09 最強の魔王
リューグナー・ライアー。
魔界で彼の名を知らない者はいなかった。
彼に近寄る者はほとんどおらず、リューグナーが魔王採用試験を受けるという噂が広まったときはちょっとした騒ぎになったほどだ。
彼ほど、魔王としての条件を兼ね備え、かつ魔王に不向きな魔族はいない。
試験官はリューグナーを採用するか散々迷わされたあげく、彼の有無を言わせぬ実力に合格を言い渡す他なかった。
*
「こんな……ひどい」
魔王城には世界全体を見ることができる魔法がかけられている。
なにか異変があれば気付くことができるその魔法は優秀な魔女ドルチェが編み出した魔法だった。
そのドルチェが告げたマールの滅亡。
言葉だけでも絶望的なそれは、目の前にすると地獄のようであった。
きらめく海を見下ろしていた街は今や廃墟と化していた。
前日までは、美しい町並みを見せてくれていたマールの街には炎がくすぶり、生きている人間はどこにも見あたらない。
マールの滅亡を聞いてロゼッタを連れて行くことをためらったリューグナーに、ロゼッタはそれでも付いて行きたいと頼み込んだ。
誰かひとりでも助けることができるのならば。
希望をもってリューグナーとともにマールへと戻ってきたが、マールには既に希望の一欠片も残ってなどいなかった。
「どうしてこんなことを……」
「俺への当てつけだと思うよ」
リューグナーとロゼッタがガルディを連れてマールを去った後。
この街で起こっただろう悲劇を想像して胸を痛めるロゼッタの隣でリューグナーはぽつりと呟いた。
「魔界にはほとんど魔力は残ってない。だから、魔族や魔物は人間界を侵略する。魔力は人間の絶望から生み出されるものだし、俺たち魔界の民が生きるために必要なものだけど、この世界の魔力はこんな殺戮を行わなくたって事足りてるんだ。
けど、この世界に生きる魔物たちは魔力は足りてたって、俺が侵略行為をしないから人間に命を狙われて安心して眠ることもできない」
「……それで怒った魔物が暴れているということですか?」
「魔王が平和な世界を目指すっていうのも、俺は悪くないと思うんだけど、わかってもらえない」
悲しげに言いながら、リューグナーは道端で恐怖に目を見開いたまま事切れた女性の遺体の目をそっと閉じてやる。
「いや……望んだのが、俺だからなのかな」
「リュー様……?」
自嘲するように表情を歪めたリューグナーにロゼッタが思わず声をかけると、背後から強い風が吹いた。
髪が煽られ、転んでしまいそうなほどの強風に思わず目を閉じる。
よろけながらも必死に目を開けると、ロゼッタをかばい立つように前に出たリューグナーの向こう側。
上空に大きな翼を広げた竜のような魔物が羽ばたいていた。
「ワイバーンか。魔王城の目の前でこんな勝手なことするなんて、度胸あるね」
さっきまで苦しげにしていたのが嘘かのように、リューグナーは挑発的な笑みを口元に浮かべる。
翼を大きく動かしながらワイバーンは怒りに表情を染めていた。
「腰抜けの魔王なぞに振る尾は持ち合わせておらぬわ! なにゆえ侵略をおこなわない! おまえの代わりに私がやったまでのこと!」
「頼んでないし、俺には俺の計画がある。勝手な行動は規律違反だ。街を滅ぼすなんて最低最悪。魔王様の計画が台無しになったらどうしてくれんの」
軽い調子で言いながらもリューグナーの口調の端々からは怒りが感じられる。
ワイバーンは魔王であるリューグナーの怒りを鼻で笑って一蹴した。
「リューグナー・ライアー。おまえが魔王として配属されると聞いたときは、どんな残酷無比な殺戮を見せてくれるのかと期待していたというのに、なんだこの様は。人間の女も連れているなど言語道断!」
「ロゼッタは俺の目指す世界の鍵だ」
「はっ。あのリューグナーが堕ちたものだ! 思い出せ! 無惨に父親を殺したあの日を! 親殺しのリューグナー・ライアー! 伝説の大魔王をその手に掛けたあの日を!」
親殺し。伝説の大魔王を手に掛けた。
怒り狂うワイバーンから発せられたその言葉はリューグナーにはとても似合う言葉ではなかった。
驚くロゼッタをリューグナーは振り返らない。
ただ忌々しげに彼が口にした小さな声だけがロゼッタの耳に届いた。
「思い出したくもない……。あんな日のこと」
頼もしくロゼッタの前に立つリューグナーの背中が突然泣いているように見えた。
緊迫した状況の中。一瞬だけリューグナーとロゼッタの間の時が止まったような感覚があった。
悲しみや孤独がリューグナーの背に重くのしかかっているのが見えるかのようだった。
「おまえがやらないのならば、俺がやるだけのこと! 死ね! 魔王リューグナーよ! 潔く魔王の座をこの私に空け渡すのだ!」
時が一気に動き出す。
意識を過去に飛ばしていたリューグナーがハッとした様子で身構えたのとワイバーンが急降下してきたのは、ほぼ同時だった。
ガルディの背中に傷をつけたのは、おそらくあのワイバーンの爪だろう。
鋭く光る毒の爪がリューグナーに迫っていた。
「リュー様!」
リューグナーまで、あの毒に侵されてしまう。
死んでしまう。
いなくなってしまう。
魔王がこの世界から居なくなるなんて、きっと喜ばなければならないことなのだろう。
だが、ロゼッタはもうリューグナーをただの魔王として見ることなんてできなかった。
思わず叫んだロゼッタにリューグナーは応えることはなかったが、口端をわずかにあげた。
皮肉めいたその笑みはロゼッタに見えることはなかった。
ワイバーンの爪がリューグナーの頭を砕かんとしたその時、リューグナーは広げた手のひらを前に突き出した。
動きとしては、ただそれだけ。
しかし、そのひとつの動きで状況は一変した。
「ぐぎゃああ!」
突っ込んできていたワイバーンの巨体が殴られたように弾き飛ばされる。
翼は根っこの部分に大穴があき、地面を転がっている最中にもぎとれてしまった。
鮮血でマールの廃墟を汚しながら数十メートル後方へと飛ばされたワイバーンは何が起きたのかわかっていない様子だった。
大きな目玉をぎょろりと動かして、低く呻くのみ。
その半開きになった口からも粘度のある血液がたれ流されていた。
「今のは、何が」
あまりに一瞬の出来事にロゼッタは目を瞬かせる。
震える声をあげるロゼッタを振り向くことなく、リューグナーはゆったりとした足取りでワイバーンに近づいていった。
「君さ。勇者を襲っただろ。逃がしたみたいだけど、まだ生きてる。あの毒ってなんの毒だったの?」
「あ、ぐ、はは。あれは、私が魔力を練り上げた毒だ! いずれ必ず死に至る! 今は生きていようとも、勇者を倒すのは、この私だ!」
鮮血を飛び散らせながらワイバーンは狂喜して叫ぶ。
絶望的な宣告にロゼッタが固まっていると、そこでようやくリューグナーはこちらを振り返った。
「大丈夫」
決して大きな声だったわけではない。
だが、その声はまっすぐにロゼッタに届いた。
ワイバーンの隣。こちらを振り返ったリューグナーは穏やかな表情で頷いた。
「ロゼッタが俺を嫌いになっても、俺は絶対ロゼッタを泣かせないから」
あまりに寂しげなリューグナーの表情に言おうとした言葉が出てこない。
マールの滅亡、ワイバーンの惨状、ガルディの絶望的な状況。
突然次々と起きた衝撃的なことに頭も心もついていけていなかった。
「私を、殺すのか」
虚ろな目をしたワイバーンが掠れた声で呻く。
リューグナーは「いいや?」と首を横に振った。
「そりゃ俺には君を殺す権利があるよ。魔王様だしね。けど、殺したりなんかしない。もう殺さないって決めてるし」
「魔王だというのにか」
「そうそう。俺は最低で『立派な魔王様』になることに決めたの」
にんまりと笑ったリューグナーはワイバーンの頭にぽんっと一回手を乗せた。
地面に転がるワイバーンの周囲に闇色に輝く魔法陣が浮かび上がる。
諦めたように目を閉じたワイバーンは飲み込まれるようにその魔法陣に沈んでいった。
「魔界への強制送還。あっちで裁きと治療受けてきて。ごめんね、手加減下手で」
とぷん。と地面が波打ってワイバーンを飲み込んだ魔法陣も消え去る。
静けさを取り戻した血にまみれた廃墟に立ったリューグナーは不自然なほどに、いつも通りの笑みをロゼッタに向けた。
「さあ、帰ろうか、ロゼッタ。怖い思いしたでしょ。ごめんね」
「怖い思いなんて……」
「いいよいいよ、無理しなくて。怖いに決まってんじゃんか、あんなの! ねえ!」
にこにこと張り付けたように同じ笑みを浮かべたリューグナーにロゼッタは何か声をかけたかったのに、できなかった。
表情を曇らせるロゼッタを、リューグナーはガルディを心配していると思ったのだろう。
「大丈夫だよ」と頷いたリューグナーは、ロゼッタの肩に触れかけて、慌てたようにその血がついた手を引っ込めた。
「勇者を救う方法ならひとつだけある。それをあいつが選択するかどうかだけが問題だけど、きっと大丈夫だから安心して。ロゼッタは安心してガルディのことを待ってればいいよ」
いつもなら、きっと頭を撫でてくれていただろうリューグナーの手は彼の背中に隠れてしまっていた。