07 クリスタルと勇者
青年は、ただひとりだけ。必ず救うと誓った少女のことを思いながら、賢明に歩を進めていた。
視界がにじみ、一歩進むごとに倒れそうなほどに体力が奪われていくことが感じられる。
原因は彼の力不足だ。
彼女を救うために賢明な努力を重ねてきたつもりだったのだが、まだ足りなかったらしい。
その力不足を青年に突きつけるように、背中に刻まれた深い傷が熱を帯びた。
あと少し。あと少し歩くことができれば、街にたどり着く。
そこで治療を受けることができれば、まだ彼女を救うために何かできるかもしれない。
一掴みの希望を胸に、必死で歩み続けていた彼の視界は無情にも黒く染まる。
足下にあった小さな石につまずいて、転がった体を起きあがらせる体力も、もう残ってなどいなかった。
「アンジュ……」
アンジュ。約束したのに、君を迎えに行けない僕を許してくれ。
*
「あーんしたげよっか? デートらしく」
「ひとりで食べられますので結構です。お気遣いありがとうございます」
魔法で角を隠し、更に魔族の証である紅い瞳も紫色に染めたせいか、普段よりよっぽど幼く見えるリューグナーがあからさまに肩を落とすのを真顔で見つめながらロゼッタは食事の最後の一口を食べ終えた。
港町マールのレストランにはテラス席があった。
きらめく海と船の並ぶ港を一望できるすばらしいテラス席。
観光地でもあるこの街のレストランでは、テラス席なんてきっと簡単には座ることなんてできなかっただろう。
今こうしてテラス席にいとも簡単に座れてしまっているのは、その美しい海の向こう側に禍々しい魔王城まで見えてしまうからだ。
マールはリュミエーラ王国の西に位置する港町だ。
魔王城に近いこの街は人口も観光客も減って寂しくなったと、途中で立ち寄った店の店主が嘆いていた。
この街にしてはよくないことなのだろうが、一観光客としては、観光地として有名なこのマールの美しい町並みをゆったりと見て回れることはありがたいことだ。
あまり外にも出たことがないロゼッタにとって、町中を自由に歩き回ること自体が新鮮なことだった。
きょろきょろと辺りを見回しながら歩き回るロゼッタに、リューグナーはけらけらと笑うばかりだ。
「海、見に来てよかったっしょ? このテラス席につれてきてあげたいって思ってたんだよね」
今朝になっても、リューグナーはデートの行き先を教えてはくれなかった。
移動も転移魔法とやらで簡単にすませてしまう魔王様は「はい、それじゃいくよー」と馬車も用意せず、ただパチンと指を鳴らすだけでマールへと移動してしまった。
ロゼッタは今朝、なんの心の準備もなく、部屋にやってきたリューグナーに「おはようございます」と挨拶をした次の瞬間には海を目の前にしていたのだ。
人生で初めて見る海は輝いていて、大きくて。
寄せては返す波には、吸い込まれそうな感覚を覚えた。
太陽の光を受けて眩しいほどに輝く海を呆然と見つめていたロゼッタを引っ張るように、リューグナーはマールの街を歩きまわり、「疲れた!」と休憩のためにこのレストランに入ったのだった。
「はい。マールは昔から一度来てみたかったんです。リュミエーラ王国の有名な観光地ですから、死ぬまでに一度行っておきたいと思っていました」
「魔王様に殺される前に、でしょ? その魔王様とまったり一緒にごはん食べちゃってるんだから人生って不思議なもんだよね〜」
うんうん、と当の魔王であるリューグナーは頷きながら、最後の一口を食べる。
ここに来てはじめて知ったのだが、彼はかなりの辛党だ。
激辛カレーライスを注文し、さらにその上に持参した魔界産デスソースをかけている間は、見ているだけのこちらの目がしみるようだった。
対して甘党のロゼッタの今日のお昼は特大パフェだ。
「そんなに食べられる……?」と若干引いていたリューグナーには悪いが、甘いものならばいくらでも受け入れる胃袋をもっているので何ら問題はない。
見上げるほどに大きな特大パフェは数名でシェアすることが前提のメニューだったそうだが、もうひとつ食べてもいいなと思えるほどにはおいしかった。
「リュー様は食べられるのが遅いのですね。健康的です。あまり辛いものはよくないと思いますが」
「甘いもんそんなに食べるロゼッタには言われたくないけどね? しかも、ロゼッタが食べるの早かっただけでしょ。途中スプーンが見えなかったよ、俺」
けらけら笑いながら水を飲んだリューグナーはゆっくり立ち上がる。
続いて立ち上がったロゼッタは、残念なことにお金をもっていなかった。
会計をリューグナーに任せなければならないことで少々もやもやはしたものの「一回だけ何でもリュー様の言うこと聞きます権」をリューグナーに贈呈することで、食事代はおごってもらうことにした。
「それじゃ、マール観光もそろそろ終わりにして、目的のクリスタルをもらいに行こうか」
「買いにいくのではなくてですか?」
「もうお金払ってあるんだよね。だから、あとは受け取りにいくだけ。特別なクリスタルだから、加工とかに時間かかっちゃうんだってさ」
「そのクリスタルは、なにが特別なんですか?」
さっきまでは宛もなく歩いている様子だったリューグナーだが、今はきちんと目的の店に向かって歩いている様子だ。
隣を歩くリューグナーを覗きこむように質問すると、リューグナーはにんまり嬉しそうに笑って、自身の顔を指さした。
「俺の魔力を結晶化してもらったんだよね」
確かにそれは特別な技術だ。
クリスタルとは通常透明な高級ガラスを加工したものだ。
魔力をクリスタルとして加工する技術なんてものがあることに驚いたロゼッタにリューグナーが続ける。
「あんまり知られてない技術らしいよ。まあ、技術自体はなんでもいいんだけど、魔力を結晶化して物質として置いておけるってことが重要なんだよね」
「なにかに使われるんですか?」
「ロゼッタへのプレゼントに」
「……私にですか?」
予想外の返答に、若干返事のタイミングがずれてしまった。
驚きすぎて真顔になるロゼッタに「もっと嬉しそうにしてほしーい」と一瞬だけ泣き真似をしてから、リューグナーが今度はロゼッタを覗きこんだ。
「ロゼッタは俺がロゼッタを殺すと思う?」
「いきなりどうされたんですか?」
「どう考えても殺さないと思わない? だって、一緒に軍まで作っちゃったんだよ? おかしくない? お世話係にまで任命しちゃったし」
「それもそうですね。ですが、予言は確かに宣告されていますので、いつか何かで殺されてしまうのかもとも思っています」
「はー、ロゼッタは疑り深いなあ。俺はロゼッタのことは殺さない。予言なんて破るためにあるんだから。だから、ロゼッタを魔王に殺させるわけにはいかないでしょ?」
「どういう意味ですか?」
ロゼッタを殺す可能性がある魔王はリューグナーではなかったのか。
その本人が言う台詞としては、今の言葉はおかしいいだろう。
怪訝な表情を見せるロゼッタにリューグナーは「忘れちゃった?」と肩を竦めてから、真面目な表情を見せた。
「魔王は魔界ではただの職業。世界はここだけじゃなくたくさんあって、いろいろな世界に魔王が配属されてる。しかも、これは知らないかもだけど魔王は異世界への転移なんて指ぱっちんでちょちょいのちょい」
はっとした。
魔王=リューグナーだという図式が頭の中で完成していたロゼッタにとって、それは盲点だった。
異世界の魔王によって、何かしらの理由で予言通りに呪い殺される可能性もある。
その可能性をリューグナーは指摘しているのだ。
「なるほど。わかりました。殺されるかもしれない私への冥土のみやげにクリスタルをくださるんですね。魔王の魔力が込められたクリスタルをあの世に持っていけるなんて人はそうそういないでしょう。ありがとうございます」
「いやいやいや! ロゼッタは本当に自分が死ぬこと受け入れすぎだから困るよね! 違う違う。クリスタルはロゼッタを守るためにあげるの」
心底呆れた様子のリューグナーにロゼッタは首を傾げる。
さらにため息を吐いたリューグナーは「あのね」と言葉を選んだ様子で口にした。
「ロゼッタが予言を受け入れて生きてきたのはわかるけど、俺は受け入れてないの。俺はその予言を破りたいわけ。だから、ロゼッタを守るために俺の魔力を結晶化させたクリスタルをプレゼントするから、いつもちゃんとつけてて。
ロゼッタは魔法は使わないからわからないだろうけど、魔力って一人ひとり違うから、俺の魔力のにおいがするってわかったら、そうそう手出しはされないはずだから」
「リュー様は、魔王様の中でも優秀な魔王様なんですね」
「……優秀っていうか、なんていうかなんだけど。でも、ロゼッタがそう思ってくれるんなら、それでいいよ」
どこか気まずそうに視線をそらしたリューグナーを不思議に思っていると、目的地についたらしい。
「あったあった」とリューグナーが小走りで行ったのは、街の裏門近くにひっそりと佇む小さな露店だった。
失礼ながら、こんなお店でそんな技術が扱われているのかと内心少々驚きながらも見守っていると、手続きを追えたリューグナーが心底嬉しそうな様子で回れ右をして戻ってきた。
その手に握られていたのは美しい滴型のクリスタルだった。
銀色のチェーンがつけられ、ネックレスとして加工されているそれは透明で上品な色合いながらも光を受けると虹色に輝いた。
とても魔王の魔力から作られたものとは思えない、透明感のある輝きにロゼッタは目を見開く。
「おいで、ロゼッタ」
ちょいちょいと手招きされて、リューグナーの傍へと歩み寄ると、リューグナーはロゼッタの首にクリスタルをかけてくれた。
うなじで留め金を留めるために髪の毛にさしいれられた指先がくすぐったくて、どうにも居心地が悪い。
リューグナーの顔があまりに近くて、どこを見ていいのかわからずに視線をそむけていると、リューグナーがくすっと笑った気配がした。
「はい。できた」
ぱっとネックレスの留め金から手を離すと同時に緊張しているロゼッタを気遣ってか、二歩ほどさがったリューグナーはロゼッタの胸元に輝くクリスタルを見て、満足そうに頷いた。
「すっごく似合ってる。俺のって感じ」
ロゼッタも自身の胸元で輝くクリスタルを見下ろしてみる。
あるべくしてそこにあるというように、自然におさまったクリスタルの輝きは、ロゼッタを安心させるものだった。
これを身につけていれば、死なずに済むのかもしれない。
そんな根拠のない安心感をこのクリスタルは与えてくれた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
こんなにも自然に笑えたのは久しぶりだった。
心の底からの幸福があふれてしまった笑顔。
それはロゼッタに自覚はなくとも、クリスタルの輝きを霞ませるほどに美しいものだった。
リューグナーはロゼッタの笑顔に自身の笑みを深める。
「よかった。笑ってくれて」
「私はよく笑いますよ」
「よく笑うとは思わないけどなー。そんな自然な感じは久しぶりに見た」
ロゼッタより嬉しそうにしているリューグナーは、以前はいつロゼッタの自然な笑みを見たのだろう。
一年前から監視していたというが、そのときだろうか。
そんなに幸せなことってあったっけと思いを巡らせながら、ふと視線をうつした先。
裏門の外に広がる緑あふれる大地の中に、一点だけ異色なものを見つけた。
魔物かもしれないと目を凝らす。
魔王城の魔物たちは穏やかだが、好戦的な魔物の方が断然多いことはよく知っている。
マールの街を狙っているのではないかと警戒したロゼッタの気配にリューグナーもロゼッタの視線の先を追った。
「……あれは」
リューグナーの暖かだった気配が突然逆立つ。
しかし、それに気付くこともできず、ロゼッタはただ緑の中では目立つものを見つめていた。
人。人だ。
倒れているその人の背は血で塗れているように見えた。
「ロゼッタ!」
人だとわかった瞬間、反射的に駆けだしてしまったロゼッタにリューグナーが焦ったような声をかけてきたが、止まることはできなかった。
駆けたこともない緑の大地を走って、たどり着いたその先。
倒れている青年の顔を見て、ロゼッタは口を覆った。
「……ガルディ」
マールの街の外。
背中に重傷を負って倒れていたのは、勇者・ガルディであり、『アンジュ』の婚約者だった。