しのぶれど
某学部の三年生の桐生いづみは、男に落ちないことで有名だ。特にこれといって美人でもなく、優秀というわけでもない。中肉中背、おそらくは、身長も体重も、平均値あたりであろう彼女には、一度も浮いた噂を聞かない。男がいる影もなく、かといって、男に敬遠されるでもなく。普通なのだから、別段、男の一人いたとしても不思議ではない。しかし、そういう話は一度も聞かない。特徴もないので、男子たちの話のネタにされることもない。だからこそ、今、彼女の話をし出した男子たちは、奇特といっても過言ではなかった。
「いくらお前でも、あれは無理だね」
「なんでだよ。あのレベルなら、別に俺じゃなくてもいけるだろ」
「いいや、無理だね。まあ、大抵の女子なら、お前が少しじっとみて、近づいてやれば、すぐにあっちのほうから寄って来る。でもあの人はむりだろ」
けどまあ、同じようにして近づいてきたあの人をフれば、お前の勝ちってことにしてやるよ。
そういって、にやりと目を細めた友人に、小鳥遊春樹は悪趣味だな、と笑い返した。
要するに、桐生いづみを遊びで落とせといっているのである。
「乗り気なくせによく言う」
「俺が勝ったら、なにしてくれんの」
「食堂で一週間好きなもん食わしてやるよ」
もちろん、オレのおごりでな。
なかなか、目の前の友人は、おもしろいことを言う。同じようにして落ちない女など、ほぼほぼいないだろう。なのに、この友人は自分が負ける方にかけた。
「んじゃ、負けたら、俺は一週間ダサいかっこで大学に通う」
「は、いうね」
後悔してもしらねぇぜ。そう言って友人は、バイトに向かっていった。
…さて、どうしようか。
手始めに選んだのは、電車だった。徒歩で通学している彼女は、ほとんど電車を利用することがないようだったが、この日はちょうど、ゼミの合同イベントで同じ電車に乗ることになっている。案の定、同じ駅から同じ電車に乗った彼女を横目に、春樹は少し離れたところに立って心の中で笑った。合同イベントがあってラッキーだった。別に、それ以外でも接触しようとすればできるのだが、大学以外の場でなにかがあったほうが、特別感が出る。
彼女の方を確認すると、座席に座れたようで、大人しくいつも持ち歩いているリュックをひざに乗せて、文庫本を開いていた。タイトルは見えないが、文章量は相当ありそうだ。あれは、いつも本なんかを読んでるタイプなのだろう。自分とは正反対そうな彼女に、少し興味をなくしかけるが、賭けをしている以上、ここでやめるわけにもいかない。
車内アナウンスが流れて、自分と彼女が降りる駅に近づく。彼女はそこで開いていた本を閉じて、リュックにしまい、そのままそれを抱きかかえるようにしてふと目を閉じた。じっと見ていた春樹は、そこであ、と目を瞬いた。睫毛が長い。いつも薄化粧をしているらしい彼女だが、目元だけはすっぴんのままだと認識していた。しかし、これは…元々が長いのだろうか。それとも目元はすっぴんという認識は間違いだったのか。思わずじっと見入ってしまっていると、あまりにも長く見ていたので視線を感じたのだろう。そこで彼女は目を開いて、その瞳がこちらを捉えた。しかし、彼女は、春樹と目があった瞬間に驚いたように目を一瞬だけ大きくして、すぐに視線をそらし、少しだけきょときょととそれをさまよわせて、結局床を見つめだした。なにに驚いたのだろう。疑問に思いながらも、春樹はさらに彼女を見つめる。駅に着いた。ドアが開く。終点だから、すぐに降りる必要もない。春樹は流れに乗ってそのまま降りる列に加わるが、彼女は頑なに床をみつめたまま、まだ座席に座っている。どこまでも続く視線に耐えかねたのか、彼女が再びこちらと視線を合わせたのは、ちょうど春樹の位置が彼女の真ん前直線上になったときだった。今度は探るように数秒。さっきの一瞬を確かめるような、そんな目だった。逸らされると思った直前に、春樹はにっこりと笑ってみせた。どうだ。どうくる。笑ったら、さすがに笑い返すか。しかし、予想に反して彼女は、戸惑った顔をした後に、何かを探すように横やらを見たあと、彼女の隣の美人な女性を見、ほっと息を吐いて、そのまま、もうこちらに視線が戻ることはなかった。
は?
思わず、低い声が出そうになる。確かに、彼女の隣の美人も自分を見てはいるのだが(しかもなにを勘違いしたのか明らかに俺に笑いかけているのだが)。いや、待て。なんでそうなる。そうじゃないだろ。しかし、彼女の中で自分が美人に笑いかけていることはすでに確定事項らしい。もう、彼女は普段通りの様子に戻っていた。
なんでそうなる。
降りる直前に、彼女の隣の女が立ち上がり自分に近づいて(横入りだ)何事かを話しかけてくるのを適当にあしらいつつ、春樹は溜息を吐いた。視線ぐらいじゃ気づかないのか。
「ねぇって、聞いてる?」
「ああ、うん」
「さっき、あたしの隣の女があなたを見てたでしょ?あれ、絶対自分が見られてるって勘違いしてたぁ。ウケるー」
ふと耳に入った隣の女の笑い声が耳に障る。適当に愛想よく相手してればいいと思っていたが、どうやらよほど頭がお花畑の人間らしい。おもしろいことが多そうでなによりだ。急に、この脳内常春そうな女の機嫌を取るのがばかばかしくなる。別に自分がどうこう言っても、こいつの脳内はずっとお花畑に違いない。とりあえず。
「勘違いじゃねぇよ、」
「え?」
「だから、俺はあの子を見てたの。じゃあ、用事あるから」
「え、あ、ちょ…」
くそ。なんでこの女、あそこに座ってたんだよ。明らかに八つ当たりだ、自分も大概人のことは言えないが、しかしこの女も性格がすこし傾いているようなので、差し引きゼロだ。
彼女は、よほどストレートにいかなければだめらしい。それがわかっただけでも収穫か。
まあ、電車で降りるときに分かれたからといって、行き先は合同ゼミで同じなので焦る必要もない。とりあえずはのんびり駅のコンビニで昼飯でも買って、と算段をつけていると、通り過ぎた本屋に、彼女の後姿を発見する。どうやら、文庫本の棚の前にいるようだ。リュックの中に本があるはずなのに、また増やすのか、と顔が引きつりかけるが、これはチャンスだ。春樹は本屋に足を踏み入れて、驚く。店の外はほとんど壁で覆われているため気づかなかったが、ここの本屋は、案外広いらしい。見渡す限りの膨大な量のそれに、春樹はそういえば、と思い出す。なぜか自分は、本屋とか図書館とかそういうたぐいのところにいくと、必ず腹が痛くなるのだ。これは絶対、自分の本に対する拒絶だと思っているのだが、本当のところはわからない。案の定、今回もそうだった。しかし、特に急を要する痛さではなかったので、かまわず彼女に近づいて、その隣に並んだ。
「こんにちは」
声をかけると、彼女は本の上を滑っていた視線をそのままこちらに向け、今度こそちゃんと春樹で視線を止めた。
「こ、こんにちは…」
さらに挨拶を返してくれる。どうやら、ちゃんと話しかければ答えてくれるようだ。さっきの様子からして、黙り込まれそうだったのでなによりだ。
「さっき、電車で目合いましたよね」
「え、あ、すみません。あれは隣の人かと…」
「いや、俺も突然だったんで。今日、合同ゼミ一緒ですよね、だから思わず」
すみません、と謝ると、彼女はあわてて、あ、そうなんですか、と笑顔を作った。しかし、すぐに、ん?という顔をする。
「合同ゼミ、ということは、品川先生のゼミの方、ですよね」
品川というのは、春樹が所属するゼミの教授の名前だ。
「はい、そうです」
ここは嘘でもないので、特になにも思うことなくうなずいたが、彼女はさらに疑問が浮かんだらしい。
「なんで、私が品川先生のゼミと合同でイベントをする斉藤先生のゼミ生だとわかったんですか」
「え、」
それは彼女に関する情報の中にあったからなので、特になにも考えずに利用しようとしていたのだが、それをここでいうわけにもいくまい。
「前、斉藤先生とお話ししているのを、ちょっと聞いちゃって…盗み聞きですね、すみません」
「ああ、なるほど。そうなんですね」
付け足した言い訳だったが、彼女は素直にそれを聞いて納得したらしく、再び笑顔が戻る。同じ大学ということもあり、警戒が一段階下がったようだ。
「にしても、なんか、俺本屋とかにくると、必ず腹が痛くなるんすよね」
なんでですかねぇ、と世間話のつもりでさっき自分が考えたことを軽く口にしてみると、彼女は少し瞬きをして、数秒なにかを考えたあと、「それは、」と声をだした。
「はい?」
「たぶん、本のインクの匂いのせいだと思います」
「本のインクの…?」
「はい。本のインクの匂いには、利尿作用がある、となにかで聞きました。私もこういうところに入ると必ずトイレに行きたくなりますし。たぶん、えっと、」
「…あ、俺、小鳥遊です」
「小鳥遊さん、は、それのひどいバージョン、みたいな…」
「…へぇ?」
なるほど、そういうちゃんとした訳があったのか、と感心して彼女を見つめたまま返事をすれば、彼女はまたなにか勘違いしたらしく、あわてて目をそらして、
「あ、す、すみません、どうでもいいことをべらべらと…」
と付け足した。
「いや、すげぇなって思って」
「え?」
「俺、そういうの、特に疑問に思っても調べたことないんで、知ってるの、すごいなって」
「いや、たまたまというか…小耳に挟んだというか」
「でも、たまたまでもちゃんと頭に残ってるってことですよね」
「ま、まぁ…」
「ね、すごいです」
「あ、の…」
「はい?」
こういう世間話をぽんと放り込んだだけで出てくる彼女のことばに本当にすごいと単純に思ってほめていたので、きちんと彼女を見ていなかった春樹は、ふと再び彼女に目線を戻して、目を瞬いた。彼女の髪の毛は一つにくくられているのだが、そのおかげで表に出ている首筋やら耳やらが、少しだけ、赤く染まっている。
「ほ、褒められ慣れて、いないので、それ以上は…」
褒められていない、?
「…人に?」
「いえ、あの、だ、」
「だ?」
「男性に…」
一瞬、そんなに人と関わってこなかったのかと考えたが、どうやらそうではなく、単に男に褒められたことがない、つまり、男とあまり関わったことがない、ということらしかった。しかし、彼女は、どうやら彼女自身の発言でそのことを暴露してしまったという事実に気づいていないらしい。まあ、要するに、この今の彼女の反応は、照れている、ということらしかった。
「はは、照れてるんすね」
「……」
そのまま黙り込んでしまう彼女に、かわいいなあと素直に思った自分に、春樹は驚いた。読書好きなところといい、共通点をどこも見つけられずにいるのだが、そういうのは関係ないらしい。
「今日、どうせ行き先同じですよね。俺、合同ゼミの場所、いまいちわかってなくて、よければ一緒にいきません?」
「ああ、はい。私でよければ」
あっさりとうなずいた彼女に、この人、ちょっと警戒心なさすぎやしないか、と心配になる。自分だからいいようなものの、本当に変な人から道に迷ったとか言われても、ほいほいついていきそうだ。
「あ、俺、小鳥遊春樹です」
「桐生いづみです。よろしくお願いします」
知っていたが、別段、言わなくてもいいことなので黙っておく。
「あ、でも、私、お昼ご飯、コンビニで済ませようと思っているのですが…」
「俺もそうしようと思ってたんで、大丈夫です」
「よかった。じゃあ、これ、ちょっと買ってきますね」
彼女は、ほっとした表情になり、棚からとった文庫本を一冊掲げながら、レジの方に歩いていった。はい、と返事をしながら、彼女が持っていた本のタイトルに目をとめる。
彼女がレジに並んだのを見届けると、春樹は棚に目を戻して、同じ本を探して手に取った。どうやら、推理小説らしい。
…貸してほしいと言ったら、貸してくれるだろうか。
そんな仲になるのが、目標だろう。
とりあえず今日は、話ができて、知り合いになれたのでよしとする。
「桐生さん」
学生ホールで、一人、問題集を片手にお弁当を開いている姿を発見して声をかければ、彼女はすぐに顔をあげて「小鳥遊さん」と呼んでくれた。
「よかった、覚えててくれてた」
「名前覚えるの、得意なんです」
照れながらも得意げな彼女に、笑ってしまう。
「なんで笑うんですか」
「いえ、ちょっと」
話しかけるまでは、地味で大人しい印象だった彼女が、どんどん変化していくのが面白い。
「俺もここで食べていいですか」
「どうぞ。いま、荷物どけます」
テーブルいっぱいに広げられていたのは、どうやら英語の問題集と参考書の類いらしかった。
「英語、好きなんですか?」
自分もそうなので、やっと共通点が発見できたかと思いそう聞くと、彼女は、勢いよく首をぶんぶんと横に振った。なんだ、違うのか。
「そ、そんな、そういうことではなくて、ですね…」
「違うんですか」
なにか言うのを躊躇っているらしい彼女は、ちょっとうつむいて、ちらりと伺うようにこちらをみた。
「桐生さん?」
彼女の思考がさっぱりわからないので、首をかしげつつさらに尋ねると、恐る恐る、というように彼女が口を開いた。
「実は、英語が苦手で…」
「ああ、え?そうなんですか」
なんだ、そんなことか。なんだかそこに複雑な事情があるのかと勝手に勘ぐってしまった。
「別に、英語が苦手な人なんてたくさんいるから、そんなに躊躇わなくてもいいじゃないですか」
「…なんだか、私が英語が苦手だというと、ほとんどの人が驚いてしまうので」
「ああ、桐生さん、真面目そうですもんね」
「それで、問題を間違えたときの重圧がすごいといいますか…」
「なるほど…」
納得した春樹に、彼女は、はは、とごまかすように笑って再び問題集をテーブルの端に寄せて、どうぞ、と今度こそ春樹に席を差し出す。春樹は、ありがとうございます、と言って、彼女の真ん前に腰を下ろした。買ってきた弁当を広げつつ、うつむいたままの彼女を見つめて、口を開く。
「でも、桐生さん、ちゃんと勉強してるじゃないですか。苦手なのに、逃げないで、てか、逃げるどころか、昼飯の途中も勉強して」
それって、すごいと思いますけど。
素直にそう言ったところで、春樹はそういえばと思い出す。この人、男に褒められ慣れてないんだった。見ると、案の定、彼女はお弁当の箸を片手に持ったまま、なにもつかまずに、固まっている。顔はうつむいているのでよく見えないが、耳はよく見えた。…おお、よくそこまで赤く染まるものだ。
「す、すみません、私、また…」
「いや、俺もすみません…」
ここまで見事に照れられてしまうと、こっちまで恥ずかしい気がする。どうしたらいいんだろう。困ったところでしかし、彼女がなにかを決意したように顔を上げた。まだかすかに頬が赤い。
「が、頑張って慣れます…!」
「…はい、頑張ってください」
褒められるのに、頑張って慣れるのか。頑張らなければいけないのか、とずれている思考にちょっと笑える。だが、春樹の返事ももらい、彼女は自分のその決意により一層やる気を増したのか、よしっと、こぶしを握って、もぐもぐと再び弁当を食べはじめた。とりあえず、食事を終わらせることにしたらしい。
彼女は、英語が苦手なのか。そうか。春樹は、自分もお弁当をつつきながら、そこに立ち返って考える。彼女は英語が苦手で、自分は得意。なるほど、偶然知ったことではあるが、こういう手もあったか。
「桐生さん」
断られる可能性もあるが、まあ、提案はしてみようと口を開く。呼びかけると彼女は、ちょうどプチトマトを口に放り込んだところで、一瞬、右の頬が膨らんで、もぐもぐと噛んで、ごくりと飲み込んだ。きょとんとしている表情も相まってリスみたいだ。
「はい、なんですか」
「英語、俺が教えましょうか」
「え?」
「俺、得意なんで」
「え、でも、そんな、小鳥遊さんの貴重なお時間を私なんかのために…」
「いや、俺が言ってますし。つか、そんな断られ方、初めてされたわ」
思わず敬語が外れてツッコミを入れてしまった。やっぱりこの人、なんかずれてる。
「じゃ、じゃあ…お願いします」
「うん。ちなみに、英語の科目とかなんか入れてんの?」
もういいか、同い年だし、別に敬語なんかつけなくてもいいだろ。そう思いつつ、彼女を見ると、瞬きもせずにこちらを見つめていた。
「え、なに?」
「いえ、…小鳥遊さん、普段はそんなしゃべり方なんですね」
「う、まあ、」
自分で勝手に判断して敬語を外しただけに、ちょっとそこを改めて言われるとよかったのかと不安になる。いきなりすぎて距離を置かれでもしたら元も子もない。というか、そっとしておいてほしかった。
「あ、いえあの、別に、その、悪いわけではないので、気にしないでください」
「気になるって、そんな風に言われると」
「すみません、その、女の子相手では問題ないのですが、男の方だと切り替わりに慣れないといいますか、」
「じゃあ、そこも頑張って慣れて!」
「は、はい!」
延々と、自分の恥ずかしいところを掘り返されているような気がして、むきになって返せば、またも、頑張ります!と彼女が意気込んだ。よし、と返すと、ふふと、彼女の顔が綻ぶ。
「なに笑ってんの」
「ふふ、…小鳥遊さん、いま、照れてますよね」
初めて見ました、今日は新しい小鳥遊さんがいっぱいですね、とうれしそうに言うので、さらになんだか恥ずかしい。仕返しに、また褒めてやろうかとも思ったが、また照れられでもしたら、さらにのさらに、で恥ずかしくなる気がするのでやめた。
「よう、調子はどうだよ」
週の真ん中、水曜日。今日は午後から自分も彼女も授業がないので、毎週英語を教えることになっていた。あの賭けを持ちかけてきた友人が目の前に座ったのは、そんな日の昼ごろ、春樹が食堂でもくもくと定食を食べているときだった。
「なんの?」
わざとすっとぼけて返すと、友人は、自分も持ってきた同じ定食の箸を持ち上げながら笑っていった。
「お前、なんか変わったな」
「なにが」
「別に、なんとなくだけど」
そういいながら、友人―笹川満はこちらの定食のからあげをすっとつまむ。
「おい、返せよ」
「こんぐらいいいだろうが」
「だから、なにがだよ」
こいつの考えていることがさっぱりわからなくなって、ちょっとばかしむきになってから揚げを取り返そうとするが、うまくいかないまま、それは笹川の口の中に消えた。まじか、こいつ。
「桐生さん、」
もぐもぐと満足げに春樹のから揚げを食べきった笹川が、唐突にその名を口にした。賭けのこともあるので、なんとなく身構えてしまう。しかし、笹川の方はとくに何の気なしに続きを口にした。
「…が?」
「最近、かわいくなったな」
「は?」
そうだろうか。特に面識のないときと違いはなく、相変わらず普通で目立たないと思うが。いや、英語を教えるようになったからか、最近は自分が褒めても赤くなるほど照れることはなくなったか。慣れるように頑張っているのだろう。というか、
「周りが気づいてないだけで、あの人は最初からかわいいよ」
うん、よくみれば、睫毛が長かったし、別に肌が汚いわけでもない。飾らないだけで、別にかわいくないわけではなかった。
素直にそう思ったのでそれをまとめて口にすれば、目の前の友人は、にんまりと笑った。
「ほぉー」
「…なんだその顔、気持ち悪ぃ」
「ふぅぅん?」
「だから。なんなんだよ!つか、これから桐生来るんだからさっさとどっかいけよ」
邪魔だから、とは言わないがそういうつもりで追い払うように言えば、さらに笹川の笑みが深まった。しかし、今度は気色の悪い声は出さずに、へいへい、と返事をして早くも食べ終わった定食をトレーごと持ち上げる。そして、じゃあな、と手をひらりと振ってそのまま立ち去ろうとするが、思い出したように「あ、」と声を上げて、再び春樹の方に向き直った。
「なんだよ」
「お前、自分がイケメンだってこと、忘れんなよ」
今度こそ、声をはああ?と盛大にあげてしまいそうになるが、食堂だし、抑えてその背中を見送る。その確認の意味はなにか、それを考える前に、待っていた彼女が目の前に現れた。
「これ、あの、読みたいって言ってた、本です」
勉強を始めようとして、お互いに参考書などを広げていたら、急に意を決したように彼女が「小鳥遊さん」と呼ぶものだから、何事かと思って顔を上げれば、そう言って、彼女はあの、初めて話をしたときの本を差し出していた。ちょうど先週の勉強会のときに彼女が手元に持っていたので、これ幸いと貸して欲しいと申請していたのである。
「お、え、もう読み終わったの?」
普通に三百ページぐらいあるので、春樹なら二週間以上かかってしまうところなのだが。
「はい……というか、あの、」
「うん?」
「実は、おもしろくて三回も読んでしまって」
早く連絡して小鳥遊さんに渡さなくちゃとは思ってたんですが、ごめんなさい。と謝る彼女に呆気にとられる。しかし、しょぼんとしている彼女には悪いが、ちょっと、すごすぎて。
「三回って……、……ほんと、……桐生さん、す、ごいね」
笑えてしまって、こらえられているのか自信がない。
「なに笑ってるんですか……!」
やっぱり、こらえきれていなかったらしい。彼女がむっとしたようにこちらを見るので、もう構わず、声を上げて笑った。その笑いが落ち着くまでしばらく、彼女は参考書と大人しく向き合っていた。
「ははは、あー。すごすぎて笑える」
「笑わないでください。本当におもしろい作品だったんです」
「そっか、ふうん」
ふふと、笑いながら本を手にとって眺める春樹に、なんですか!とまた彼女がむすっとした顔をする。
「いや、楽しみだなーって。だって、桐生さん、今まで結構本読んできたでしょ?その、桐生さんがおもしろいって言うんだから、相当だろうなって」
「え、その、あの、……おもしろいっていうのは、私の主観であってですね、小鳥遊さんにはもしかしたら合わないかもしれなくて」
えーっと、と必死に説明しながら慌てて言い募る彼女に、うん、と春樹は一つうなずく。すると、彼女は困ったように黙り込んだ。
「そりゃ、俺、そんなに本読んだことないし、そうかもしれないけど。でも、きっと大丈夫。桐生さんと話してると楽しいし、勉強になるし。……だから、たぶん、桐生さんがおもしろいっていう本は、俺もおもしろいっていうと思う」
「なら、いいのですが……」
「うん」
「……あの、私も、小鳥遊さんと話してると楽しいですし、英語もお世話になっていて、だからその……ありがとう、ございます」
たぶん、春樹の言葉に一生懸命こたえようと、返そうとしてくれているのだ。桐生さんは、そういうこなのだ。
ぺこりと頭をさげて、本当にうれしそうな彼女の顔に、こちらまで笑顔になる。
「うん、じゃ、……はじめようか」
「はい!」
笹川の言葉の意味に思い至ったのは、久しぶりに会った女友達と話をしていたときのことである。
「はーるーきー!」
「ん?ああ、久しぶり、愛歌」
学生ホールで再会した愛歌とは、前に授業が被ったことがあって仲良くなった。分け隔てなく優しく、明るく、悪口も滅多に言わない彼女は、女からも男からも好かれる存在で、いろんな情報が耳に入るらしく、結構な情報通だ。ちなみに年上の彼氏と仲良く同棲中である。
「元気だった?」
「うん、なかなか授業被らないな」
「わたし日本語専攻だからね」
「そうか、俺、英語だもんな」
「そうそう。んふふー」
普段通りだった愛歌が、急に意地悪そうに笑う。
「え、なにその顔」
「えへへ、聞いてますぜ旦那、彼女、できたんだって?」
「は?いや、できてねぇけど」
「えー、でも最近、春樹に彼女ができたってもっぱらの噂ですけど~」
女には興味ないとか言われてた春樹がね、うんうん、としみじみとしてうなずいている。
「いや、そんなしみじみとして言われても、彼女とか―、」
言葉に詰まった春樹に、愛歌がやっぱりという顔をする。
「心当たり、あるんでしょ」
「ま、まあ、週一で会ってるし」
そうか、彼女のことか。桐生いづみ。最近、賭けとして多くの時間を彼女と過ごしている。
「…桐生さん、気を付けてあげて」
「え?」
「春樹、自分がイケメンだってこと、忘れちゃだめだよ。性の悪い女までひっかけちゃうんだから、ほんと、性質悪いよね」
うんざりした表情で言われる。
そこまで言われる筋合いはないのだが、結構な確率で性の悪い女も近づいてくるので、なにも言えない。笹川が言ったのも、そういう意味なのだろう。
「でも、春樹にしては素敵な女の子を見つけたもんだよ」
桐生さん、ほんと、いい子だからさ、幸せになってほしいよね。そういってまたもしみじみとうなずく愛歌。
「愛歌、桐生と知り合いだったのか?」
「うん。前に、彼氏にもらったペアのペンダント、無くしたことがあってね」
なくすなよ、とツッコミかけるが、今はそこじゃない。
「それで、あっちこっち探してたら、たまたま通りかかった桐生さんが、手伝ってくれたの」
もう、暗かったのにさ、家近いからって3時間くらいずっと。
そういう愛歌の声を聴きながら、春樹は、ああ、彼女ならしそうだな、と想像して思わず笑みがこぼれた。
「結局、その日は見つからなくて、でも、桐生さん、次の日の一限が始まる前にもう来てて、無くしたあたりをまた探してくれてて、で、私に言うの。今から、学生課に忘れ物の確認しに行きませんかって」
「あったのか?」
「あったの!学生課に。笑っちゃうでしょ。でね、桐生さんと一緒に飛び跳ねながら喜んだんだ。もちろん、言い足りないけどお礼もちゃんと言った!」
ふふ、と本当に楽しそうに笑う愛歌に、春樹も笑い返す。すると、それを目にした愛歌が、目を見張って今度は優しく微笑んだ。
「春樹、いい顔してる」
「え?」
「本当に、桐生さんのことが好きなんだね」
自分のことのように嬉しそうに愛歌が目を細める。しかし、春樹は、一瞬茫然として、それに返した。
「…まさか」
「ん?」
「なわけねぇだろ」
どこからきたかわからない苦味が、口の中に広がる。まさか。彼女は賭けの対象であって。別にそういう対象ではないのだ。笹川との、賭けの。
春樹を見ていた愛歌が、その表情に困ったように、眉を下げた。
月曜日。春樹はいつもなら午後から授業で、午前中はバイトなのだが、ゼミの発表がありその準備の関係で朝からゼミ室で過ごし、昼は食堂にきていた。いつもなら自分はいないので、なんとなく顔ぶれが違う気がするその食堂の隅に、彼女を見つけた。しかし、声をかけようとしたところで、彼女がひとりではないことに気づく。ほとんどの人には当たり前のことだが、彼女にも、友達がいるのである。女の子たちだけで三人集まっているようで、どうやら、マンガの話をしているらしい。ところどころではあるが、断片的に会話が聞こえて、悪いとは思いながらも、聞き耳を立ててしまった。
「だって、あのシーン、本当によかったじゃん」
「あそこでさ、あの、○●がさ、あんな風になるとは、」
「でもめちゃくちゃかっこよかったよ!本当、すきだー」
うん?となんとなく違和感を感じて、その正体を必死にさぐろうとまたさらに耳をそばだてるが、わからない。声?いや、違う。いつものトーンだ。変わらない。でも、なにかが。そう思ったところで、彼女が少しだけ大きな声を出した。
「てか、今度、あの本貸してくれない?」
はっとして、そこで気づく。
「おもしろすぎて、早く続きよみたい」
……彼女はいま、敬語じゃないのだ。
春樹が敬語をはずしても彼女はそのままだったので、てっきりそれが彼女の普段の話し方なのだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
その事実に、自分でも予想以上にダメージを食らって、しばらく呆然とした。
どうして。そればかりが、頭の中をぐるぐるしていた。
どうして。どうして彼女は。そう一日経っても考えたままの翌日。
「あ、小鳥遊さん」
「桐生さん?」
火曜日。三限が終わって教室の外に出ると、そこには彼女がいた。
「、どうした?英語は明日だよな」
昨日一方的に知ってしまったこともあり、どこか緊張して答えると、彼女は困ったように笑って話を始めた。
「はい。そのことでちょっとご相談が」
「うん?」
聞き返すと、彼女の顔にさらに申し訳なさそうな表情がのぞく。
「ごめんなさい、明日の英語はお休みしたくて」
「え?」
「ちょっと、外せない、急な用事ができてしまって」
「…そうか、うん。けど、それならメールでもよかったのに」
「いえ、教えていただいている身ですから、直接、と思いました」
それに、と彼女が笑顔で付け足す。
「今週は小鳥遊さんと会えないので、お顔を見ておこうかと」
なんだか、ずっと会っていたので、会えないと思うと、さびしくなりました。急にごめんなさい、と、また申し訳なさそうに彼女が笑うので、あわてて言葉を返す。
「いや、気にしなくていい。けど、その、」
思ったことを口にしようとして、迷う。春樹の躊躇いを伺って、彼女が首を傾げて先を促す。
「…いつでも連絡くれれば、別に、水曜じゃなくても、」
会おう、という言葉は、そこで躓いて続かなかった。しかし、彼女は受け取ってくれたのだろう。春樹の言葉に顔を綻ばせた。あ、と思う。これは本当にうれしいときの彼女の顔だ。しかし、すぐに眉が下がる。今度はえ、と驚く。今のそれは、見たことのない表情だった。
「ありがとうございます。じゃあ、また」
そういって、笑った彼女の顔はすでに元に戻っていて、もうさっきの表情は消えていた。
「…おう、また、来週」
くるりと後ろを向いた彼女のその姿を、春樹をじっと見つめる。
なんだか、ざわざわする。
敬語のことだけじゃなくて、もっとなにかが、自分に警告を与えようとしている。
『桐生さん、気を付けてあげて』
愛歌の忠告が、頭をよぎった。
水曜日の夕方。図書館に居残って勉強をしていた春樹は、帰る途中で共通棟の前を通って、ふと立ち止まった。
一瞬だが、彼女の姿が見えた気がしたのである。
違ったら、相当自分はおかしいやつだと思いながら、中に駆け込んできょろきょろすると、やはり彼女の後姿が奥の方に消えていった。桐生さん、と声をかけようとして、思いとどまる。共通棟は一、二年生が主に使う場所で、三年生の彼女は、もうほとんど用はないはずだ。そんな彼女がここにいるということに少しだけ違和感があった。なにか事情があるのだろう。
悪いと思いつつも、そっと後をつける。別になにかの講座だったらいいのだが、昨日の彼女の表情が心によぎって、同じように愛歌の忠告も思い出されて、そうせずにはいられなかった。
彼女は、ひとつの教室の前で立ち止まると、少しだけ周りを見渡して、中に入っていった。とっさに隠れた春樹は、間一髪でその視線から逃れる。
静かに近づいて、春樹は教室の中に耳を澄ませた。どうやら、彼女のほかに、数人、女子がいるらしい。その状況に、少し顔がこわばる。これは、まさか。やがて、不鮮明だった声が聞こえるようになる。
「来てくれたんだねー、桐生さん」
楽しげなかすれ気味の声。
「…はい、あの、それで、用というのは」
少し、震えているような彼女の声にずきりと胸が痛む。
「ええー?わかってるでしょぉ?」
最初女の声とは違い、間延びした声が高めの女の声が、そういってけらけら笑った。この声、どこかで。
「…小鳥遊さん、のことでしょうか」
そう、確かめる声に、なんだっ!わかってるじゃんっ!と今度は跳ねるように話す女の声がかぶさる。自分の名前がでた瞬間に、やっぱりそうなのかと眉間にしわがよる。
「ね、桐生さん、小鳥遊くんにかまわれて、楽しいぃー?ねぇ。楽しくないわけないよねぇ?」
「はい、楽しいです」
即答する彼女に少し心が浮きかけるが、聞き覚えのあるあの間延びした声が引っかかって、それどころではない。なんだ、どこで、どこで聞いた。
そのとき、中から、がんっという激しい音が響いて、びくりとする。どうした。なにがあった。慌てて耳を澄ませるが、うめき声のようなものは聞こえない。ほっとする。彼女が突き飛ばされたというわけではないらしい。
「即答してんじゃねぇよ!!」
さっきの間延びした声とは比較にならないような乱暴な口調だが、間違いなく同一人物だ。もう、声の主が喉のすぐそこまででかかっている。だれだ、こいつは。
ちょ、おちついて!サエ!という声が聞こえるが、その当のサエは落ち着く様子もなく、すぐにまた声が聞こえる。
「お前は知らないと思うけどぉ、いいこと教えてやるよ!!」
いいこと、の響きが尋常ではない。いったいなにを教えるというのか、彼女に。
「お前は、小鳥遊くんに、遊びで近づかれたんだよ!!!」
友達との賭けで?あんた落としたら勝ちなんだってさぁーーーー!!笑えるよね。
そう続いたその女のセリフに、今度こそ頭が真っ白になりかけて、そこで、ようやっと思い出す。こいつは、あのときの。
(脳内常春女――――!)
「…知ってましたよ」
そういった彼女の声は、耳には届いたが、脳には上手く伝わらなかったらしい。脳内常春女に気づいた瞬間にドアノブへとかけようとしていた手が動きを止める。
「あんっ?」
脳内常春女こと、サエらしき女の声は、不意をつかれて、裏返ったようだ。
「知ってましたよ。小鳥遊さんが、私に賭けで近づいたことは」
知っていた。…知っていた?どうして、
「あなたのように、頭の中が年がら年中お花畑でもなければちょうちょも飛んでいないので、それくらいわかります」
春樹の思考を読んだようなその悪口に、あ、誰でもそう思うんだとぼんやりとして、慌てて頭を振る。
「自分の身の丈ぐらい、自分が一番わかっていますから」
ずきり、と胸の痛みが増す。
…そうか。だから彼女は。
「彼のようにかっこいい人が、私なんかに構うなんて、おかしいんですよ」
春樹と必死に距離をとろうとして、敬語をいつまでも外さなかった。
「でも、」
そう続ける彼女のことばに、そっと耳を傾ける。
「…それでも、好きになってしまったんだから。結局、私も、あなたと同じ、脳内常春なのかもしれません」
好き、という言葉に、やっぱり、思った以上に自分も期待していたことに気づく。
賭けなど、もう、関係なく。どうしようもなく、期待していた。
「だって、少しでも、期待してしまったんです」
彼女が俺を、好きになってくれたらいいのに。
「私のこと、好きになってくれないかなって」
今度こそ、春樹はドアノブに手をかけて、それを開けた。
最初に目についたのは、呆然として、泣き続ける彼女を見つめる女たち。次に、彼女の小さな後姿。震える彼女に近づこうとして、自分も震えていることに気づく。…かっこわる。
目があった女たちが、かすかにほっとしたような顔をした。もしかしたら、自分たちがけしかけたはずなのに、どうすればいいのかわからなくて途方に暮れていたのかもしれない。
そっと、後ろに立った時、彼女が気配を感じたのか、振り返り、目があった。目の前で息をのむ彼女に、また、胸が痛んだ。
「た、小鳥遊さん、」
なんで、という声は、音にはなっていなかった。
「桐生さん、」
「…はい、」
なにを言われると思っているのか、少しだけびくびくしている彼女に、眉が下がる。
今からいう言葉に、彼女はどんな反応をしてくれるのだろう。
思ったように書けず、四苦八苦しました。何十回も読み直して話のちぐはぐさをなくしたつもりでしたが、この段階になって矛盾点に気づいていまにも溶け出しそうです。とりあえず、ばれないことを祈ります。
タイトルの意味は、百人一首からとりました。某アニメ映画でその意味を知ったので、たぶん、こういうことだろうと思ってつけます。
つたない文章を読んでくださり、本当にありがとうございました。