、腐ったスイカのように、ぺしゃりと音を立てて崩れた。その体から出てきたのは無数の大きな蛆だった。俺は自分の手を見る。男の腐肉の色に染まった蛆が俺の肌を這っていた。その無垢なるクネクネは決して生理的に受け入れられるものではない。

「うぎゃあ。」

 慌てて蛆を手から払う。その時、嫌な音がして、何事かとまじまじ自分の手を見ると、数匹の蛆が潰れてしまったようだった。白いクリーム色に俺の手は汚れる――

「うえぇ。うげぇ。」

 急いで酒場から出て、路上で吐く。吐くものなどなくて、内臓が出てくるんじゃないか、とひやひやした。地面は石畳で、そこにだけ文明を感じた。

「大丈夫?」

「大丈夫なわけ、ないやろ・・・」

 一瞬でも自分自身と重ね合わせてしまい、ひどく不快になった。

「なんで殺したんや。」

「ウチは悪うないもん。悪いんはあいつらや。」

 意地を張ってラシアは言う。この時から、薄々、ラシアは子どもっぽいところがあると感じていた.そう。見た目とて、年増というわけではない。まだ十六ほどではないかという顔だ。だが、体つきと、アダルティな仕草が、彼女を無理に大人っぽく見せていた。

 自分の罪から目を背けるように、ラシアは勝手に進んでいく。


 そして、数分後には、何もかも忘れたかのように、明るいラシアに戻っていた。

「ここが、夜でもやってるお店。」

 周りは酒場で、意気揚々としている、そんな酒場と酒場の間に影を潜めるようにして、その店はあった。それは店というよりは、浮浪者が路上に物をまき散らしているようにしか見えない。

「おっちゃん。銃弾仕入れといて。」

「弾は?」

 大丈夫なのか、と口を挟もうとした俺をラシアは手を俺の顔の前に差し出して制止する。間近で見るラシアの掌は、白くて、透き通りそうだった。これで死体でなかったら惚れていただろう。

「7.92と52のモーゼルやって。」

「金は?」

「あるだけ全部持っていけやって。」

 ラシアは袋を開けて男に見せる。男が受け取ろうとした時、ラシアは袋を引っ込める。

「ちゃんと現物と交換。」

「輸送に金がかかるんだが?」

「それでも十分足りるやろ。これだけあれば。」

 チッ、と男は舌打ちする。その後、のっそりとした動きで、男の後ろの隙間、建物と建物の間から、木の箱を取り出す。

「このくらいあれば充分だろ。」

 男は木の箱を開けてみせる。そこには無造作に銃弾が放り込まれていた。

「バカ言わんといて。ウチだって素人やない。もう一箱渡せ。」

 再び舌打ちして、男はもう一つ箱を取り出す。

「そこを高くしとんとちゃうやろな?」

「バカを言え。俺は本来お前らみたいなのと商売する身じゃねえ。」

「いかついマフィアのおっちゃんらとやろ?」

「大声で言うな。」

「まあ、でも、簡単に渡してくれるんなら、その取引も失敗なんやな。」

「ちげえよ。あいつらがすっぽかしやがったんだ。こっちは仕入れるので有り金全部使っちまった。ホント、ヤクザってのはあてにならねえ。」

「じゃあ、ウチらはおっちゃんを助けた天使やな。」

「銃をぶっ放そうとする天使がどこにおる。」

 その言葉に、ラシアは俺の方を振り向き、笑顔を作る。何が言いたいのか分かった。つまり、女を天使と言いたいのだろう。だが、あれは悪魔だ。

「ちなみに、ちゃんと使えるんやろうなあ?」

「それは俺にも知らん。」

「まあ、怖い人相手やから、半分は大丈夫やろ。おっちゃんを商人が嵌めようとせん限りは。」

「アンタ、痛いところついてくるな。まあ、変な動作は起こさないとは思うぜ。これでもなんだかんだで商人の扱い方は分かっている。高すぎず安過ぎずの金を払ったし、この銃弾は結構出回っているから。」

「まあ、そういうことにしといたろ。」

 ラシアは男に金を渡し、箱を一つ、持つ。ラシアは俺に、もう一つ持て、と俺に目配せする。俺は持った。だが、思った以上に重い。よくあんな簡単に持てたな、と俺は驚いた。

「なんよ。その目は。」

「いいや。」

 きっとレベルが高いから、力もあるのだと思うことにした。

「なあ、ゾンビって多いもんなのか?」

 俺は先を歩くラシアの背中に聞いた。

「ウチは他のゾンビに会うんはアンタらが初めてやった。」

「よく、いろんなことを知ってるな。」

「ちょっとはあの女子さんに教えてもろたんや。まあ、大体のことは経験で分かったけど。」

 俺はきっと老人や女と出会わなければ今生きていなかっただろうから、ラシアがたくましく見えた。

「ウチに教えられるんはこの町のことくらいや。案内したる。ついてき。」

「待ってえや。」

 俺の喉が否応なしに反応する。

「こんな重いもん持って町歩くんは――」

 と、ラシアは不思議な顔をして俺を見つめる。数秒の間沈黙が続いたが、何かに気が付いたように慌てて言葉を発する。

「そうやな。重いなあ。すんごく重い。でもなあ、ボク。女の子にこんな重いもん持たせたらあかんのやで。女の子のもんを持つのが紳士や。でも、許したるさかいな。荷物運び込んでからブラブラしよな。」

 スタスタ、と足早にラシアは歩いていく。その姿はこんなに重いものを持っているようには見えない。まるで空の箱を運んでいるようだった。


「ウチらがおるんは町でも貧民街の方。でも、貧民街の方が圧倒的に広い。富民街に住んどるんは軍人さんくらいやな。」

 部屋に荷物を置いて、町に出てくる。部屋までたどり着くまでの苦難は割愛する。あの死体をどうにかできないかと俺は考えながら。

「ここは国じゃあないんやんな。」

 町の中心に城のようなものがあったのが気になって、俺はラシアに聞いた。

「うん。昔は国やったけど、南側に征服されて、今は南側の町になっとる。王様もおらへん。ここから戦線まで近いから、お偉い軍人さんがここでのんびり暮らしとるんよ。」

「戦争って終わったんやないん?」

「ほんと、何も知らへんのやな。戦争があったってことぐらいは知っとるみたいやけど。」

 村では、村の外のことはまた聞きするくらいのことだった。誰も危機感を抱いてもなかったので、興味のない世間話のような話題だった。

「戦争はまだ終わってへん。今は両方とも準備の最中ってところかな。」

「準備?」

 なんだか、両者ともが話しあって戦争をしようと決めあっているようなニュアンスだった。

「まあ、なんというか。南側も北側もそれほど真剣じゃないんよ。とりあえず戦争をしとくかって感じ。巻き込まれる側としてはお上の都合で振り回されるんやから、たまったもんやないけど。」

 ラシア自身も戦争を重要視しているわけではなく、ただ迷惑なこと、のようにしか考えていないようだった。

「不思議なもんやな。」

「そうやろ?」

 俺たちは川べりを歩いていた。川は比較的大きいが、汚れている。そして、川には投げ捨てられ打ち上げられた死体――

「こんなところやと、埋葬するための土もないし、火葬するには火がいるけど、それで町が燃えてしもうたら大変やから。」

 それはひどく悲しいことだった。他人事ではないから、より一層。だが、俺よりも他人事でないのはラシアの方であろう。形を残しておらず、白い骸骨となった骸を見ながら、ラシアが人間に戻りたいと思うのも至極当然のように思えた。俺たちゾンビは油断すると、あのようになってしまうのだから。

「ゆうて、この町にあるんはこの川と貧民街、富民街くらいやからなあ。酒場のある通りを行ってもいいけど、ウチは行きとうない。」

 どうして、と聞くのはためらわれた。俺だって村にはいられなかったのだから、ラシアだって同じだろう。それでもまだこの町にいられるだけ、ラシアは強いのだと感心した。

「案内するゆうて、大したことできへんでごめんな。何か買いたいなら店は教えられるけど、夜まで開いとらんやろし。」

 買いたいものなどないから、構わない。食事は採らなくていいし。ただ、今は川からの腐った風に吹かれていたい気分だった。

「うおああ。ああっ?」

 そんな折、川から変な声がした。ラシアが出したものではない。成人した男の声だった。

「あそこ。」

 ラシアが指さす先には、死体を押しのけて立ち上がる男がいた。その体は至る所が紫色に染まっている。

「ゾンビ・・・」

 男の様子は、とても人間味の溢れるものだった。何が起きたのかわからないから、右左と眺めて、次いで自分の体を見る。

「もしかして、さっきゾンビになったんやろうか。」

「かもしれん。」

 俺は男のいる場所まで一気に跳ぶ。少しの浮遊感の後、襲ってきたのは、はらわたを揺るがす振動。そういえば、俺の内臓はどうなってるんだろうと思っていると男に先に話しかけられた。

「なあ。俺は死んだはずじゃなかったのか?」

 俺に聞かれても困るけれど。

「ああ。死んだ。でも、ゾンビになって生き返った。」

 とてもショックだろう、と俺は男の心中を察する。

「うそっ・・・マヂで・・・」

 ひどく落ち込んでいる。

「よしゃああああ。生き返った!」

 と思いきや、大声で喜びの声を上げる。

「アンタが生き返らせてくれたんか?ありがとう。」

 男は俺の手を掴むと、激しく握手をして腕を振るう。腕がもげそうだった。

「俺はアンビシュ。アンって呼んでくれ。お前、チビのくせに最高だよ。」

 なにやら一言多かったが、訂正はしなければ。

「俺が生き返らせたんやないんや。」

「へ?じゃあ、俺はなんで?」

 それを聞かれて、俺も何故俺がゾンビになったのか気になった。俺は上にいるラシアを見る。ラシアもわからへんという素振りをする。

「わからへん。」

 男は少し考えた後、再びはしゃぎだす。

「じゃあ、あんたと俺は同じ境遇ってことでいいんだよな。あんたもゾンビなんだよな。」

「そうやけど・・・」

「わふー!」

 男は珍妙な踊りを踊り始めた。

「あれはこの地域の伝統の踊り。ドッコイセ踊りっていうんや。」

 階段を使って降りてきたラシアが言った。

「おたくももしかして、ゾンビ?」

 男は踊りながら言った。

「まあ、そうやけど・・・」

 俺とラシアは互いに顔を見合わせる。自分が死んでも生き返ったことを喜ぶというのは、まあ、いいことじゃないだろうか。

「ゾンビってのは腐敗が進む。やから、誰かを殺してレベルアップせんと生きて行かれへん。それと、昼間は日光に当たると腐敗が進む。昼間はそとに出られへん。」

「うんうん。分かった、分かった。」

 本当に分かっているのだろうか。

「じゃあ、俺は家に帰るわ。」

 踊りを止めて男は歩いていく。

「待って。家に帰ってどうするんや。」

「そんなん決まっとる。いつもと変わらず過ごす。家には妹が待っとるし。」

 そんな姿で受け入れられるのだろうか。でも、もし受け入れられたとしたら――

「俺もついていっていいか?」

「うん。いいぜ。俺の妹に惚れるなよ?手を出したら本気で許さん。同志だろうとなんだろうと!」

 なんだか爽やかな奴だった。俺は後ろのラシアを見る。なんだか、表情が晴れない。

「ウチは気乗りせえへんけど、陽が上る前に帰らんとあかんのに迷子になったら困るやろ?」

 それでも浮かない顔であるのは変わらなかった。


「ここが家だ。」

 ともかく陽気でアンは言った。そこは町の中でも郊外といった場所で、石畳はなくなり、馴染みある、といっても森とはやはり違う土質の道だった。石はそれほどない。町ができる前はきっといい農耕地だったのではないかと思わせる。

「こんなところ、来たことないわ。」

 ラシアはこんな場所があったと驚いているより、こんな場所が町の一部だと言っていることの方が驚きという感じだった。

「明かりはついてないか。寝てるのかな?」

 アンはそろそろと無防備に家の前まで行く。そして、戸口を叩く。その家は風が吹いてしまえば倒れそうな家だった。石造りだった町とは勝手が違い過ぎた。

「ただいまあ。ミラリー。」

 妹の名前を呼んでアンは戸を開ける。口ぶりからして、兄妹の仲はよさそうだった。俺たちは遠くから見守るつもりだったから、家の中に入りはしなかったが、アンは家に入った後、明かりもつけずに、物音もさせないので、不安になった。俺は家にお邪魔することにした。ラシアは仕方がないとばかりに、俺の後をゆっくりとした足取りで追ってくる。

「邪魔するで。アン。」

 一部屋しなかない家で、アンは途方のくれた顔をして座っていた。

「ミラリーがいないんだ。」

 泣きそうな声で言う。

「書置きさえもない。どうしたんだろう。何かあったら、俺は・・・」

 なんともいたたまれなくなり、俺はアンの肩を抱く。

「大丈夫や。きっと。兄貴がいなくなっちまったから親戚のところにでも行っとるに決まっとる。」

「俺らに頼れる者なんていない。家族は俺と妹だけなんだ。」

 明るかった男が途端にめそめそしだすと、やはりやりきれない。そんな俺たちをバカにするようにラシアは言う。

「もうじき陽が上る。早う帰らんと。」

「でも、妹が――」

「そんなめそめそしとっても始まらへんやろ。男ならもっとしっかりしい。妹が気になるんなら、新聞に広告でもつければええやろ。」

 はあ、とラシアは溜息を吐く。

「そうだ。それだあ!」

 アンは生気を取り戻す。肩を抱いてやった俺を突き飛ばし、家の中で踊りだす。

「よし。早速行こう。」

「でも、夜でも新聞社ってあいとるんか?」

「手紙と金を入れといたらなんとかしてくれるやろ。」

 世話がかかる、とラシアは言った。

「俺のへそくりが少しはある。財布は妹が握ってたからな。でも、これで解決だ。よしよし。」

 とりあえず、町中の新聞局まで行くことになった。


 アンの家を出て、再び町へ。今度は夜でも静かなオフィス街らしい。アンが陽気に先行して、俺とラシアは距離を置いてついていく。浮かれたアンに近づくと、アンの振るった腕が俺に当たってしまいそうだったからである。

 と、そんなアンに横合いから誰かがぶつかる。

「きゃあ。」

 ぶつかったことに驚く声と、それ以上の恐れの含んだ声だった。

「大丈夫か?」

 俺はアンに近寄る。

「俺は大丈夫やけど。お嬢さん、大丈夫?」

 そこには小さな少女が倒れていた。だが、別段外傷はなく、すぐに起き上がる。

「はい。大丈夫です。」

 だが、どことなくふらふらしていて、危なっかしい。

「あんま無理したらあかんで。」

 ラシアも心配そうに少女に声をかける。

「でも急がないと、彼が――」

「どうした?ちょっと事情を話してくれ。俺たちが力になれそうなことなら協力するから。」

 アンが言う。ちゃっかり俺たち、と表現したところが気にはなったが、少女の様子が尋常ではないので、追及はしないでおく。

「私の婚約者の容体が悪くなって。だから、お医者さんのところに急いでいこうと思って。」

「それは大変だ。俺たちもついていこう。一人で夜歩きは危ない。」

 アンはいいやつだ。いいやつなのはいいが、会ってすぐの俺たちまで勘定に入れてしまっているっ。

「すぐそこなので・・・」

 少女は申し訳なさそうに向かいの店をさす。確かに医院と書いてあるが、明かりは当然ついていない。

「よし。待ってろ。」

 アンは医院の扉を叩く。

「お医者さん。急患です。起きてください!」

 返事はない。

「お医者さん。お願いします。」

 俺も加勢する。しばらく戸口を叩くが、反応はない。

「情けは人のためにはならへんよ。」

 ラシアは俺たちの背後に立って言った。

「目の前に困っている少女がいる。それだけで男が命を張るには十分さ。」

「あほ。」

 ラシアは一瞬呆れたかと思うと、すぐさま、体を構える。それは、戦闘態勢であることが俺には分かった。そして――ラシアは店のガラス戸を思いっきり蹴り破った!

「おらあ。さっさと起きてこんかい!」

「今、何時だと思っているんだ。」

 ラシアの声に負けず劣らず、店の中から声が聞こえる。姿を現したのは、パジャマすがたのおっさんだった。

「うん?チュリメか?」

 男は寝ぼけ眼で、見知った顔を発見して言った。

「彼が急に苦しみだして。」

「ポースはもうもたないよ。何度も言ってるだろう。」

「そないなこと、どうでもええから、早くこの娘の家に行け。」

 ラシアは言う。だが、おっさんはラシアの勢いに圧されない辺りは、肝が据わっていると言える。

「そもそも、きみは金を払っていないじゃないか。どれだけ滞納していると思っている。倒産寸前だよ。」

「バカだかい金を取っときながら何を言っとる。」

「彼のようなどうしようもない患者を見てやれるのは俺くらいなんだよ。」

 ラシアが言いくるめられる。ラシアは感情に任せて何か言おうとはするものの、どの言葉も医者を言いくるめられないのも分かっていて、地団駄を踏む。

「なあ、おっさん。」

 俺の横のアンが金袋を握りしめているのが分かって、止めようとした。

「アン・・・」

「こんくらいあれば充分か?」

 医者はアンから袋をふんだくり、中身を確認する。

「今日だけだぞ。」

 医者はそそくさと、店の中へ消えていく。

「あの、その・・・申し訳りません。」

 少女チュリメはアンに頭を下げる。

「いや。いいってことよ。」

 アンは笑顔を見せてチュリメに言うが、その笑顔はやはり、悲しそうであった。

「さあ。行くぞ。あと、そこの小娘。ガラス代は別だからな。後でしっかり払ってもらうぞ。」

 医者はそう言い捨てた。当のラシアはというと、医者の背中に向かってあかんべえをしていた。


 路地裏をチュリメと医師は歩いていく。そこは月が出ている夜でさえも、太陽の輝いている昼間でさえも光が手を伸ばすことはない。故に、この町の闇が眠っている。

 初めは人が寝ているのかと思った。もうすぐ冬で、落ち葉ももうじき全て落ちてしまうから外で寝ては風邪を引く。しかし、外で寝なければならない事情も分かった。

 それは俺と同じくらいの子どもだった。何人かが固まって座り、壁を背につけて寝ている。

 俺はこの町の貧富の差を認識し始めていた。彼らは、貧民の中でもさらに貧しい。村は一種の共同体で、誰か一人だけが極端に貧しくなるということはなかった。それ故、誰かの身勝手な行動が村に打撃を与える。それを防ぐために厳しい掟があった。この子たちも村に生まれればこんな貧しい思いをしなくて済んだのだろうか。いや、違う。彼らはきっと赤ん坊の頃に殺されていた。人口が増えて食い扶持が減らないように――

 チュリメと医師はそんな子どもたちの腋を平然と通る。その時、どこかに触れたのか、子どもたちが倒れれる。崩れる音がして、子どもたちは埃を舞い上がらせながら崩れていった。俺の目の前にはまだ獣のように乱れた金髪が残っている骸骨がころころと駒のように回っていた。声を上げて驚いたのは俺だけだった。先に行く二人は気にも留めないし、アンは顔をしかめて俺を抜かして先へ行く。ラシアは残骸から顔を背け先へ行く。

 生きるとはどういうことなのか。俺には分からなくなった。


 部屋は開け放たれているというのに暑かった。暖炉が焚かれているわけではない。死体であるはずの俺たちが暑いと感じるのは腐敗が進んでいるということ。その腐敗を起こさせているのは、目の前の男だった。名はポース。チュリメの婚約者。部屋の中の慎ましやかな調度品を垣間見ると、裕福な暮らしではない。でも、部屋からは悲しみではなく、楽しかった思い出が滲みだしてくるような温かみがあった。

 ポースは意識があるのかと疑うくらいに呼吸を荒くし、ベッドに伏していた。汗が明らかに人間の保有する水分量を越えるほどに流れている。必死でチュリメが汗をぬぐうも、追いつかない。

「もう無理だ。もって今晩だろうよ。鎮静剤を打ってはおくが、俺にできるのはそこまでだ。」

「何を打つん。」

 生の苦しみを目の当たりにした故か、ラシアは顔をしかめて医師に聞く。

「モルヒネだよ。」

「それって阿片ちゃうん。麻薬やで。」

「だが、薬にもなる。貧民街の町医者の薬だから、まともではないが・・・それでもかまわんのだよな?」

 医師は汚れきったぼろ布の水を切っているチュリメを見て言う。チュリメは無言で頷き、ぼろ布でポースの汗をぬぐう。

「これは痛み止めだ。症状を和らいだように錯覚させる。でも、その間も彼の体は今の彼と同じような責め苦を受ける。彼の体はむしばむ病魔に負けたのだ。今の医学では、これが限界だ。西の大陸の薬でさえも、人体の治癒能力を上げるのであって、病魔そのものを薬で殺せるわけではない。体が戦えなくなったときはそれまでだ。常々言ってはいるが、チュリメ。覚悟を決めなさい。俺から見れば、今日まで生きられたことさえ奇跡なのだから。」

 医師が薬を打って数分後、ポースの寝息は穏やかになった。まるでいい夢を見ているかのように穏やかで、先ほどの苦しみが全て嘘のようだった。だが、その体には病魔が宿っている。

「ウチに治せるのは物質の損傷だけ。生きてるもんは自分の治癒能力でなんとかせんと、体自体が壊れる。ウチの能力は治癒促進の回復やない。」

 俺の見つめる視線に気がついてラシアはチュリメに聞こえないように小さな声で言った。医師はいつの間にか去っていた。

「みなさん。こんなところまで申し訳ありません。ところで、申し訳難いのですが、現在、お金を持っておらず・・・」

「いや。気にしなくていいよ。」

 アンは即答だった。だが、残念そうな顔色は消せない。

「俺にも君くらいの妹がいるからさ。頑張ってね。」

 はあ、と深いため息を吐いたのはラシアだった。

「ほら。新聞社に急ぐで。今から走ればぎりぎり陽が上るまでには帰れる。」

「でも、お金が――」

 ラシアは自分の懐から巾着袋取り出し、アンの目の前に突き付ける。

「貸しや。十日で一割の利息やで。」

 ほら、と俺とアンの尻を叩く。

「ありがとう。あんた、いいやつだったんだな。」

「ウチは始めっからええ人や。アンタ、ウチのこと、なんやと思っとったん。」

 ともかく時間はない。俺たちはチュリメに別れを告げると、夜の街を駆け巡った。

 石畳は深く踏み込むと足に痛みを生ずる。薄い靴底の靴を履いた俺には少々辛い。いや。痛いというわけではないのだが、これを痛みと感じるほかない。足への負担は大きいようだった。成長することのなくなった体はゲージの表すままに摩耗するだけである。

「なあ。今日中に出さなくてもよかったんやないん。」

 今さらながら俺は言う。

「まあ、あの泣き虫が一日中泣きわめくと考えるとぞっとするし。それに、あいつにはあと一日しか残されてへん。もし生き残るんなら、誰かを殺すための余裕がないと。」

 ラシアがもし、などとつけるがおかしかった。アンは絶対に生き延びる。これほど妹に会いたいと願っているのだから。例え、誰かの命を奪い続けることでしか一緒にいることができなくなっても。

「さて。ここや。」

 俺たちはラシアがそう言って立ち止まった後、百メートルは先に行ってしまった。体の感覚がない分、身体能力は見境が無くなり、ほんの一秒で百メートルも跳ぶことになったのだ。

「どこまで跳んでんねん。」

 ラシアに怒られつつ、引き返す。

「ほれ。ポストに要件書いた紙とお金を入れとき。まあ、金だけ取られるかもしれんけど、そんときはそん時や。」

 山の端がうっすらと青くなる。だんだんと川が光を持ち始める。それは生命の躍動と言うべき素晴らしい瞬間なのだろうけど、俺たちにとっては死の宣告である。

「あかん。タイムリミットや。」

 ラシアが言い終わる前に、俺たちは走る。だが、アンは一足遅れた。その後、俺たちはオフィス街を突っ走り、日光が差し迫る川沿いに出たが、アンの様子がおかしい。何か、疲れたような顔をしている。

「アン。まさか、眠いんか⁉」

「そうみたいだ。」

 そんなことを言われても困る。陽の通りのいい、開けた場所である川沿いに出てしまったのだ。日光は俺たちの影を駆逐せんと、すぐ後ろまで迫っている。この近くに日中影が当たらず過ごせる場所などない。

「あ。」

 あ。じゃねえよ。なんでこけそうなんだよ。日光が近くなって自分が危ないって分かってるのに、なんで絶望したような顔をしないんだよ。俺に構うな、みたいな顔、するなよ――

 太陽光線がアンの体を包む――寸前。俺の体は動いた。宙に浮いたアンの体を腕で抱き留める。そして、前へ。太陽が届かないところへ。ついでに、ラシアもアンを抱き抱えていない方の腕で抱きかかえる。

「熱い。熱いぞ。」

「アンタ、どないしたん。熱いから離して!」

「黙ってろ!」

 一番熱いのは俺なんだ。少しくらいあった手足を動かす感覚がなくなっていく。それは体が羽毛のように軽くなったのか。それとも、死体の限界を超えつつあるのか。脳まで蕩けそうな熱さ。もう、正常な思考などできてはいない。だが、今は酒場に帰ることだけを、太陽から逃れることだけを考えればいい。

「うおおおおおおお!」

 理性の吹っ飛ぶ轟音。体から噴き出る湯気。そして、ドアごと吹き飛ばす体。あらゆる死体を吹き飛ばして、空中に雨の如く蛆が降った。

「こら。ここで力尽きるな。」

 ラシアは俺とアンの襟首をつまんで、飛び込んだステージから深淵の闇である奥へと引きずりこむ。そして、一夜の大冒険は終わった。


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