ファントゥーム号の檣楼にて
緩やかな風が流れている。
耳に届くのは、風を受け止めてしなる帆の音と、それの間を風がすり抜けゆく音。ロープが締まる音に、そうして、天空を航行する船を構成する游種の骨と木材とが軋み合う音。
游種とは、雲の湧き立つ空よりも更に上空に位置する大気の層に棲まう、おもに恐竜に似た巨大な生物のことだ。彼らは海の中にいるように、天空を泳いで一生を過ごす。
地上に生きるわたしたち人間は、天空の遥か上空で生きる游種という生物とは本来縁がない。
けれど、たくさんの時をかけて、亡骸となった游種の骨を利用し、大昔の人間たちは天空を行く船を作りあげていった。最初の頃は、高い高い山の頂に引っかかっていた僅かな骨で空に漕ぎ出していたという。空に漕ぎ出し、游種が棲む層の僅か下の層に漂っている骨やら死体やらを集め、研究をした。どの游種のどの部分が船に適しているのか、長い時間をかけて試行錯誤を重ね、そうしていま現在の帆船という形ができあがったのだ。
天空を走る帆船を、わたしたちは天帆船と呼んでいる。
わたしは、この天帆船ファントゥーム号の乗組員となって7年目、まだまだ7年目の甲板員だ。最初は「女が天帆船なんてとんでもねェ」という声が外部から、―――そう、他の乗組員はそれほど苦い顔をしなかったのに、外野がうるさかった。外野と言っても、天帆船組合だからまぁ、なんというか半分身内みたいなものではあるのだけれど。
結局、なんやかんやあったけど、どうにかこうして天帆船に乗って交易のため大陸間を往復する日々を送れている。
「あ。オーカの波跡かな」
前方の空を見上げていたら、遠く空の端に小さな筋を見つけた。
薄青い空の色に、爪痕のようなひとつだけの細い筋。
オーカは中型の游種で肉食だ。人間を襲うことはないけれど、高い高度まで飛ぶ鳥や游種層を泳ぐ游魚という魚そっくりの生物を食している。
つるりとした顔は愛嬌があって、うまく調教をすれば騎乗することもできる。
さすがにわたしは、游種に騎乗するのは怖さが先に立って無理だけど。
でも、かわいいんだよなぁ。天帆船の層まで降りてきた子たちに何度か遭遇したことがあるけど、つぶらな瞳でこっちを見つめてきて、小首さえ傾げてくる。きゅいきゅいという鳴き声は人間よりも大きな身体にはあまりも不似合で、あなた本当に肉食なの? っていうくらい愛嬌があって。
また気まぐれで、こっちに降りて挨拶してくれないかなぁ。
と、ほんの少しだけぼんやりしていたら、下からなにかがやってくる気配を感じた。
目を足元に転じると、わたしがいるこの檣楼へと続く縄梯子を誰かが昇ってくるようだ。
「よ、ユディ」
目が合った彼、ハシェクはにんまりと笑って返しながら、ひょいひょいと身軽に檣楼に身を上げた。彼は航天士。海を行く帆船で言えば航海士にあたる任務を負っている。いまは空も安定してるし、見張りの交代の時間でもない。ハシェクが来る必要性なんてないんだけど。
ハシェクは檣楼に立つと軽く伸びをして、周囲を見渡した。
「ん。オーカか」
目敏く見つけた天上の軌跡に表情をほんの僅か厳しくさせるも、すぐにこちらに視線を寄こしてきた。
「なにも問題ないか?」
「はい。なにごともなく至って平穏です」
と答えたものの、どこか棒読みになってしまったのは、彼がここに来た理由が不明だからだ。
「なにかあるんですか」
「まァな」
答えを濁らせ、ハシェクは腰に結びつけていた袋の口を開けると、サザディスと呼ばれるトカゲに似た游種を取り出した。トカゲというよりも蛇に近い形をしたサザディスは、身体の小ささに反してすばやさと持久力があるので、主に天空航行中の通信に用いられる生き物だ。足にはめた環の色やその模様を読み取ることで、連絡を取り合うのだ。
でも、いまは定時連絡の時間じゃないはずだけど。下で問題が発生した、とか?
「なにかあるんですか」
今度は、さっきよりも剣呑な声になった。
答えるよりも早く、ハシェクはサザディスを空に放した。左後足に赤い足環をはめていた。
赤の足環は、どんな意味だったっけ。
考えている間にも、サザディスは空を駆け抜け、上空に溶け込んでいった。
ハシェクはその方角をどこか寂しげに見つめている。
「達者でいろよぉぉぉ」
「? 達者で、って、……?」
まるで今生の別れのような言葉だ。
もしかして、連絡を取るために放したわけでは、ない?
確かにいま空に放した白いサザディスは、ハシェク一番のお気に入りだ。覚えてないけど名前までつけてたみたいで。
「そういう時期がきたからな。しばらくのお別れだ。オーカに喰われなきゃ、だけど。遠そうだから、ギリ縄張りは大丈夫かな」
「『そういう時期』?」
ハシェクはわたしを見下ろしてきた。彼はわたしよりも頭ひとつぶん……よりももっと背が高いから、こういう狭いところで見下ろされるのは、なんというか、ヘンな重圧を感じる。一歩、わたしは後ずさる。
「なんだと思う? ファントゥーム号乗りになって7年だろ。いろんなサザディス見てきて、この時期に現れたりする症状、あったりするだろ?」
「え」
症状?
さっぱり判らない。
そもそもわたしは下っ端甲板員で、通信士が扱うサザディスとはほとんど縁がない。航天士のくせにサザディスと戯れてるハシェクのほうがおかしいのだ。―――とは、とてもとても口が裂けても言えません。
しばらくじっとわたしのことを見下ろしてたハシェクが、急にがくりとうなだれた。
「だよなァ。お前が気付くわけねェよなァ」
「なんですかそれ。ちょっと失礼な物言いな気がするんですけど」
ハシェクはわたしよりも10年ほど年長者で先輩なわけだから、どんなにムカついても敬語は崩さない。それ以前に、わたしがファントゥーム号に乗船できているのは彼のおかげということもあるから、「はァッ!? なにそれ、はァァッ!?」と自分の心のままに答えることはさすがにできない。
わたしが内心のムカつきを表情で訴えようと顔を上げると、頭のすぐ上に、勢いよく腕が突き立てられた。
「!?」
咄嗟に身構えたときに閉じてしまったまぶたを開けると、すぐそこに男物の服の胸元が。目だけを動かすと、頭のすぐ上の帆柱に突かれた太い腕。違和感に下を見ると、不安定な場所だからと軽く開いていた膝の間を通って男物のブーツの爪先が、腕同様帆柱に突き立てられていた。
なッ……、なんですかこれは。
びっくりどころではなく、頭の中が真っ白になる。
いままでハシェクからこんなことされたことないし、そのせいなのか、あまりのことに心の臓が勝手に鼓動を速めてくる。逆光になってるから、たぶん真っ赤な顔の色まではバレてないはず。
わたしを閉じ込めたハシェクはしたり顔だ。
動こうにも、何故だか動けない。
なんか、悔しい。
「こんなところで危ないじゃないですか!」
いまさらで当たり前な抗議の言葉しか出てこないのも悔しい。
帆柱の反対側には出入りするための穴があいているし、檣楼は剥き出しなので下手をすれば落ちて大怪我をする。むしろ大怪我ですむのはごく少数だ。
「ヒントだよ、ヒント。お前判らないみたいだから、ヒント」
密着するように身を屈めて、ハシェクは囁く。
その、濃密な眼差し。
ここまでされたら、当てずっぽうだろうがなんだろうが、『時期』というのが発情期だとぴんと来るに決まっている。
游種にも、発情期がある。
生物には、子孫を残すためにそういった周期がある。
はっきりとした発情期というものを持たない人間だって、男と女がひとつの場所に押し込められたら、そりゃ、そういうコトも起こりうるわけだし。
起こりうるけど、もちろんわたしはこれまで決して決して決して絶対に一線を越えさせはしなかった。
当然ながらこれまで、乗組員たちから、女だからとからかわれたり危ない目に遭わされたりしてきた。そのたびに不自然なまでに気付かないふりだとか、遠慮なく得物での力に訴えたりなどしてかわしてきた。
―――けど、なんでだろう。
これまでだったら、ここで縄梯子からすぐに逃げるか相手を蹴り落とすかしてたのに、膝の力が抜けそうで、それに堪えるのにいっぱいいっぱいだった。
ううん。ダメよ。
この怯えを気付かれるわけにはいかない。
隙を見せたら終わりだもの。それを教えてくれたのは、まさにいま目の前にいるひとだ。
素知らぬ顔を装って答える前に、ハシェクはふっと笑んだ。
「正解」
「まだなにも言ってませんけど」
「顔に書いてある」
言って、すっと太い指でわたしの頬から顎にかけてを撫でてゆく。
「ハシェク!」
顔に、って、そんな誘う顔してないし。
裏返った声で抗議をすると、彼は帆柱についていた腕と足を離し、わたしを解放する。
薄く笑んでいたその顔が、すっと真面目なものになる。
「おれ以外には、許すんじゃねェぞ」
静かながらも、ドスの利いた声だった。
まっすぐにわたしを射抜く、茶色の瞳。
緩やかな風に揺れる黒い髪が、天の薄い青色に映えている。
「……」
わたしは、どういうわけか、……なんというか……、判りましたと何故かこのとき、頷いてしまったのだった。
了