06 夜
自分は本物のアンジュではない。
ただひとりだけ。勇気を出して真実を告げた彼は、『アンジュ』の真実を知ったその翌朝に旅立った。
命を賭けて魔王に殺されるという『アンジュ』の悲惨な運命を変えようと彼は立ち上がった。
そんな彼をどうにか止めたくて告げた真実は、優しかった彼の心には余計に火をつけただけのようだった。
彼にとって『アンジュ』が本物か偽物かなんて関係はなかったのだ。
目の前の少女を彼は救おうとしてくれていた。
「必ず君を幸せにするから。今は待っていて」
寂しさを押し隠し、涙をこらえた幼かった日のロゼッタに、彼もロゼッタと同じような表情を見せて、城から旅立った。
まだ朝日が眩しい中。彼の背中が遠くなっていくのを、「もう会えないんだろうな」と思いながら見送ったあの日から。
どうしてだろう。ロゼッタは夜が来るのを今か今かと待つようになっていった記憶がある。
夜に、何が待ってたっていうのかしら。
「ロゼッタ様? こんな夜更けにどうされました?」
「セリオさん。こんばんは。私、夜のお散歩が日課なんです」
ロゼッタは夜が好きだ。
どうしてかはわからないが、昼間よりも断然夜が好きだった。
外が暗くなってくると子どもの頃は嬉しくてたまらなかったのを覚えている。
そして、ある時期から夜が来ると何かを探すように城内を散歩しだすようになった。
その時期から、ロゼッタにとって夜の散歩は日課だ。
「セリオさんは、こんな夜遅くまで見回りですか?」
ロゼッタは宣言通り、魔物全員に名前をつけた。
一人ひとりに話を聞きにいき、名前をつけさせてくれと願い、その人の雰囲気や話す話題から名前をつけていった。
今この中庭で対面しているコウモリの形をした魔物は生真面目なセリオさん。魔王城の警備係のまとめ役を任されている。
「ええ。城門前でヴィヴィアンとイノサントが見張りをしてはいるんですが、どうにも心配で」
「ふたりともがんばってくれていますよ」
「それはわかっているんですが、心配性な性格なもので夜に城を一回りしないと安心して眠れないんです」
低木に降り立ったセリオは器用に翼の先の爪でぽりぽりと照れくさそうに頭を掻く。
その姿がかわいらしくて、ロゼッタはわずかに頬をあげた。
魔物たちは名前をつけられて嫌がる者はひとりもいなかった。
セリオのように照れたり、飛び跳ねて喜んだり。
名前がついたことによって、それぞれを思いやる気持ちも強くなった気がするとドルチェに言われたときは、ロゼッタも嬉しかった。
魔王城は魔王城とは思えない平和で暖かな雰囲気に包まれている。
リュミエーラ王国の城よりも穏やかなくらいだ。
あのお城はいつも義父であるレックス王が偽物のアンジュを見ては、周囲の空気をピリつかせていた。
「ロゼッタ……と、セリオ。なにしてるの、こんな夜更けに密会〜?」
気怠そうに伸びをしながら中庭に現れたのはリューグナーだった。
庭師を努める魔物によって美しく剪定された木々が並ぶ月光が降り注ぐ中庭に立つとリューグナーの整った顔立ちが、より一層際立つ。
月光に溶けるように光る黒い髪は夜風にそよいでいた。
「これこれは! 魔王様。密会なんてとんでもございません。見回りをしていただけでございます」
「リュー様。お散歩ですか?」
慌てふためくセリオの隣でロゼッタはのんびりと小首を傾げる。
リューグナーの髪を綺麗だなとぼんやり思っているロゼッタの月色の髪もまた、月光の中では当然のように光り輝いていた。
「夜のロゼッタはやっぱり絵になるなあ」
「美に関する努力には未だ手を抜いてはおりませんので」
「そういうところ、俺は好きだよ」
謙遜するでもなく、自分の生来の美を認めるわけでもなく、重ねてきた努力を誇るロゼッタにリューグナーは喉を鳴らして笑う。
それから固まったままでいるセリオに微笑みかけた。
「セリオは見回り中だっけ? ちゃんと休まなきゃダメだよー。今、当番の時間じゃないんじゃない?」
「はっ。ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えてそろそろ休ませていただこうかと」
「そうそ。ゆるりと仕事してね」
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべたリューグナーが手を振ると、セリオは翼で敬礼して慌てた様子で飛び去っていった。
「あれは忠誠というより恐れ? のような気がするのですが気のせいでしょうか? リュー様は厳しい魔王様には見えない気がするのですが」
ふむ、と考え込んで腕を組むロゼッタにリューグナーは「まあまあ」と誤魔化すように手を振った。
「そんなことより、探してたんだよロゼッタ。こんな晩にうろつかないでよね。部屋にいてよ」
「夜の散歩が日課なんです。魔王城にきてからは初めてですが」
「あー、そうだったね」
魔物への名前付けやら面接準備やらでバタバタしていて魔王城に来てからは夜の散歩はできていなかった。
リューグナーが昔からロゼッタが夜の散歩を日課にしていることを知っていたように頷いたのは、彼が一年間ロゼッタの監視をしていたからだろう。
なにが目的なのかは未だにわからないのだが。
「ま、でも、もう夜に散歩する必要もないよ。俺が毎晩遊びに行ってあげるから」
「毎晩は困ります。私も眠らなければなりませんので」
手のひらを前につきだして明確な拒否の姿勢をとるロゼッタにリューグナーが「えー」とあからさまに肩を落とす。
その子どもみたいながっかりしようがおかしくて、ロゼッタは表情を緩めて、突き出していた手のひらをおろした。
「遊びにいらっしゃるのは構いませんよ。よく眠れる紅茶を用意してお待ちしています。食事担当のルフレが茶葉をくださったんです」
「ロゼッタと魔物たちが仲良くしてて俺も嬉しいよ。ロゼッタには友達が必要だと思ってたしね」
「友達、ですか」
「ずっとひとりじゃ寂しいでしょ」
リューグナーが肩を竦めながら言った言葉には優しさがこもっていた。
一年間リュミエーラ王国の城で『アンジュ』として生きるロゼッタを見て、その孤独さをリューグナーは察したのだろう。
どうして魔王様が誘拐してきた姫にここまで優しくしようとするのか。
リューグナーから優しさをもらう度に、胸の中がほっこりと暖まるような感覚とともにそんな疑問が頭をよぎる。
だが、今はその疑問は振り払ってロゼッタはその優しさを素直に受け止めることにした。
「そうですね。でも、私はリュー様と面接準備をしているときも楽しかったですよ」
「なにそれ、嬉しい」
ふふっと可愛らしく笑ったリューグナーの頬がわずかに赤く染まる。
最近わかったのだが、リューグナーは照れるとすぐに頬が赤くなる。
なんだか魔王らしくないそんな特徴がリューグナーらしく思えた。
「私を探していらっしゃったんですよね。どうされましたか?」
「そうだった。明日、おでかけするから早く寝なさいねって言いにきたんだよ」
「おでかけ、ですか?」
ロゼッタの眉が訝しげに顰められる。
リュミエーラの城にいた頃もでかけるときは王族の儀式を執り行うときやパーティーに参加させられるときのみで、その他はほぼ城内での幽閉生活を強いられていた。
義父王レックスはロゼッタが本物の『アンジュ』ではないことが何者かに知られ、それが魔王に知られてしまうことを何よりも恐れていたため、ロゼッタをあまり一目に触れさせたがらなかったのだ。
「あんま嬉しそうじゃないことにショックなんだけどー」
ロゼッタの反応がいまいちだったことが不満だったのか、リューグナーは唇を出して典型的な拗ねた表情を見せている。
ロゼッタはいつも通りの無表情で「いえ、嬉しくないわけではありません」とリューグナーの言葉を否定した。
「リュー様は私を誘拐されてきたのですよね?」
「そうだよ? 夜中に忍び込んでががーっとね」
「しかも、リュー様は魔王様です」
「そうだね。泣く子も黙る魔王様です」
「魔王様が誘拐してきた者を連れておでかけなんて、少々私の常識内では考えられないことだったというだけです」
「なるほど。確かに常識はずれだ」
納得した様子でぴしっとこちらを指さしたリューグナーにロゼッタも神妙にうなずく。
不思議な空気がうまれたところでリューグナーは「でも」と力強く言い放った。
「俺が行きたいって言ったなら行くんだよ。だって魔王様だし。ロゼッタがどうしてもヤダってんなら行かないけど、それなら俺は毎晩ロゼッタに行こ行こって駄々こねるだけだから覚悟しといてよね」
「どうしてそこまでなさるんですか……?」
わずかな呆れを含んだ声にリューグナーは、むっとした様子で眉を寄せた。
「当然でしょうが。デートに誘ってすげなく断られたなんて、魔王様としてのプライドが許すわけないでしょ」
「……デート?」
「あれ? 忘れてた? 俺って男の子なんだよ? ぴっちぴちの六千八百二十四歳」
「五千七百二十四歳とうかがっていた気がするんですが」
「あれ、そうだっけ。まあまあ、年の差なんて気にすることないよ。それで、明日のデート。俺と行ってくれるの?」
挑戦的な笑みを口元に浮かべたリューグナーにロゼッタは一瞬返事を言いよどむ。
イヤだったわけではない。「デート」という甘い響きに少々照れただけだ。顔にはまったく出なかったが。
「……はい。行きます」
「おお! やったー! わーい!」
無邪気に万歳する魔王様には威厳も欠片もない。
ここまで喜んでもらえると了承した甲斐があるというものだ。
「それじゃ、また明日迎えにいくから」
「行き先はどこなんですか? 魔界であれば、私もそれなりの覚悟を持たなければなりません」
「魔界なんて行かないよ。ロゼッタを獣の檻に放り込むようなもんじゃん。明日はクリスタルを買いに行くよ。特別なやつ」
にっこり微笑んだリューグナーはスキップしそうな勢いで城内へと去っていった。