#009 サングラス男
朝7時、アラームのセットした時間より1時間早い時間に春の玄関ドアをドンドンと叩く音がした。無視して、二度寝しようとしたが、春の行動を分かっているかのようにドンドンと続けて叩いてくる。
「ああ!!もう」
春は、イラつきながら布団を捲り、玄関の鍵を回しドアを開ける。ドアが壊れるほど叩いていた正体は神田優で、後ろにはサングラスを掛けた男が一人。
春は、顔を見て一度舌打ちすると勢いよくドアを自分の方に引いた。
「舌打ちしたけど優」
サングラス男が可笑しな光景を見たかのように笑って神田に言った。
ドアが閉める寸前、何かがドアに挟まって完全に閉める事が出来なかった。神田が、自身の左足を挟んだからだ。
「いってーーー!!ドア開けろ!」
「ちょっと!!その足引きなさいよ!あんたに、用はない!」
神田に負けないように引くが、そのうち、神田が足の痛みに耐えかねて左足を引っこ抜くとぴしゃりと音を立てて玄関のドアが閉まる。そして、同時に鍵がしまった。
「帰ってください!」
「人の話も聞かないで、失礼ですよ!」
「今更失礼もクソもない!」
神田は、イラッとしたがサングラス男に肩をトントンと叩かれ落ち着いた。一度咳ばらいをしてこう言った。
「私は、貴方を正式に雇うつもりです。前の会社も長年働いたんですから、問題ないはずです」
「問題あります。もう、関わっちゃったじゃない」
「あの事故はあなたの妄想です」
神田が言うと、後ろに立っていたサングラス男がぷっと噴き出した。
「何言ってんの?小学生みたいなこと言わないでくれます?帰って下さい」
「貴方にはやらなきゃいけない事がありますよね?…姉の借金とか」
すると、家の中から何かが倒れる音がした。しーんと静まり返った後に春が話し始める。地を這うような低い声で「なんで知ってんの?」と。
「こうでもしないと、あなたに取り合ってもらえない気がしたので」
「桜子さんが怖いからだよね」とサングラス男が余計な事を言った。
「貴方と私は利害が一致してる関係で、それ以外の何物でもない。これなら、納得しますか?」
「帰れ」
春は何も聞きたくないというように言い放った。
「あなたの姉は随分大変だったようですね。残ったのは治療費にかかった借金だけとか」
言葉をつづけようとした神田だったが、鍵が解除されてドアがゆっくり開いた。そして、俯いていた春はギュッと拳を掴み我慢していた。
「残ったのが借金だけなんて言わないで」
「私は現実的な話しをしに来ているんです。あなたは働いて借金を返済しなければならない。私は祖母のお店のオープンをしなければならない。だから、祖母が気に入った貴女を連れて行かなければいけないんです。不幸体質だろうが、なんだろうが、私には関係ありませんし。貴方のお姉さんの借金返済のお手伝いをしに来ているわけでもない。私の利益の為に来ているんです」
春は、「だったら!」と言い言葉をつづけた。
「だったら、何で焚き付けるような言い方するの!?私だって、あなたの利益に付き合っている暇、ないんだよ!」
高い所にある神田の胸倉を掴み上げた。
「人の事情を調べるような真似して、朝から訪ねてくる神経が分かんない!ふざけんな!金持ってるからって、人を馬鹿にしてんの?!あんたみたいな人、大っ嫌いなんだよ!帰れ!」
神田を掴みあげていた胸倉をそのまま押して追いやった。
「ねえ。さっきから聞いてればさ。君、自分を悲観視してるよね」
後ろで事の成り行きを見ていたサングラスを掛けた男が、それを取り胸ポケットにしまうと春に一歩近づいた。
「悲劇のヒロインにでもなったつもりなのかな?それこそ、鬱陶しいよね。君、この世で一番可哀想なのは自分だって思ってる?」
近づいてきた男から逃げるように春はもう二歩下がって距離を保つが、向こうからまた一歩近づいてくる。土足で家に上がった男を睨みあげるが、何物も凍らせてしまうような冷たい視線に狂気的なものを感じた。
「それとも、構って欲しくてわざと私が一番可哀想だって思いこんでるの?神田も言い方は悪かったけど、君も全く人の話に耳を傾かそうとしなかったのに一方的に帰れって言うのはどうなのかな?」
男はもう一歩もう一歩と近づいてくるので春は後ろに下がるしかなかった。
「その歳で、会社に就職するのは簡単じゃないよね。出来たとしても、適当な低賃金しかくれない会社に就職したら借金返済するまで何年かかるか分かったもんじゃない。僕たちも絶対君が必要なんて一言もいってないんだよ。桜子さんがどうしても君がいいって言うから訪ねてきたけど、僕たちは別に君じゃなくてもいい。選びなよ」
カタリと机に腰が当たりそれ以上後ろにはいけなかった。春はとっさに机にあった物を男に投げつけ、怯んだ隙に部屋から走って逃げた。玄関の前には神田が立っていたが、一度見上げて顔を伏せて逃げていった。